ダメな大人の見本的な人生
25:知り合いの――
結局衣織から連絡が来なくなってから二週間が過ぎようとしている、金曜日。
美来は先日連絡を取った男性、田上純也と待ち合わせをしている場所まで駆け足で向かっていた。
「すみません。お待たせしました。」
Tシャツにジャケットという、シンプルな恰好をしている田上は、スマホから視線を外して写真通りの笑顔で笑う。
写真で見るよりも大きくてガタイがいい様な気がした。
「全然待っていませんから、気になさらないでください」
よくもまあ、挨拶もなくド直球で【直接会いませんか】と送る女と会おうと思ったものだ。
しかし、文章でわかるくらい腰が低く、失礼な態度にも屈さない田上という男は一体どんな人なのだろうと、興味があったのは事実だ。
型にはめて分類すらできると思っていたデートが、久しぶりに楽しみだった。
今日は天気が崩れなくてよかったですね、とか、お仕事は、とか。
そんな他愛もない話をしながら、レストランで食事をした。
取り立てて楽しいわけでもない。
上辺をなぞるだけの会話。
しかし、早く帰りたいとは思わなかった。
美来は笑顔を作りながら、赤ワインに口をつけた。
よく悪酔いしていたワインをまともに飲めるようになったのは、一体いつからだろう。
「もう一杯だけ、いかがですか」
田上はどれだけ会話を楽しんでも、敬語を崩すことはない。
誠実な人だという印象はあって、だから断れば引き止められないという事は分かっていた。
だから何となく、今日はいいかという気になって。
「はい、ぜひ」
美来がそう言うと、田上はワインで少し酔いが回っているのか、柔らかい顔で笑って「行きましょう」と言った。
男が女に自ら声をかけるときは十中八九、仕事が軌道に乗っている時だ。と美来はこれまでの経験から思っていた。
だから会話に困った時は仕事の話をふれば、自分が話さなくても一方的に話をしてくれる。
過不足なく田上は話を進める。
たまには話題をと、困ってもいない状態でさらりと仕事の話を振っても、深く入るより先に別の他愛ない話に移っている。
この人は何をしている人で、職場ではどんな立ち位置にいる人なのだろう。
きっと素晴らしく有能な人なのだろうな。と勝手に想像が掻き立てられる。
こんな感覚は初めてだった。
田上に連れられてやってきたのは、ビルの中にあるバーだった。
暗い色の木材に、真夜中にぽつりとほたるを放ったみたいな、こころもとないオレンジ色の明かり。
ブランデーを煮詰めた様な、重厚感のある独特な雰囲気だった。
全体的な雰囲気が、暗く重たい。
案内された席は半個室だった。
半個室とは言っても、光沢のある半透明のカーテンで仕切られている空間にソファが置いてある簡易的なもの。
隣との距離は十分に離れているが、カーテンを外して席を近付ける事もできるように配慮されているらしい。
とにかく、自分の給料で通い詰めると破産してしまいそうなくらい、高級感のある店だった。
正直、こんなかしこまった場所は、あまり得意ではない。
半個室だったのは幸いだ。
カウンターに座ってバーテンダーの前で酒を飲むシーンになんてなったら、酒の力を借りられない自信があった。
スナックに慣れていない新規の客は、こんな居心地の悪さを抱えているのかもしれない。
来る客にもう少し優しくしてあげよう。
そう思いながら美来は腰を下ろした。
「こういう場所は、お好きではありませんか」
美来の落ち着かない様子を悟ったのか、心配そうに声を滲ませる田上の表情は相変わらず爽やかだった。
「いえ、そういう訳じゃ……」
「よかった。ゆっくり話ができる場所が、ここしか思い浮かばなかったもので」
そう言うと田上は、今度は困った様な顔で笑う。
かしこまった場所は、あまり得意ではない。
しかし、そういう気遣いがあっての事なら、気を張っていなければいけない場所もそう悪くはないと思った。
少し離れた所から、男女のカップルが美来と田上のいる席の横を通り過ぎようとしていた。
やっぱり少し落ち着かないな、そう思いながらもこれ以上気を遣わせるのは悪いので、美来はそのカップルの方を見ない様に、そして気付かないふりをした。
こんなところでデートをするなんて、なんてオシャレなカップルなんだ。
もし、もしもだ。
田上と付き合うことになったとしたら、その度に所でデートをするのだろうか。
リーズナブルな居酒屋なんかではなく。
そう考えて生まれてきたのは、明るい感情ではない。
「ありがとうございます」
改まった様子でそういう田上に、美来は動揺を隠せずにしばらく混乱していた。
会ってから今までの事を思い返してみるが、感謝される様な事をした覚えはない。
「……えっと、何が……?」
むしろ、食事をご馳走してくれてありがとうございますと言わなければならないのはこちら側だった。
「嬉しかったんです。今日、誘ってくれた事が」
「美来さん?」
