ダメな大人の見本的な人生
21:これが大人
「来客がないときは依頼が来てるデータを入力するんだけど――」
「まずは社内の人と約束があるのかどうか確認してね。そうじゃないと――」
「営業の電話が入ってきたら、基本的にはお断りね。マニュアルは――」
午前中が終わっても、まだ午後がある。
若さという最強の武器を持つ可愛らしい新入社員に仕事を教える。
しっかりと教えないと、と思っているのに、自分の立場が危ないかもしれないとも思っている。
そんな瀕死の金曜日。
【今日行く】
耐えかねて連絡を入れたのは、これからもうひと頑張りしなければいけないお昼時だった。
ハルはきっと今頃家の中でのんびりしているのだろう。
真っ当な人間は起きている時間だが、もしかすると起きてすらいないかもしれない。
「いらっしゃい」
スナックみさに足を踏み入れて、いつも思っていた。
足を踏み入れて最初の美妙子の一言に、いつも安心する。
ここに居てもいいのよ、と言われているみたいに。
毎週、一度、二度と訪れているこの場所でいつも安心していたのに、そう思うこと自体が、随分と久しぶりの事の様に思った。
スナックの中にハルはいない。
今日は来ないのかもしれないと思いながら、斉藤と巽が一つあけて隣に座るカウンターに、美来もまた一つ巽の隣に席をあけて座った。
「美来ちゃんが来ているのに、衣織くんは来てないね」
「本当ね。それに実柚里ちゃんも。二人ともいないのは随分久しぶりじゃない? 美来ちゃん」
巽は美来を見ながら、美妙子はグラスに氷を入れながら美来に問いかけた。
言われてみればそうだ。
ここ一か月は来るたびにどちらかがスナックにいた気がする。
「確かに、久しぶりだ」
だからか。
この場所は以前の様に雰囲気が落ち着いていて、どっしりと構えて寂しい人たちを受け入れる準備をしている様に思えた。
斉藤や巽とゆっくり話すのも、久しぶりだ。
いつもは常連同士、来るたび仕事の愚痴やらなんやらを吐き出していたのに。
「あの子は本当に美来ちゃん、美来ちゃんだね」
「本当にね」
巽の言葉に、美来はしっかりと衣織への呆れを混ぜてそう言った。
今日、衣織からの連絡はなかった。
きっとお姉さんと一緒にいるのだ。と、本当に勝手な想像でそう思っていた。
いかんいかん、そんな勝手に想像するなんて。と思う罪悪感の様な気持ちもあれば、でもそれ以外何があるの。という開き直った気持ちもある。
どうしてこう二つ相反した 気持ちが同時に出てくるのか。
美来は皆に気付かれない様に、ほんの少し溜息をついた。
「いいわね~。あんな可愛い子に懐かれて。羨ましい!」
美妙子はもう完全に衣織に取り込まれている。
衣織にはこびている様子なんて微塵も感じられない。それは勿論、美妙子もだが、美来は自分に対する衣織の態度にも同じことを感じていた。
出入口のドアのベルが鳴る。
四人が振り返るとそこにいたのはハルだった。
「おお、来た来た。俺達の希望の星」
「勝手に俺の事希望の星にすんなよ」
そういうとハルは美来の一つあけた隣に腰を下ろした。
いつもの風景だ。
心がダメになりそうになった時、いつも支えにしてきた場所の、いつもの風景。
「あ~、頭痛ェ」
ハルは絞り出したようにそう言ってカウンターについた腕で、頭を支えた。
「一応聞くけど、何で頭痛いの?」
「今日の朝まで酒飲んでたから」
本当にこの男は解答を外さない。「だと思った」という美来と美妙子の声が重なる。
斉藤と巽は声を上げて笑っていた。
「これだから好きなんだよ、ハルくんは」
そういう斉藤に、巽はうなずいて同意している。
ハルの基本はテキトー人間だ。
その日が楽しければそれでいいし、自分が不快になる様な事はしない。
人間は集団生活をしていれば、自分が不快だと思っている事もしなければいけない。
しかしハルは、本当に自分の意見を頑なに曲げない。
「テキトーに生きてて他人に勇気と希望を与えられる人間なんてそうはいないよ」
「褒めてんの? 貶してんの?」
笑いながら言う美来に、ハルは全く興味の無さそうな声色でそういった。
「ウチの会社、今空きあるよ。ハルくん、どう?」
「絶対無理」
ハルは基本的には張らない声を張って、斉藤の言葉に断言する。
美来はやっぱりね、と思いながらも、気になって問いかけた。
「何がそんなに無理なの?」
「ずーっと雇われることがそもそも無理」
ハルが上司に謝罪をしている姿なんて想像も出来ないし、なんならやる気満々に取り組んでいる所ですら想像が出来ない。
その考えが浮かんだのは美来だけではないらしく、誰もが口をそろえて「だと思った」と呟いた。
