惨夢
「おっはよ! さっきぶりだね」
登校してきた柚に声をかけられた。いつも通り向日葵みたいに眩しい笑顔をたたえている。
「おはよう」
そう返し、日常が戻ってきたことを改めて実感した。
本来あるべき毎日が、死に怯えることのない日々が、こうして手元に。
だけど、何だか心に穴が空いている。
「でも何であたしたち、あんなとこで寝てたんだろうね?」
「……そうだね。わたしも覚えてないな」
柚に合わせてそう言ったつもりが、何だか本当にそんな気がしてきてしまう。
慌ててかぶりを振った。
(悪夢に、白石芳乃に、朝陽くん……。大丈夫、まだ覚えてる)
だけど、どうしてそんな悪夢に閉じ込められる羽目になったんだっけ?
どうしてわたしたちが集まったんだっけ?
「おはー。ねむ……あー、今日絶対寝るわ」
能天気な夏樹くんの声がした。
プールサイドで目覚めたときみたいに大きなあくびをしている。
「今日ってか、あんた毎日寝てんじゃん。……あれ、でもここ1週間はそうでもなかったっけ?」
「そう……かも。何でだろ?」
ふたりがそんなやりとりを交わしているうち、高月くんが教室へ入ってきた。
「高月くん」
思わず呼び止める。
たまらなくなった。曖昧な記憶が、無性に心細くて。
“彼”のことは、誰も知らない。元から存在しなかったかのように。
覚えているのはもう、わたしたちだけだ。
「……ああ、日南」
高月くんは少し意外そうに顔を上げ、わたしを認めた。
そういえば、わたしはどうして高月くんと話すようになったんだったっけ?
もともとは接点なんてないに等しかったはずなのに。
「あのね…………朝陽くんのことなんだけど」
自分で自分に戸惑った。
その名前は頭の中に浮かんでいたはずなのに、口にしようとしたら引っかかって、一瞬抜け落ちた。
「あさひ?」
不思議そうな顔で聞き返され、呼吸が止まる。
「それ、誰だ?」
◇
チャイムが鳴る。1時間目の授業が終わった。
ことあるごとに、渦巻く思考につい意識を引っ張られる。
もう、誰も覚えていない。
わたし以外には誰も知らない。
そんな“彼”のことを何度も考えていた。
────あのとき、屋上から突き落とすことでわたしを現実へ還してくれた。助けてくれた。
“彼”はいったい、何者だったんだろう?
本当の“彼”はどんな人だったんだろう?
右の掌をじっと見つめた。
まだ感触が残っている気がするのに、その温度も“彼”の顔もいつの間にか忘れてしまった。
桜みたいにはらはらと、記憶の断片が散っていく。
(────くん)
もう、名前も思い出せない。
だけど“彼”は確かに存在していた。
わたしの思い出の中で。すぐ隣で。
果たしてあれは夢だったのだろうか。
(あれ……?)
はたと我に返った。
戸惑いながら首を傾げてしまう。
わたし、誰のことを考えていたんだっけ?
「花鈴!」
楽しげな笑顔をたたえた柚がスマホ片手に駆け寄ってくる。
掲げられた画面には掲示板のようなサイトが表示されていた。
「学校裏サイトである怪談見つけたんだけどさ、今夜試してみない?」