二人のいるテーブルを通り過ぎようとしていたカップルの男性が立ち止まった。それに気付いた女が、数歩先で立ち止まる。
自分の名前を呼ぶ声に、美来は田上の言葉を咀嚼する暇もなく、横に視線を移した。
そこには二週間ぶりに見る衣織がいた。
衣織は身体にピタリと合ったおしゃれなスーツに身を包み、しっかりと身だしなみを整えている
美来は明らかに心臓がなった事に対して、動揺する余裕すらなかった。
もともとの顔の良さとあまりの洗練された雰囲気。
それがバーの雰囲気にとても似合っていて。
とてもではないが、普段廃れた商店街にあるスナックに入り浸っているとは思えないくらい。
もっと明確に言えば、住む世界が違う様な。
それからどうしてこんな所にいるのかという疑問。
さらに言えば、そもそも久しぶりに顔を合わせたことに、謝らなければいけない事も。
情報量が多くて脳みそが処理をしきれないまま、美来は黙って衣織を見ていた。
「あら、田上さん。お久しぶりです」
衣織の前に立ち、こちらに身体を向ける女を見て、美来は息を呑んだ。
遊園地のデートの帰り。コンビニの前で衣織と腕を組んで歩いていた女だったから。
「ああ。お久しぶりです、葵さん」
女の名は葵と言うらしい。
田上は葵に親し気な挨拶を済ませると、美来の方に視線を向けた。
「弟さん、ですか?」
この年になって子どもと知り合いがいるとは思わなかったのか、田上は少しお伺いを立てている様な言い方で、美来に問いかける。
どうしてその言葉を彼の隣にいる葵という女性には言わないのに、自分に問いかけるのか。
美来にはわからなかった。
わからない上に、問いかけられたことに対して何かを答えなければ、という使命感は持ち合わせていて。
衣織との関係を表す最適な言葉は何なのか。
身体の関係はあって、かつ、デートにも行って、数日に一度は会う関係を〝恋人〟以外、なんという表現をすればいいのかわからなかったから。
だけど余程、今衣織の隣にいる女性の方が、彼女にふさわしいような気がした。
「し、知り合いの男の子です……!」
美来はやっとの事でそういう。
衣織はほんの少しだけ、表情を変えた。
「そうなの? 衣織くん」
田上より先に反応したのは、衣織の隣にいる女、葵だった。
葵が冷静な様子で問いかけると、衣織は何事もなかったかのように口を開いた。
「うん。そう」
表情も態度も変えずに、平坦なまま。
口調だけが少し、浮いているみたいに明るい。
「知り合いのお姉さん」
その言葉に、確かに胸がズキリと痛んだ。
美来は先日連絡を取った男性、田上純也と待ち合わせをしている場所まで駆け足で向かっていた。
「すみません。お待たせしました。」
Tシャツにジャケットという、シンプルな恰好をしている田上は、スマホから視線を外して写真通りの笑顔で笑う。
写真で見るよりも大きくてガタイがいい様な気がした。
「全然待っていませんから、気になさらないでください」
よくもまあ、挨拶もなくド直球で【直接会いませんか】と送る女と会おうと思ったものだ。
しかし、文章でわかるくらい腰が低く、失礼な態度にも屈さない田上という男は一体どんな人なのだろうと、興味があったのは事実だ。
型にはめて分類すらできると思っていたデートが、久しぶりに楽しみだった。
今日は天気が崩れなくてよかったですね、とか、お仕事は、とか。
そんな他愛もない話をしながら、レストランで食事をした。
取り立てて楽しいわけでもない。
上辺をなぞるだけの会話。
しかし、早く帰りたいとは思わなかった。
美来は笑顔を作りながら、赤ワインに口をつけた。
よく悪酔いしていたワインをまともに飲めるようになったのは、一体いつからだろう。
「もう一杯だけ、いかがですか」
田上はどれだけ会話を楽しんでも、敬語を崩すことはない。
誠実な人だという印象はあって、だから断れば引き止められないという事は分かっていた。
だから何となく、今日はいいかという気になって。
「はい、ぜひ」
美来がそう言うと、田上はワインで少し酔いが回っているのか、柔らかい顔で笑って「行きましょう」と言った。
男が女に自ら声をかけるときは十中八九、仕事が軌道に乗っている時だ。と美来はこれまでの経験から思っていた。
だから会話に困った時は仕事の話をふれば、自分が話さなくても一方的に話をしてくれる。
過不足なく田上は話を進める。
たまには話題をと、困ってもいない状態でさらりと仕事の話を振っても、深く入るより先に別の他愛ない話に移っている。
この人は何をしている人で、職場ではどんな立ち位置にいる人なのだろう。
きっと素晴らしく有能な人なのだろうな。と勝手に想像が掻き立てられる。
こんな感覚は初めてだった。
田上に連れられてやってきたのは、ビルの中にあるバーだった。
暗い色の木材に、真夜中にぽつりとほたるを放ったみたいな、こころもとないオレンジ色の明かり。
ブランデーを煮詰めた様な、重厚感のある独特な雰囲気だった。
