ダメな大人の見本的な人生

12:地獄の空気

 次の週の金曜日。

【今日、行く?】

 衣織からの連絡に、ただ鳥が飛行しているだけのスタンプを返す。

 すると〝OK〟という看板を持った不思議な生き物がお尻を振っているスタンプが返ってくる。

 曖昧なスタンプ一つでスナックに行くか行かないかがわかるのだろうか。
 どんな才能だよ。
 自分でもこのスタンプの意味がよくわかってないのに。

 しかし、そんな衣織との関係も悪くないと思っている自分がいる事は確かだった。
 気も使わなくていいし、付き合うだとか結婚だとか将来を気にしていない。

 つまり無意識に思わせぶりな態度を取ったとしても、テキトーに流してくれる。

 こうやってたまに会うくらいなら悪くないとすら思っていた。
 最初の頃から比べれば大出世だ。

 他人事のように考えながら、会社からスナックへと向かう。

「いらっしゃい」

 いつも通り出迎えてくれる美妙子に「こんばんは」と返事をする。
 テーブル席には見た事のないお客さんと、カウンター席には先約、衣織がいた。

「あのスタンプでよくわかるね」
「うん。美来さんの事は何でもわかる」
「わー、ありがとう」

 美来は平坦な口調で衣織の話を流しながら、彼の隣に座った。

 しっかりと区切りをつけた訳ではないが、自分の中で衣織の立ち位置があらかた固まりつつある。
 〝年下の可愛い男の子〟だ。
 後はどうにかストーカー行為だけをやめさせなければ。

 衣織の隣で一息ついてから、喋らない彼に視線を向けると、衣織はぶすっとした顔を作っている。

 そんな顔もするんだ。というときめきは、異性にというよりかわいい子に対して。なのだと思う。

「なんか美来さん、俺の事テキトーに扱ってない?」
「ないない」

 しかしその返答に、衣織はひまわりの種を備蓄したハムスターみたいに頬を膨らませる。

 そんな顔もするのか。
 母性というのはこういう感情なのではないだろうかと思った。

 ああ、今日も本当に顔がいい。

 ドアの鈴が鳴り、美来がそちらに視線を移すとそこには実柚里がいた。

 げ、と思い、隣に座る衣織に視線を移したが、衣織はちらりと実柚里を見ただけで大して何も感じていないらしい。

 実柚里はちらりと衣織を見たが、すぐに美来に視線を移した。

「隣いい? 美来さん」
「え? 隣、うん。勿論。どうぞ」

 急に壊れたロボットの様に単語のみの返答になった事は、実柚里は気にしていないらしい。

 なんで?
 誰だっけって言われて悲しんでたよね?
 あのことはもうお互いに忘れたの?
 お互いにメンタル強すぎじゃない?

 左から、実柚里、美来、衣織の順番で座るカウンター席。

 ここは地獄か?
 なんで私を挟むの?
 まず二人は腹を割って話し合いをすることが先なんじゃないの?

 実柚里と自分との間に挟まれたハルはこんな気持ちだったのかとしみじみ感じ、少し自分の行いを改めようと美来は誓った。

「ね、またデートしようよ、美来さん」

 衣織は本当に全く、一ミリもいつもと態度を変えずに笑顔で美来にそう問いかけた。

 嘘だろ。この状況でも? この状況でもデートの話いける? メンタル強すぎだろ。と思った美来はどうにか非常識野郎に気付かせてやろうと咳ばらいをしたが、衣織は不思議そうにしているだけだった。

「どうしたの? 風邪引いた?」

 衣織は眉を潜めてそう問いかける。

「うん、そうかも。風邪ひいたかも」
「じゃあ、のど飴買いに行こう」

 喉元まで〝そうだね、じゃあ行こっか〟と出かけた。
 この地獄のような空気から一秒でも早く脱出するために。

 しかし、あと少しで喉元から言葉が零れるという所で、ふと冷静になる。

 実柚里がいるのに、あえて二人きりになるなんて嫌がらせだろ。

「いや、大丈夫。そこまででもないから」

 そう言うと衣織は「そっか」と言いながらあっさりと引き下がった。
 実柚里の表情をちらりと見ると、気にしていない顔をして水を飲んでいた。

 これはどっちだ。本当に気にしてない?
 それとも、必死に隠しているのかな。

「で、どこに行く? 美来さんどこか行きたいところある?」

 もう本当に勘弁して。と思っていると、後ろでベルの音がした。
 美来は振り返るよりも前に何となく察していた。これが救いの鐘の音という事に。

 美来が振り返ると、そこには踵を返そうとするハルがいた。

「あ、ハルー!! どこいくのー? こっちおいでよー!」

 美来の言葉で、衣織と実柚里も出入り口を見る。

 ハルの考えなんてお見通しだ。
 カウンターに座るメンバーが目に入った時点で、絶対にトラブルに巻き込まれると思ったに違いない。

 テーブルに座る客と「いらっしゃい、ハルくん」という美妙子の視線まで集めたハルは引くに引けず、結局しぶしぶカウンターに歩いた。

「お前マジで……」

 ハルはたっぷりの恨みを込めて美来にそういうが、どれだけ汚い言葉で罵られようが、この地獄の空気よりは全然マシだという確信があった。

 衣織よりはまだマシだと判断したのだろう。ハルは実柚里の方向。
 カウンターの左側の端に実柚里との間をいくつも開けて座った。

「なんでそんなに離れるの?」
「いや、何でって……」

 しかし残念なことに即刻、実柚里の疑問が飛んでくる。

「理由がないならせめて一つ隣とかにしてよ。なんか寂しいじゃん」

 そうはっきり言われるとさすがのハルも何も言えないのか、黙って実柚里の一つ開けた隣に腰を下ろした。

 ハルが言葉でいい負かされるのは初めて見た。
 この子はもしかするとダークホースかもしれないと、美来は思った。

 後ろのテーブル席から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。

 ハルと美来が最悪の雰囲気の打開策を模索している中、美来を挟んだ両端の張本人たちは至って平気そうな顔をしている。

 どうしてこの状態でもお互いの事をまるで空気のような態度でいられるのだろう。
 ハルとちらりと視線を合わせる。

 カウンターはシンと静まり返っていた。
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