ダメな大人の見本的な人生

27:ピロートークの重要性について

 必死で衣織の肩を押し返す。

 身を引く美来とそれを逃がさない衣織の戦いは、美来の背中に駐輪場の柱が当たった事によって終わった。

 美来の足の間に、衣織はためらうことなく足を滑り込ませて身を寄せる。
 あっという間に、肩を押し返せるスペースすらなくなってしまった。

 苦しくて衣織の見るからに上等なスーツを掴んで引き離そうとするのに、びくともしない。

 酒と酸素不足は相性が悪すぎて、頭がすぐにぼんやりする。
 引き離そうとしていたのに、今では苦しさを逃がすために衣織のスーツを捕まえる事に必死になっていた。

 このまま死ぬのかもしれないと思うくらい苦しいのに、ぬるま湯につかっているみたいに、心地いい。

「美来さん、俺の事嫌い?」

 衣織はやはり、感情の読めない平坦な口調で言う。

 どうしてそんな話になったのかという疑問が、脳内をかすめるくらいわずかに浮かぶ。
 回っていない頭に、聞かないでほしい。

「きらいじゃない」
「じゃあ、続きしてもいい?」

 そう言うと衣織はまた顔を近付けた。

「ダメ」
「なんで?」
「人、くるから」

 幸い、まだ人に見られていない、と思う。
 だからこれ以上はやめてほしいと、バカな頭に残った理性でそう思ったことは褒めてほしい。

「どこならいい?」

 今度こそ顔を逸らして衣織の胸を押したのに、衣織は美来の首筋に唇を寄せた。
 声が漏れないように、必死で。また衣織を捕まえるみたいに引き寄せた。

 これじゃあいつまでたっても何一つ進展しない事だけは、バカになった頭でも理解できる。

「ねー。どこならいいの?」
「部屋……! 部屋のなか」
「じゃあ入れて」

 美来の言葉を聞いた衣織は、今までの事なんてまるでなかったかのように美来から一瞬で離れた。

 助かった。とりあえずこれで人に見られることはないだろうと感じる安心感の隣では、きっと自分の身はただでは済まないという危機感も同時に存在していた。

 ちょっと休憩させてほしいという希望は、きっと至極贅沢な事だ。

 酒に酔っているだけだとは言えないくらい、クラクラする。

 美来は鍵を取り出した。
 鍵穴にくぐらせようとするのに、うまく入らない。
 今の衣織には、鍵を奪うという行為でさえ手間らしい。
 美来の手を握るとそのまま鍵穴にくぐらせた。

 最初にドアを小さく開けたのは美来だったが、その後ろから開いた部分に手を入れて大きく開いたのは衣織だった。

 衣織は美来を押しやる様に部屋の中に入る。

 野生動物が生きたまま巣穴に連れ込まれる感覚は、これに違いない。
 自分の家なのに。

 もう抵抗する気にもなれなかった。
 多分本能が脳内に〝打つ手なし〟のレッテルを貼ったのだと思う。

 ドアが閉まると同時に鍵をかける音が響いた。

 噛みつくような、貪るような。
 骨の奥まで染みる口付けだった。

 クラクラする頭の中で、本当に骨の奥まで染められているのではと思うくらい、重たくて、苦しくて、隙間がない。

「で、アレ誰?」

 アレって、誰だ。
 ストーカー疑惑の方か? それとも、デートをしていた人の方か?

 そもそも、誰? を言いたいのはこっちなんだが。
 誰だ、あのお姉さんは。
 どう考えてもアンタより私の方が先に思ってたからね。という言葉にならない言葉がぼんやりと浮かぶ。

