惨夢

 地面を蹴った。
 ドアを開けて校舎内に飛び込むと、階段を駆け下りていく。

「はぁ……はぁ……っ」

 靴裏が何度も段を滑りそうになった。
 そのたびに力の入らない手で手すりを掴んで耐え、体勢が整わないうちに次の一歩を踏み出す。

 膝が震えてうまく走れない。床に着地するごとに、がくん、と崩れ落ちそうになる。

 真っ青な顔で1階までたどり着くと、渡り廊下から慌てて外へ飛び出した。

「芳乃……っ」

 上から見た通り、プール側の地面に彼女は倒れていた。
 気のせいかもしれないけれど、濃い血のにおいが鼻につく。

 悲惨な状態の彼女はもう動けないようだった。
 ただ、まだ意識はある。

「そ……ちゃん」

 虚ろな瞳が僕を捉えた。
 その呼び方を咎める気力すら湧かない。
 声を出したせいで、彼女の口から大量に血があふれ出す。

「たす……けて……」

「あ、ああ……」

 ポケットからスマホを取り出し、通報しようとした。
 彼女を冷たくあしらったり、(ののし)ったりする余裕なんてとうに消え失せている。

 だけど、はたと動きを止めてしまった。
 瀕死(ひんし)の芳乃を見下ろすと、迷いが巣くって暗雲を広げていく。

(助けて、いいのか……?)

 このまま芳乃を助ければ、彼女は僕に突き落とされたと証言するかもしれない。
 そしたら、僕は捕まる?

 それに、助かったとしてもいじめが終わるわけじゃない。今後も()りずに助けを求めてくるだろう。
 もしかすると、指輪を出しに脅してくるかも。

「…………」

 スマホをスリープする。
 放置していれば彼女は死ぬだろうか。でも、その前に誰かが来たら……。

 あたりを見回した。
 近くには園芸倉庫がある。鉈とかノコギリとか、凶器になりそうなものは揃っている。

 だめだ、と思い直した。

 下手に手を加えると他殺だと確定してしまう。犯人探しが始まる。疑われる。

「……っ」

 唇を噛み締め、歯を食いしばる。

 芳乃の握り締めていた拳を開くべく、指を剥がしていった。
 先ほどと違って、力を入れるまでもなかった。
 難なく指輪を回収する。

 目眩(めまい)を覚えながら、地面についた手を支えに立ち上がる。

 血が伸びてきて、思わず数歩後ずさると、芳乃と目が合った。
 怖くなって、僕はそのまま弾かれたように逃げ出した。
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