ダメな大人の見本的な人生

100:浄化される

 数時間後、おば様は帰って行った。
 床は入居時よりも光っていて、吸い込んだ空気が今までとは比べ物にならないほど綺麗で。掃除の大切さを思い知らされた美来は、この場所で新しい生活を始めるのかと思うと少し気分が明るくなった。

 美来が綺麗な部屋に酔いしれていると、すぐにまたインターフォンが鳴る。
 衣織が見に行こうとするので美来は焦って衣織より先にインターフォンの画面にかじりついた。ハルかもしれない。忘れ物を取りに来たとか。

 しかしインターフォンの向こうにいたのはハルではない。神社に居そうな祈祷師(きとうし)のコスプレをした男性だった。手には棒の先にティッシュのような白い何かを束ねてモフモフにした何かを持っている。

 男性は厳かな雰囲気を崩さない。もしかすると宗教の勧誘だろうか。しかし凛とした佇まいの男性には「今、幸せですか?」と問いかける様な静かで圧のある微笑みを浮かべそうな様子はなかった。

 情報量の多さに放心している美来をよそに、衣織は疑う様子もなく玄関を開ける。

「ちょっと……!!」
「俺が呼んだんだよ」

 〝俺が呼んだ〟という言葉に美来はフリーズする。
 祈祷師のコスプレをした人もしくは宗教勧誘の人だと思っていた人は、祈祷師のコスプレでも宗教の勧誘の人でもなく、祈祷師らしい。

 意味が分からない美来は穏やかな真顔を貫く祈祷師が玄関に足を踏み入れてからリビングに入るまでの様子を首の可動域が許す限り穴が開くほど眺めた。

 上半身をほとんど動かさずに歩く男性は、リビングの真ん中でピタリと足を止めた。

「では」

 すん、とした様子で言う祈祷師に、美来はほんの少し我に返る。

「始めさせていただきます」

 そういって頭を下げる祈祷師の向かいで、衣織が頭を下げた。

「よろしくお願いします」

 祈祷師の男性が「(はら)(たま)え」とか「浄め給え」とか言っている間、衣織はその様子を終始集中した様子で眺めていた。

 一体何を祓おうというのだろう。そして一体、何を清めようというのだろう。そしていったい今、自分は何を見させられているのだろう。

「祓い清められました」

 その一言を残して祈祷師は帰って行った。
 結局最後の最後までどうして祈祷師がやってきたのか意味が分からないまま放心していたが、衣織という一人の男の人物像が頭に浮かぶ。

 きっと衣織は〝ハル〟という疫病神の痕跡を跡形もなく祓いたかったのだろうという所に落ち着いた。

 本物の祈祷師が帰宅した後、もう流石にこれ以上はないだろうなと内心ほっとしている美来の隣で、なぜか衣織の方が一段落ついたみたいな態度でいる。

「これでやっと安心して生活できる」

 どう考えても、休日の朝から頼んでもいないのに勝手に家に上がり込まれて知らない人に掃除してもらって、知らない人に祈ってもらった家主のセリフだ。

 しかしそのどれもが本当に衣織らしい。

「ここまでするの?」
「するよ。本当は引っ越してほしいくらいだけど、それはさすがに美来さんが嫌がるかなって思って」

 引っ越しは嫌がると思ったのに(はら)われるのは嫌がらないと思ったこの子の思考回路が分からないが、きっと考えてもわからないだろう。

 しかし、やはり隣にいるのは安心する。

「衣織くん、この後予定は?」
「ないよ。どうして? デートしてくれるの?」
「しないけど……」

 そう言うと衣織は最初からわかっていたみたいに、残念そうでも落ち込んでそうでもない様子で「えー」と言った。

「鍋、食べる?」

 もう昼ごはんの時間はとっくに過ぎた。「変な時間だけど」付け加えて言う美来を衣織は目を見開いたまま見ていて、それからその表情のまま口を開いた。

「うん。食べる。食べたい」
「じゃあ、準備するね」

 美来がそう言って立ち上がると、衣織はリビングまで一緒についてきた。

「手伝う事ある?」

 衣織は前に鍋を作った時にも同じことを聞いた。しかしその時は、鍋なんて手伝ってもらう工程はほとんどないと、確かそんなことを思っていた。

「じゃあ、野菜切ってくれる?」
「うん。わかった」

 一緒に料理をする事の楽しさはハルに教えてもらった。しかしそれは言わなくてもいい事で。
 誰かに教えてもらったからこそ、本当に一緒に楽しみたい人と、そのひと時を楽しむことができる。
 きっとこれも、大人になるという事なのだと思う。

