ダメな大人の見本的な人生
16:調子に乗った
「大丈夫?」
衣織は笑いながら、ベンチに横になっている美来にペットボトルの水を差し出した。
これが大丈夫に見えるか? と恨み言が心の中に浮かびながらも、水を受け取って「大丈夫」と蚊の鳴く様な声で返事をした。
化粧が崩れる事も気にせずに、ある程度水滴を袖で拭いて額に当てる。
調子に乗ったのは自分の方なのだから、退屈していることに対して文句の一つくらい出てきていいと思う。
しかし衣織は、美来の体調が回復するまでの間、文句ひとつ言わずに黙って美来の隣に座っていた。
「ごめんね、衣織くん。暇でしょ」
「美来さんの顔面が近くにあるのに暇だと思う?」
笑顔を貼りつけてそういう衣織に、そうだ、この子はそういう子だった、と思った。
気分の悪さが抜けきらない。
ただ、じっとしているのは退屈なくらい体調が回復しても、衣織はスマホをいじることもなくただぼんやりと、遊園地の景色を眺めていた。
たくさんの人が楽しそうに笑いながら通り過ぎていく。
その様子と、誰かに寄り添ってもらっている事実が、ほんの少し、センチメンタルな気持ちにさせた。
「大学って、どんな感じ?」
美来は目を閉じて温くなったペットボトルの感覚に意識を向けながら、何となく、衣織にそう問いかけた。
「うーん。別に普通だけどね。退屈な講義は退屈だし、楽しい講義は楽しいし」
自分の大学時代を思い出してみるが、講義を楽しいと思ったことなんてほとんどない。
一風変わった教授の講義は何となく面白かったという印象はあるが、それも思い出せと言われれば難しい。
「講義楽しいとかあるんだ」
「あるよ。興味あるのは楽しい。だけど、つまらないものはどうやってもつまらないから、出ない」
「でないの? それで単位取れる?」
「うん。ピッって出席のヤツだけしてれば、人数多いからわからない」
「あー。やってたやってた」
美来は昔の事を思い出しながら、笑顔を浮かべる。
自分も大学生時代には、出たくない講義には衣織と同じ手段を使って逃れていた。
人数が多い講義にだけ使える技だ。
「でもあまりにもギリギリだと、もう教授きちゃうよね」
「そう。それでこの前出られなくなって結局受けて帰ったもん。何も持ってきてなかったのに」
「うわ、懐かしい」
美来は含み笑いを浮かべて、自分の大学時代の事を思い出していた。
当時は高校から上がったばかりで、若さの価値も知らなかった。
何となく生活していればちやほやされて、少しでもいい事を言えば、若いのに凄いね、と言われて。
大学は人生の夏休みとはよく言ったものだ。
もしかするとあの時は自分の人生の黄金期だったのではないかとすら美来は思っていた。
「じゃあ、休みの日はどんな事してるの?」
「車で遠くに行ったり」
「ああ! やってた!」
美来は思わず声を張って、それから笑った。
免許を取りたてで、運転ができる事がとにかく嬉しかったという覚えがある。
順番に運転をして、キャンプに旅行。無駄に遠くのショッピングモールにも行った。
楽しそうだと思う事は何でもやった。
運転が苦手になったのはいつからだろう。
美来にはあの時の自分が本当の自分なのか、今の自分が本当の自分なのかわからなくなっていた
大学時代の自分が怖いもの知らずで、今の臆病な性格が本来ものであるような気もするし、社会に揉まれてこの性格になった様な気もする。
いつから〝懐かしい〟という感情と隣り合わせで、寂しさ感じるようになったのだろう。
衣織も大人になれば、十以上も年の離れた女に付きまとっていた行為を〝気の迷いだった〟とか〝若かったから〟とか、そんな理由をつけて心のうちに仕舞い込める時が来るだろう。
やっとまともに動けるまでに回復した頃には、外はもうかなり暗くなっていた。
「ごめんね、私のせいで」
「ううん、別にいいよ。また来たらいいじゃん」
衣織はさも当然と言った様子でそういう。
美来は起き上がって、少し離れた衣織の隣に腰を下ろした。
「衣織くんはさ、どうして」
〝私に構うの?〟という言葉の続きは言わなかった。
顔がタイプだから。
聞かなくてもわかり切った事。
そしてそれはいつか、簡単な理由で片付くのだろうと予測したばかり。
今日の1日が本当に楽しかったから。非現実的な世界にいるから。これから夜が始まるから。そしてまた、明日が来てしまうから。ちょっと感覚がおかしくなったのかもしれない。
