惨夢

 閉まっていたはずの屋上のドアは全開で、冷たい空気が流れ込んできていた。

 見える景色は真っ暗だ。
 もしかしたら戸枠の向こうは奈落かもしれない。

 そう思って怯んだけれど、ちゃんと地面があった。

「行こう!」

 柚が躊躇(ちゅうちょ)なく外へ飛び出す。
 頷いたわたしもあとに続いた。

 立ち入り禁止の屋上へは初めて出た。
 フェンスもなくだだっ広い空間が広がっている。

 朝陽くんの姿はなく、肌を刺すような鋭く冷たい空気が漂っていた。

「ここから飛び降りれば……」

 ふちから下を見下ろした柚が小さく呟く。
 真下に広がっているのは底なしの闇だ────。

「!」

 不意にぞくりと背筋が凍てつき、()られたように心臓が脈打った。

 嫌な予感がして、恐る恐る振り返る。

 ────ニタリ、とその口元に歪んだ笑みが浮かべられた。

 わたしたちの通ったドアの横に、あの化け物が(たたず)んでいたのだ。

「ゆ、柚!」

 慌てて呼ぶと、その存在に気づいた彼女は「うそ……」とこぼした。

 追い詰められた。

 校舎は崩落寸前、戻る余地なんてない。

 そもそも戻ろうとしたら、あの化け物とすれ違って行かなければならない。
 その間に鉈で真っ二つだろう。

 残された選択肢は、大人しく殺されるか、飛び降りるか。

 だけど、ここから飛び降りても生還できる保証はない。

 結局は奈落に飲み込まれて死ぬだけかもしれない。
 昨晩の高月くんみたいに。

(でも────)

「!」

 思考が割れた。
 目の前にいきなり化け物が現れたからだ。

「……っ」

 振り上げられた鉈を捉えた。

 咄嗟に避けようと後ずさると、足がもつれてその場に倒れ込んでしまう。

「う……!」

 ごと、とスマホを落とした。

 左の上腕(じょうわん)に焼けるような熱い痛みが走る。

 顔を歪め、思わず手で押さえると、指の隙間から生ぬるい血がどくどくあふれていった。

 痛い。痛い、痛い……!
 ほんのわずかに掠めただけなのに。

「花鈴!」

 はっとして顔を上げると、再びぎらついた刃が迫ろうとしていた。

 避けようにも硬直してしまって身体が動かない。

(死ぬ────)

 そう思った瞬間、ぐい、と地面についていた腕を後ろへ引かれた。

 バランスを崩したわたしはうつ伏せのような体勢で振り向いた。

 黒よりもさらに深い闇が目の前に迫って、そして真横を通り過ぎていく。

「……!」

 柚に手を掴まれたまま、屋上から投げ出されていた。

 傷からあふれた鮮血が(ひるがえ)って上る。

 反対にわたしたちの身体は風に煽られながら、急速に下へと吸い込まれていった。

 前後左右、何も見えない。
 あまりの衝撃と恐怖で息が止まっていた。

 暗闇の中を延々と落下しているような感覚に包まれ、ふっと全身から力が抜ける。

 いつの間にか意識を手放していた。
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