惨夢

「いやっ!!」

 メモを取り落とした。

 立ち上がろうとしたのにうまく力が入らなくて、尻もちをついたまま必死で後ずさる。

 床に手をつき、床そのものを掴むみたいにして無理やり腰を浮かせた。

 震えていた足がようやく平らなリノリウムを捉えてくれる。
 その瞬間、ふらつきながらも駆け出した。

「……っ!」

 勢いでつんのめった身体が倒れないように、数メートル先に着地する意識で速度を上げ続ける。

(やだ……! 死にたくない!)

 ライトが激しく上下する。
 視界が揺れて、目眩(めまい)を覚えた。

 東側の階段を無我夢中で駆け上がっていく。

 足がもつれて何度も転びそうになった。

 つまずくと段に手をつき、倒れる寸前でどうにか身体を持ち上げる。

 そのたび掌から電流を流されたような激痛が走るけれど、構っている余裕はなかった。

「はぁ……はぁ……っ」

 息を切らせながら階段を上り続ける。

 踊り場で身体を反転させるタイミングで後ろを確かめてみる。
 化け物の姿はない。

 だけど、確実に追ってきている。
 それが分かる。

 凍てついた空気が皮膚を撫で、わたしの後ろ髪を捉えて離さない。

 見つかったら終わりなんだ。
 どのみちワープしてくる。()くのは現実的じゃない。

 結局は上へ逃げるしかない。
 誰かが屋上の鍵を見つけてくれていることを願って────。

 恐怖から涙が滲む。

 惨殺された朝陽くんの姿が蘇って、意識をどろりと血が満たしていく。

「く……っ」

 ローファーを脱いだのは失敗だった。
 滑るし、うまく踏みしめられなくて思うように速く走れない。

 最上階へたどり着く。
 ドアは開いていなかった。

「そんな」

 絶望的な気持ちになるけれど、崩落が始まっていない時点で(なか)ば予想してはいた。

 だけど、だからこそ誰かが鍵を見つけたら、すぐには開けずにここで待ってくれているだろうと思っていた。

 そんな儚い期待は(むな)しくも砕け散った。

 バン! とドアの窓部分に両手をつく。

 その瞬間、音もなく忍び寄ってきていた死の気配に追いつかれた。

「う……ぅっ」

 ずるずると身体がドアを滑り落ちていく。
 真っ赤な血の跡を残しながら。

 がく、と膝をついた下半身がばったりと前に倒れた。
 その上にどさりと降って崩れ落ちる上半身。

 切断面から何かがあふれていく奇妙な感覚を覚え、襲いかかってくる激痛に(もだ)え苦しむ。

 ──ぽた……ぽた……

 薄れゆく意識の中、滴る水の音を聞いた。
 背後に化け物がいる。

 思わず振り向きかけたとき、ぼやけたわたしの視界に予想だにしないものが映った。

(え……)

 壁際に寄ってうずくまる人影。
 ちょうど死角になっていて気づかなかった。

(夏樹くん……?)

 膝を抱える彼と目が合う。

 どうしてこんなところにいるのだろう……。
 このままじゃ夏樹くんも殺されてしまう。

 “逃げて”。
 そう伝えようにも、既に声すら出せなくなっていた。

 朦朧(もうろう)とする意識が霞んで、黒く染まる。
 わたしは絶命した。
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