全体的な雰囲気が、暗く重たい。
案内された席は半個室だった。
半個室とは言っても、光沢のある半透明のカーテンで仕切られている空間にソファが置いてある簡易的なもの。
隣との距離は十分に離れているが、カーテンを外して席を近付ける事もできるように配慮されているらしい。
とにかく、自分の給料で通い詰めると破産してしまいそうなくらい、高級感のある店だった。
正直、こんなかしこまった場所は、あまり得意ではない。
半個室だったのは幸いだ。
カウンターに座ってバーテンダーの前で酒を飲むシーンになんてなったら、酒の力を借りられない自信があった。
スナックに慣れていない新規の客は、こんな居心地の悪さを抱えているのかもしれない。
来る客にもう少し優しくしてあげよう。
そう思いながら美来は腰を下ろした。
「こういう場所は、お好きではありませんか」
美来の落ち着かない様子を悟ったのか、心配そうに声を滲ませる田上の表情は相変わらず爽やかだった。
「いえ、そういう訳じゃ……」
「よかった。ゆっくり話ができる場所が、ここしか思い浮かばなかったもので」
そう言うと田上は、今度は困った様な顔で笑う。
かしこまった場所は、あまり得意ではない。
しかし、そういう気遣いがあっての事なら、気を張っていなければいけない場所もそう悪くはないと思った。
少し離れた所から、男女のカップルが美来と田上のいる席の横を通り過ぎようとしていた。
やっぱり少し落ち着かないな、そう思いながらもこれ以上気を遣わせるのは悪いので、美来はそのカップルの方を見ない様に、そして気付かないふりをした。
こんなところでデートをするなんて、なんてオシャレなカップルなんだ。
もし、もしもだ。
田上と付き合うことになったとしたら、その度に所でデートをするのだろうか。
リーズナブルな居酒屋なんかではなく。
そう考えて生まれてきたのは、明るい感情ではない。
「ありがとうございます」
改まった様子でそういう田上に、美来は動揺を隠せずにしばらく混乱していた。
会ってから今までの事を思い返してみるが、感謝される様な事をした覚えはない。
「……えっと、何が……?」
むしろ、食事をご馳走してくれてありがとうございますと言わなければならないのはこちら側だった。
「嬉しかったんです。今日、誘ってくれた事が」
「美来さん?」
二人のいるテーブルを通り過ぎようとしていたカップルの男性が立ち止まった。それに気付いた女が、数歩先で立ち止まる。
自分の名前を呼ぶ声に、美来は田上の言葉を咀嚼する暇もなく、横に視線を移した。
そこには二週間ぶりに見る衣織がいた。
衣織は身体にピタリと合ったおしゃれなスーツに身を包み、しっかりと身だしなみを整えている
美来は明らかに心臓がなった事に対して、動揺する余裕すらなかった。
もともとの顔の良さとあまりの洗練された雰囲気。
それがバーの雰囲気にとても似合っていて。
とてもではないが、普段廃れた商店街にあるスナックに入り浸っているとは思えないくらい。
もっと明確に言えば、住む世界が違う様な。
それからどうしてこんな所にいるのかという疑問。
さらに言えば、そもそも久しぶりに顔を合わせたことに、謝らなければいけない事も。
情報量が多くて脳みそが処理をしきれないまま、美来は黙って衣織を見ていた。
「あら、田上さん。お久しぶりです」
衣織の前に立ち、こちらに身体を向ける女を見て、美来は息を呑んだ。
遊園地のデートの帰り。コンビニの前で衣織と腕を組んで歩いていた女だったから。
「ああ。お久しぶりです、葵さん」
女の名は葵と言うらしい。
田上は葵に親し気な挨拶を済ませると、美来の方に視線を向けた。
「弟さん、ですか?」
この年になって子どもと知り合いがいるとは思わなかったのか、田上は少しお伺いを立てている様な言い方で、美来に問いかける。
どうしてその言葉を彼の隣にいる葵という女性には言わないのに、自分に問いかけるのか。
美来にはわからなかった。
わからない上に、問いかけられたことに対して何かを答えなければ、という使命感は持ち合わせていて。
衣織との関係を表す最適な言葉は何なのか。
身体の関係はあって、かつ、デートにも行って、数日に一度は会う関係を〝恋人〟以外、なんという表現をすればいいのかわからなかったから。
だけど余程、今衣織の隣にいる女性の方が、彼女にふさわしいような気がした。
「し、知り合いの男の子です……!」
美来はやっとの事でそういう。
衣織はほんの少しだけ、表情を変えた。
「そうなの? 衣織くん」
田上より先に反応したのは、衣織の隣にいる女、葵だった。
葵が冷静な様子で問いかけると、衣織は何事もなかったかのように口を開いた。
「うん。そう」
表情も態度も変えずに、平坦なまま。
口調だけが少し、浮いているみたいに明るい。
「知り合いのお姉さん」
その言葉に、確かに胸がズキリと痛んだ。