「……人の事、アレとか言ったらダメだよ」

 回っていない頭で返事をするが、的を得た返事ではない事は分かっていた。

「じゃあ、バーで会ったお兄さんは誰?」

 わざわざ言い直す衣織は、まるで嘘をついていないか確認するみたいに、美来の顔を両手で掴んで上を向かせたまま離さない。

「紹介してほしいって、言われた人」
「美来さんから誘ったって事は、美来さんもあの人に会いたかったって事?」

 衣織は確認するように、しかし確信を持った様子でそう言った。

 〝嬉しかったんです。今日、誘ってくれた事が〟

 確かに田上はそういっていた。

 なんてタイミングで現れたんだという絶望。
 心の細部まで見透かされている感覚が不快で、それなのになぜか、見透かされたことが嬉しくも感じる。

 解き明かせない自分の内側が、気持ち悪い。

「どんな人かなって期待してた?」
「してない」

 思い通りの状況だと思うだけで屈辱的なのに、詰め寄られて、論破されようとまでしている。

「じゃないとデートしないよね?」

 年下の、子どもに。

「しないよね? って今、俺、聞いたんだよ」

 淡々と裁く様な口調。
 どうしてこんなことになったんだろう。

「ちょっと、興味あったから」
「なんで?」
「なんでって……私が冷たくしても、丁寧に返事してくれたから」
「じゃあ俺も()()()()だったら、美来さんに興味持ってもらえるんだ」

 そういうわけではない事なんてきっと衣織はよく分かっているのだという、確信。

「もっと早く教えてよ」

 そういう衣織の表情は最初にあったころの様で。
 そういえばこんな顔をしていたな、と他人事のように思った。

 何もかもをただ反射しているだけに見えるビー玉の様な目をしていた。





 美来が目を覚ますと、ベッドの隣では衣織がすやすやとあどけなさの残る顔で眠っていた。

 どうやって終わったのか、覚えていない。

 もしかしたら眠いと言って終わったのかもしれないし、人生で初の気絶を経験したのかもしれない。

 もしそうだとしたら、とんでもない夜を過ごしてしまったと美来はため息をつきたい気持ちと、衣織を起こしたくない気持ちの間で戦っていた。

 本当にとんでもない子だ。
 人生何回目だ? 人生を何回回したら、あんなことやこんなことが出来るんだ?

 ああ、やってしまった。また。
 そう思う気持ちと隣り合わせにある多幸感。
 本当に勘弁してほしい。

 そう思う側から、バーで会った余裕じみた葵という女が頭の中で微笑んだ。

 身体のいたるところがベタベタする。それがどちらのなになのかすらわからない。

 シャワーを浴びる為に、細心の注意を払ってベッドに足をつけた。
 足が痛い。しかし本当の筋肉痛とやらはしばらく遅れてやってくることも知っていた。

 動けないくらいの痛みだったら、仕事どうしよう。
 とっさにそんな危機感を覚えるくらいの痛みだ。

「うわ!!!」

 まず最初に肩が沈んで、急に体が後ろに傾いた。それから跳ねる様にして、身体がベッドの上で止まる。

「どこ行くの?」

 背中からベッドに倒れ込んだ美来の上から、衣織がのぞくように顔を見た。

「ちょっと……シャワー……」
「ピロートーク、まだだよ」

 いるの、ピロートーク。
 絶対にいらないと思うんだけど。

 そう思う美来をよそに、衣織は美来の腕を掴むと、先ほど眠っていた場所に引きずるように戻した。

 きっと巣穴に生きたまま引きずり込まれる感覚はこれに違いないと、美来は先ほどと同じことをまた考えていた。

 衣織は何も喋らない。
 しかし視線は感じるから、多分ちゃんと息はしているのだと思う。

 しかし、直接衣織を視界に写してどうこうしようという気はおこらなかった。

 おそらく、巣穴に引きずり込まれた生き物はまず相手を刺激しない様な本能が備わっているのだと思う。

 ……ねえ、ピロートークは?
 ピロートークするって言ったじゃん。

 ただそう言えばいいだけだが、言い出せばまるで自分がしたいみたいになるじゃないか。
 絶対に嫌だ。別にピロートークなんていらない。
 とにかくシャワーを浴びる為にベッドから降りられればそれでいい。

 そう思いながら、言い出しっぺの衣織が喋り出すのを待っていた。
 しかし衣織は、一向に喋り出さない。
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