ダメな大人の見本的な人生

23:これも大人

「美来さん、考えといて」

 一体何を考えろというのか。
 子どもと大人の将来について?

 そんな事、あり得るはずがない。
 いつまでも一緒にいられるなんて夢物語がありえない事なんて、さすがにわかっているだろう。

 だから、この辺りではっきりとさせておかなければいけない。

「考えなくても、私は衣織くんとは結婚しない」

 はっきりと言う美来の言葉を聞いた後、衣織は少し先を歩く足を止めて振り返った。

「なんで?」

 わかって聞いてるの? と言いたくなるほど、見透かしたような態度で衣織は美来に問いかけた。

 美来には衣織の態度が、今の自分よりもずっと大人びて見えた。

 見透かされているような気がしたから。
 衣織のたった一言の問いかけが、まるで試しているように聞こえたから。
 そして何より、酔っていたから。

 感情に触れてしまったんだと思う。

「話が合わない人と、結婚なんてできない」

 子ども相手に何を本気になっているのかと思いながらも、とっさに出た言葉を止める事が出来なかった。
 しかし反省する気にすらならないのは、やはり衣織が、何もかも見透かしたような顔で見ているから。

「俺達、話しが合わないの?」

 衣織はまるで子どもを相手にして優しく問いかける様に言った。
 親が子どもに〝この問題が難しいの?〟と、優位な場所から事実を確認しているみたいに。

 話が合わない?
 そんな訳ない。
 衣織と過ごす時間は充実していて、知らない事をたくさん知ることが出来るんだから。

 どうして子ども相手にこんなに感情的になっているんだろうと、心の一部が疑問を呈さなかったわけじゃない。
 さっきまで相手にしても無駄だと思っていたはずなのに。
 自分の中の何で、そして彼の外側の何でスイッチが入ったのか、自分の事であるのに、美来にはわからなかった。

 酔っているから、で片付けるには随分と気持ちの深い部分が揺れている気がする。

「そういう無責任なの、やめた方がいいよ」

 今の美来に言える、精一杯の言葉だった。

 衣織は無責任だ。結婚だなんだと口にする。
 それがどれだけ決断力が必要なことか、知りもしない子どものくせに。

 沈黙が痛くなったころ、少し強く言い過ぎたかもしれないと思い直した。

 そして元の所に戻ってくる。
 子どもを相手に何を本気になってるんだ。

 そう心から思ったから謝罪の言葉を口にしようとした。

「確かにそうだね。美来さんって、やっぱ大人だ」

 先ほどの見透かした態度なんて、全部引っ込めて、衣織は全くいつも通りの口調で言った。
 美来はやっと衣織の顔を見たが、進行方向を向こうとする衣織の顔は、やはり、いつも通り。

 いつも通りの様子なのに、今の衣織もやはり自分よりもずっと大人だと思った。
 自分の言いたいことを飲み込んで、相手の〝勝ち〟にする事ができるんだから。

 美来は衣織の後ろを歩く。

 考えるのは、強く言い過ぎただろうか、という罪悪感から派生した気持ち。
 しかしそれに〝これくらい言わないと分からなかっただろう〟正当化する理由をつけようとする、という不明確な推測。

 結局アパートにつくまで、衣織はいつも通り他愛ない話をした。

 この前のデートはどうだったとか、スナックの話とか。

 他人のプライベートには土足で入り込んでくる癖に、自分のプライベートな話はしない。
 だけどそれは間違いなく、いつも通りの〝衣織〟だった。

「じゃあね、美来さん」
「うん、また」

 曖昧な返事をすると、衣織はいつもの笑顔を浮かべて踵を返す。
 彼の背中を、見えなくなるまで見送った。

 結局、謝罪の言葉の一つも口にできなかった。

 そしてまた、結婚の話を思い出して、デートの後の出来事を思い出して嫌な気持ちになった。

 イライラする、叫びたいくらい。
 何もわからないくせに、偉そうなこと言わないでよ。
 だけど同時に、悲しくもある。

 どうしてこんな気持ちになるのか。
 答えを知っているなら教えてほしいと、いくつも年下の彼に思った。

 女の人ならたくさんいるはずだ。
 デート終わりにあっていたあの人だって、そのうちの一人で。

 それなのにどうして執着するのか。
 そんなに顔が大事なの?