どうかしている。
「彼女、作らないの?」
我ながら、とっさに出たにしては外れていない質問だと思った。
願望なのかもしれない。
こればかりは自分にこれだけ構うのだから恋人はいないはずだ。という事ではなくて。
これで彼女がいても平然とデートに誘う最低野郎という事はないよね? という衣織の人間性を確かめるための物であった。
「この前フラれたばっかだよ」
「あ、そうなんだ」
「美来さん見てたでしょ? 好きな人って言ったら、怒っちゃった子」
結論:人間性は底辺
随分と素直な答えだ。もう少し取り繕うとかした方がいいと思う。
アウトだ。彼女いるのに合コンに参加して、年上を誑かしてやることやってるって、もうどう考えてもアウト過ぎる。
「衣織くん、最低な自覚ある?」
「うーん、どうかな。さすがにあるかな」
これだけの事をしておいて〝さすがにあるかな〟
いつか女に刺されて殺されても納得だ。
女の子が自分と衣織が体の関係を持ったという事に気付かなかったことをひたすらに祈った。
ちょっと絆されかけたが、やはり根本は女の敵だ。
そして柄にもなく、この子の将来は大丈夫なのだろうかと思った。
「やっぱ向き不向きってあるよ」
衣織は諦めた様な、間延びした声でそう言うと、ベンチの背に身体を預けて暗くなった空を見上げた。
いったい何がダメなんだ。
女関係なんてその顔と口があれば得意分野に決まっている。
「恋愛って、めんどいよね」
その言葉になぜか胸がズキンと痛んだ、気がした。
なんで、なんで。
別に恋愛が面倒だからって何の関係もない。
関係ないどころか、むしろラッキーなはずだ。将来を望んでデートがしたい訳ではないんだから。
焦ってそう考えながら、「そっか」と短く返事をする。
遊園地の明かりは、暗い夜を煌々と照らしていて、その下でみんなが楽しそうに笑っている。
それを冷静にはたから眺めているのは、なんだか虚しい気持ちになる。
何もかも平均のど真ん中だったら、こんな不必要な悩みは持たなくてよかったのかもしれない。
この感覚は、まるで魔法が解けたみたいだなんて思っていた。
「美来さん、あれ乗って帰るくらいの元気はある?」
衣織はそう言うと、観覧車を指さした。
衣織は笑いながら、ベンチに横になっている美来にペットボトルの水を差し出した。
これが大丈夫に見えるか? と恨み言が心の中に浮かびながらも、水を受け取って「大丈夫」と蚊の鳴く様な声で返事をした。
化粧が崩れる事も気にせずに、ある程度水滴を袖で拭いて額に当てる。
調子に乗ったのは自分の方なのだから、退屈していることに対して文句の一つくらい出てきていいと思う。
しかし衣織は、美来の体調が回復するまでの間、文句ひとつ言わずに黙って美来の隣に座っていた。
「ごめんね、衣織くん。暇でしょ」
「美来さんの顔面が近くにあるのに暇だと思う?」
笑顔を貼りつけてそういう衣織に、そうだ、この子はそういう子だった、と思った。
気分の悪さが抜けきらない。
ただ、じっとしているのは退屈なくらい体調が回復しても、衣織はスマホをいじることもなくただぼんやりと、遊園地の景色を眺めていた。
たくさんの人が楽しそうに笑いながら通り過ぎていく。
その様子と、誰かに寄り添ってもらっている事実が、ほんの少し、センチメンタルな気持ちにさせた。
「大学って、どんな感じ?」
美来は目を閉じて温くなったペットボトルの感覚に意識を向けながら、何となく、衣織にそう問いかけた。
「うーん。別に普通だけどね。退屈な講義は退屈だし、楽しい講義は楽しいし」
自分の大学時代を思い出してみるが、講義を楽しいと思ったことなんてほとんどない。
一風変わった教授の講義は何となく面白かったという印象はあるが、それも思い出せと言われれば難しい。
「講義楽しいとかあるんだ」
「あるよ。興味あるのは楽しい。だけど、つまらないものはどうやってもつまらないから、出ない」
「でないの? それで単位取れる?」
「うん。ピッって出席のヤツだけしてれば、人数多いからわからない」
「あー。やってたやってた」
美来は昔の事を思い出しながら、笑顔を浮かべる。
自分も大学生時代には、出たくない講義には衣織と同じ手段を使って逃れていた。
人数が多い講義にだけ使える技だ。
「でもあまりにもギリギリだと、もう教授きちゃうよね」
「そう。それでこの前出られなくなって結局受けて帰ったもん。何も持ってきてなかったのに」