美妙子が美来の前に置いたレッドアイに口をつける。
静かになったスナックの中は、たちまち大人だけの空間になる。
余白の間に聞こえる音楽に、グラスを置く音。
なぜかその空間自体が、ほんの少し物足りない様な、もの寂しいような。
それがどうしてなのか、美来には全くわからない。ただ、不快なだけではない様な気がした。
沈黙を破ったのは、巽の声だった。
「ハルくんは最近、あの女の子と一緒にここにいる事が多いけど、いい感じなの?」
「あの女の子って、実柚里ちゃん?」
「あ~! そうそう。実柚里ちゃん」
美来の声に、巽は何度も頷きながら言う。
確かにハルと実柚里は気が合うのだろうと思っていたが、どう考えても〝いい感じ〟だとは思わなかった。
ハルは明らかに誰にでも引く一線を実柚里に対しても引いている。
「んな訳」
テキトーな口調で言うハルにやはり、やっぱり、という言葉しか浮かんでこない。
ハルのプライベートなことは何も知らないが、ある程度の考えならわかる気がした。
「実柚里ちゃんがハルくんに懐いてるのよね」
「あ~、羨ましい。そんな人生を歩みたかった」
美妙子の言葉に過剰にそして演技じみた反応をしたのは斉藤だった。
斉藤の反応に、スナックの中は笑いに包まれた。
美来は常連だけしかいないスナックの、何とも言えないこの感じが好きだった。
年齢も性別も違う。だけど抱えている者が同じ人だけに通じている、何かがある気がして。
「二人は仲いいけど、付き合ってみようかってならないの?」
美妙子は美来とハルにそう問いかけるが、大きく反応するまでもなかった。
答えはのノーだ。
そしてハルも全く狂いなく同じことを思っていると断言してもいいとさえ美来は思っていた。
「ないよね」
「ない」
一応確認のためにそう問いかけるが、ハルは当然と言わんばかりに即答で答える。
やっぱりそうだよね! よかった、同じ意見で! という気持ちに一瞬なったが、悲しいからもう少し渋って言ってくれてもいいんじゃないの。と複雑な気持ちを美来が抱えていると、斉藤が口を開いた。
「やめてくれ」
もう勘弁してくれ、とでも言いたげな斉藤に、まず巽が笑顔をこぼした。
「ハルくんでいけるなら若い時の俺でも行けるはずだ」
「俺に失礼なんだけど。謝って」
斉藤の演技じみた口調にハルは相変わらず平坦な口調でそう返す。
それに美来と美妙子が笑った。
「まずは社内の人と約束があるのかどうか確認してね。そうじゃないと――」
「営業の電話が入ってきたら、基本的にはお断りね。マニュアルは――」
午前中が終わっても、まだ午後がある。
若さという最強の武器を持つ可愛らしい新入社員に仕事を教える。
しっかりと教えないと、と思っているのに、自分の立場が危ないかもしれないとも思っている。
そんな瀕死の金曜日。
【今日行く】
耐えかねて連絡を入れたのは、これからもうひと頑張りしなければいけないお昼時だった。
ハルはきっと今頃家の中でのんびりしているのだろう。
真っ当な人間は起きている時間だが、もしかすると起きてすらいないかもしれない。
「いらっしゃい」
スナックみさに足を踏み入れて、いつも思っていた。
足を踏み入れて最初の美妙子の一言に、いつも安心する。
ここに居てもいいのよ、と言われているみたいに。
毎週、一度、二度と訪れているこの場所でいつも安心していたのに、そう思うこと自体が、随分と久しぶりの事の様に思った。
スナックの中にハルはいない。
今日は来ないのかもしれないと思いながら、斉藤と巽が一つあけて隣に座るカウンターに、美来もまた一つ巽の隣に席をあけて座った。
「美来ちゃんが来ているのに、衣織くんは来てないね」
「本当ね。それに実柚里ちゃんも。二人ともいないのは随分久しぶりじゃない? 美来ちゃん」
巽は美来を見ながら、美妙子はグラスに氷を入れながら美来に問いかけた。
言われてみればそうだ。
ここ一か月は来るたびにどちらかがスナックにいた気がする。
「確かに、久しぶりだ」
だからか。
この場所は以前の様に雰囲気が落ち着いていて、どっしりと構えて寂しい人たちを受け入れる準備をしている様に思えた。
斉藤や巽とゆっくり話すのも、久しぶりだ。
いつもは常連同士、来るたび仕事の愚痴やらなんやらを吐き出していたのに。
「あの子は本当に美来ちゃん、美来ちゃんだね」
「本当にね」
巽の言葉に、美来はしっかりと衣織への呆れを混ぜてそう言った。
今日、衣織からの連絡はなかった。
きっとお姉さんと一緒にいるのだ。と、本当に勝手な想像でそう思っていた。
いかんいかん、そんな勝手に想像するなんて。と思う罪悪感の様な気持ちもあれば、でもそれ以外何があるの。という開き直った気持ちもある。