 隣にいる衣織と他愛ない話をしながら料理をする。今の自分は、初めて鍋をふるまった時の自分よりももっと楽しい事に時間を使って生きている気がする。

 鍋の準備ができると、衣織は美来が何を言わなくても自らミトンと食器を拭く為の布巾を手に取って、土鍋をローテーブルまで運んだ。

 二人で初めて鍋を食べた時、準備をした大きな土鍋は美来がリビングからローテーブルに運んで、衣織はソファーを背もたれにする位置を陣取っていた。

 そうだ。衣織は最初からずっと気遣いができる思いやりがある子だったわけじゃない。
 いつからだろう。衣織はいつから、いろいろなことをしてくれるようになったのだろう。

 そして思った。いつからかわからないが、気付いたら衣織は美来というひとりの女を大切にしてくれていた。それは日常にそっとひそんで紛れてしまうくらい当たり前の優しさで表現されて、いたるところにちりばめられていたのだろう。

 暖かい気持ちになって、美来は取り皿に鍋の具材をよそった。

「大好きな椎茸どうぞ」

 もしかすると衣織も自分と似たようなことを考えているのかもしれないと思った。衣織が嬉しそうに笑ったから。

「ありがとう」

 ただ笑い合っているだけの空間がこんなに幸せでいいのだろうかと思うくらいに。

 他愛ない話をしながら鍋を食べた。沈黙の間でさえ、テレビが見たいなんて一瞬だって思わない。衣織はいつも、人と食事をする楽しさを教えてくれる。

 二人で後片付けをする。美来は最初に鍋を食べた時に、自分が一人で後片付けをした事を思い出していた。全ての洗い物が終わると、衣織は電気ケトルでお湯を沸かし始めた。

 一年ほど前の出来事。あれから衣織はいつの間にか、きっとゆっくりと、自分の事を思って行動してくれていたのだろうと、美来は改めて思う。

 衣織はお湯が沸くと、コーヒーを入れようとインスタントコーヒーの粉を二つのマグカップに入れた。

「あっ、やば。入れすぎた」
「いいよ。苦くても飲めるから」

 少し焦った声を出す衣織をなだめると、衣織はスプーンで均等になるように粉を移動させる。

「実はさ、俺、コーヒーってあんまり好きじゃないんだ」
「え、そうなの!?」

 自分の分のコーヒーに沢山の砂糖と牛乳を入れながら言う衣織に、美来は思わず大きな声を出す。

「あんまり美味しいって思わなくて。だけど美来さんの家で牛乳と砂糖を入れたら結構好き」

 衣織にコーヒーを飲むかと問いかけた時にいつもいらないと言われていたことを思い出す。でも、無理して一緒に飲んでくれていたのだ。

 申し訳がない気持ちよりもまた新しい衣織の顔を見られた気がしたと思うのは、きっと自分が衣織を心から信頼している証拠でもある。

「って言うか美来さんと同じもの好きじゃないとか人生損してる気がしてイヤだから好きになってみたい。今度めっちゃ美味しいコーヒー一緒に飲みに行こうよ。調べとくから」

 衣織はいつも、寄り添おうとしてくれる。自分の手が届く範囲で、精一杯手を伸ばしてくれる。
 最近何度も思ったことを、また思う。
 やっぱり、衣織の事が好きだ。

「衣織くん」
「うん」
「私と付き合ってくれる?」

 美来は照れくさくてさらりと言う。
 しかしおそらく衣織の時間は止まったのだと思う。彼はぴたりと動きを止めた。
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