「うわ、懐かしい」
美来は含み笑いを浮かべて、自分の大学時代の事を思い出していた。
当時は高校から上がったばかりで、若さの価値も知らなかった。
何となく生活していればちやほやされて、少しでもいい事を言えば、若いのに凄いね、と言われて。
大学は人生の夏休みとはよく言ったものだ。
もしかするとあの時は自分の人生の黄金期だったのではないかとすら美来は思っていた。
「じゃあ、休みの日はどんな事してるの?」
「車で遠くに行ったり」
「ああ! やってた!」
美来は思わず声を張って、それから笑った。
免許を取りたてで、運転ができる事がとにかく嬉しかったという覚えがある。
順番に運転をして、キャンプに旅行。無駄に遠くのショッピングモールにも行った。
楽しそうだと思う事は何でもやった。
運転が苦手になったのはいつからだろう。
美来にはあの時の自分が本当の自分なのか、今の自分が本当の自分なのかわからなくなっていた
大学時代の自分が怖いもの知らずで、今の臆病な性格が本来ものであるような気もするし、社会に揉まれてこの性格になった様な気もする。
いつから〝懐かしい〟という感情と隣り合わせで、寂しさ感じるようになったのだろう。
衣織も大人になれば、十以上も年の離れた女に付きまとっていた行為を〝気の迷いだった〟とか〝若かったから〟とか、そんな理由をつけて心のうちに仕舞い込める時が来るだろう。
やっとまともに動けるまでに回復した頃には、外はもうかなり暗くなっていた。
「ごめんね、私のせいで」
「ううん、別にいいよ。また来たらいいじゃん」
衣織はさも当然と言った様子でそういう。
美来は起き上がって、少し離れた衣織の隣に腰を下ろした。
「衣織くんはさ、どうして」
〝私に構うの?〟という言葉の続きは言わなかった。
顔がタイプだから。
聞かなくてもわかり切った事。
そしてそれはいつか、簡単な理由で片付くのだろうと予測したばかり。
今日の1日が本当に楽しかったから。非現実的な世界にいるから。これから夜が始まるから。そしてまた、明日が来てしまうから。ちょっと感覚がおかしくなったのかもしれない。
どうかしている。
「彼女、作らないの?」
我ながら、とっさに出たにしては外れていない質問だと思った。
願望なのかもしれない。
こればかりは自分にこれだけ構うのだから恋人はいないはずだ。という事ではなくて。
これで彼女がいても平然とデートに誘う最低野郎という事はないよね? という衣織の人間性を確かめるための物であった。
「この前フラれたばっかだよ」
「あ、そうなんだ」
「美来さん見てたでしょ? 好きな人って言ったら、怒っちゃった子」
結論:人間性は底辺
随分と素直な答えだ。もう少し取り繕うとかした方がいいと思う。
アウトだ。彼女いるのに合コンに参加して、年上を誑かしてやることやってるって、もうどう考えてもアウト過ぎる。
「衣織くん、最低な自覚ある?」
「うーん、どうかな。さすがにあるかな」
これだけの事をしておいて〝さすがにあるかな〟
いつか女に刺されて殺されても納得だ。
女の子が自分と衣織が体の関係を持ったという事に気付かなかったことをひたすらに祈った。
ちょっと絆されかけたが、やはり根本は女の敵だ。
そして柄にもなく、この子の将来は大丈夫なのだろうかと思った。
「やっぱ向き不向きってあるよ」
衣織は諦めた様な、間延びした声でそう言うと、ベンチの背に身体を預けて暗くなった空を見上げた。
いったい何がダメなんだ。
女関係なんてその顔と口があれば得意分野に決まっている。
「恋愛って、めんどいよね」
その言葉になぜか胸がズキンと痛んだ、気がした。
なんで、なんで。
別に恋愛が面倒だからって何の関係もない。
関係ないどころか、むしろラッキーなはずだ。将来を望んでデートがしたい訳ではないんだから。
焦ってそう考えながら、「そっか」と短く返事をする。
遊園地の明かりは、暗い夜を煌々と照らしていて、その下でみんなが楽しそうに笑っている。
それを冷静にはたから眺めているのは、なんだか虚しい気持ちになる。
何もかも平均のど真ん中だったら、こんな不必要な悩みは持たなくてよかったのかもしれない。
この感覚は、まるで魔法が解けたみたいだなんて思っていた。
「美来さん、あれ乗って帰るくらいの元気はある?」
衣織はそう言うと、観覧車を指さした。