 きっと、何も考えていないのだ。
 きっと、どこまでも短絡的。
 今が楽しければ、他の事なんてどうでもいい。

 自分が衣織と同じ年齢の頃はそうだった様な気もするし、もっとしっかりしていた様な気もした。

 子どものしている事だ。本気になる必要なんてどこにもない。

 結局そこに着地する。

 謝らないと。大人げなかったって。
 ぽつりと考えがまとまっても、衣織の背中はもう見えない。

 もしもありきたりなドラマの展開みたいに、彼が事故にあってこのまま二度と会えなかったら後悔する。

 そう思うといてもたってもいられなくなって美来は駆け出した。
 ヒールがアスファルトを激しく打つ音がする。

 衣織が消えた曲がり角で足を止めた。

 そこにはこちらを向いている彼がいて。
 なんて、都合のいい展開があるわけない。

 そこには誰もいなかった。

 美来はゆっくりと息を吐く。

「何やってんだろ」

 その言葉以外、見当たらなくて。
 美来はもう一度、明確に溜息をついた。

 年甲斐もなく、白馬の王子様でも求めていたのかもしれない。

 自分の思っている事をなんでも察してくれて、自分のわがままをなんでも受け入れてくれて。

 必要な時に必要なタイミングで力になってくれて、目の前に姿を現してくれるような。

 そんな、白馬の王子様。

 だとしたら自分が結婚できないのはそれが理由だと明確に原因を理解する。

 夜の闇の中に、コツコツと自分のヒールの音だけが響く。
 広い世界の中で、一人ぼっちになったみたいに。

「あの」
「ひっ……!」

 急に声をかけられて、美来はびくりと肩を浮かせて喉元で声を上げた。

「すみません。驚かせるつもりはなくて」

 男は自分が驚いたとでも言いたげにおどおどして、胸の前で両手を振った。
 自分と同じくらいの年か少し上くらいの男は清潔感がある。
 スポーツウェアに身を包んで重たそうな荷物を抱えていた。

「最近この辺りでお会いするもので、つい好奇心で……。すみません。こんな遅い時間に」
「いえ……私こそ失礼な反応をしてしまって……」

 彼の言い方に含まれる〝こんな時間に声をかけて怖がらせてしまってすみません〟というニュアンスにすっかり気を抜いた美来は、脱力しそうになりながらやっとのことで返事をする。

 いつもこの辺りですれ違いでもしているのだろうか。
 思い返してみても、仕事やスナックの帰り道で思い浮かぶのは、いつも衣織の顔だった。

「じゃあ、その……また」
「はい、また……」

 どんな別れ方をしたらいいのか探る様な男の反応に釣られて、美来も曖昧な返事をする。
 感じのいい男はペコリと頭を下げて美来の家とは逆方向に帰っていった。

 何だったんだ、と思いながらもおそらく〝一目ぼれ〟とかその類の物だろうと思いつつ美来はアパートまでの道を戻った。

 そして一つの考えが浮かぶ。

 もしも、だ。本当に失礼極まりない話で考えているだけで申し訳ない気持ちになってくるが、あの男性がストーカーだったとする。

 衣織はもしかすると、それをけん制するために時間を見つけては家まで送ってくれていたのではないか。

 という逆脳内お花畑状態になりながら、いや、それはないか。という結論に至る。
 部屋のドアの前で振り返っても、誰かいるはずもなかった。

 どうせすぐに衣織から連絡が来るのだ。
 その時は、今日の態度が大人げなかったことを謝ろう。

 もやもやする気持ちに無理矢理結論をつけて、美来は家の鍵を開けて中に入った。
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