どうしてこう二つ相反した 気持ちが同時に出てくるのか。
美来は皆に気付かれない様に、ほんの少し溜息をついた。
「いいわね~。あんな可愛い子に懐かれて。羨ましい!」
美妙子はもう完全に衣織に取り込まれている。
衣織にはこびている様子なんて微塵も感じられない。それは勿論、美妙子もだが、美来は自分に対する衣織の態度にも同じことを感じていた。
出入口のドアのベルが鳴る。
四人が振り返るとそこにいたのはハルだった。
「おお、来た来た。俺達の希望の星」
「勝手に俺の事希望の星にすんなよ」
そういうとハルは美来の一つあけた隣に腰を下ろした。
いつもの風景だ。
心がダメになりそうになった時、いつも支えにしてきた場所の、いつもの風景。
「あ~、頭痛ェ」
ハルは絞り出したようにそう言ってカウンターについた腕で、頭を支えた。
「一応聞くけど、何で頭痛いの?」
「今日の朝まで酒飲んでたから」
本当にこの男は解答を外さない。「だと思った」という美来と美妙子の声が重なる。
斉藤と巽は声を上げて笑っていた。
「これだから好きなんだよ、ハルくんは」
そういう斉藤に、巽はうなずいて同意している。
ハルの基本はテキトー人間だ。
その日が楽しければそれでいいし、自分が不快になる様な事はしない。
人間は集団生活をしていれば、自分が不快だと思っている事もしなければいけない。
しかしハルは、本当に自分の意見を頑なに曲げない。
「テキトーに生きてて他人に勇気と希望を与えられる人間なんてそうはいないよ」
「褒めてんの? 貶してんの?」
笑いながら言う美来に、ハルは全く興味の無さそうな声色でそういった。
「ウチの会社、今空きあるよ。ハルくん、どう?」
「絶対無理」
ハルは基本的には張らない声を張って、斉藤の言葉に断言する。
美来はやっぱりね、と思いながらも、気になって問いかけた。
「何がそんなに無理なの?」
「ずーっと雇われることがそもそも無理」
ハルが上司に謝罪をしている姿なんて想像も出来ないし、なんならやる気満々に取り組んでいる所ですら想像が出来ない。
その考えが浮かんだのは美来だけではないらしく、誰もが口をそろえて「だと思った」と呟いた。
美妙子が美来の前に置いたレッドアイに口をつける。
静かになったスナックの中は、たちまち大人だけの空間になる。
余白の間に聞こえる音楽に、グラスを置く音。
なぜかその空間自体が、ほんの少し物足りない様な、もの寂しいような。
それがどうしてなのか、美来には全くわからない。ただ、不快なだけではない様な気がした。
沈黙を破ったのは、巽の声だった。
「ハルくんは最近、あの女の子と一緒にここにいる事が多いけど、いい感じなの?」
「あの女の子って、実柚里ちゃん?」
「あ~! そうそう。実柚里ちゃん」
美来の声に、巽は何度も頷きながら言う。
確かにハルと実柚里は気が合うのだろうと思っていたが、どう考えても〝いい感じ〟だとは思わなかった。
ハルは明らかに誰にでも引く一線を実柚里に対しても引いている。
「んな訳」
テキトーな口調で言うハルにやはり、やっぱり、という言葉しか浮かんでこない。
ハルのプライベートなことは何も知らないが、ある程度の考えならわかる気がした。
「実柚里ちゃんがハルくんに懐いてるのよね」
「あ~、羨ましい。そんな人生を歩みたかった」
美妙子の言葉に過剰にそして演技じみた反応をしたのは斉藤だった。
斉藤の反応に、スナックの中は笑いに包まれた。
美来は常連だけしかいないスナックの、何とも言えないこの感じが好きだった。
年齢も性別も違う。だけど抱えている者が同じ人だけに通じている、何かがある気がして。
「二人は仲いいけど、付き合ってみようかってならないの?」
美妙子は美来とハルにそう問いかけるが、大きく反応するまでもなかった。
答えはのノーだ。
そしてハルも全く狂いなく同じことを思っていると断言してもいいとさえ美来は思っていた。
「ないよね」
「ない」
一応確認のためにそう問いかけるが、ハルは当然と言わんばかりに即答で答える。
やっぱりそうだよね! よかった、同じ意見で! という気持ちに一瞬なったが、悲しいからもう少し渋って言ってくれてもいいんじゃないの。と複雑な気持ちを美来が抱えていると、斉藤が口を開いた。
「やめてくれ」
もう勘弁してくれ、とでも言いたげな斉藤に、まず巽が笑顔をこぼした。
「ハルくんでいけるなら若い時の俺でも行けるはずだ」
「俺に失礼なんだけど。謝って」
斉藤の演技じみた口調にハルは相変わらず平坦な口調でそう返す。
それに美来と美妙子が笑った。