ダメな大人の見本的な人生

28:希望か絶望

 美来は天井を眺めて、ただ時間が過ぎるのを待っていた。

 スマホはどこにあるんだろう。
 きっとその辺りにあるはずだが、逃げ出せるはずもないのでただぼんやりと天井を眺めているだけ。

 お風呂の時でさえスマホを持ち込んで動画を見る生活。
 スマホはない。どこにあるかもわからない。

 本当に何もしない時間。

 この部屋の天井の色って、こんな色だったんだ。
 どうしてこの色にしたんだろう。
 作った人に何か思いがあったとか。それとも天井の色は大体どれも一緒なのだろうか。

 そもそも、天井ってめちゃくちゃ大切だ。
 天井がなければ雨はしのげないし、虫だってたくさん入ってくる。

 それなら昔の人は虫の中で生活していたのか。
 当然そういう事になる。そうか。だから蚊帳(かや)というものが登場したのか。

 蚊帳ってどんな造りになっているんだろう。
 いずれにしても、昔の時代に蚊帳を考えた人は天才だ。

 思考が巡り巡って〝蚊帳〟にたどり着いた頃、自分の想像力がどこまでも広がっているような錯覚に陥って美来は我に返った。

 会話も何もない状態で本当の意味でぼんやりするのなんて、いつぶりだろう。

「……ねえ」
「なに?」

 しかし、さすがに暇すぎた美来は天井を見上げたまま衣織に問いかけた。
 同じ気持ちでいたのかは知らないが、衣織からは即座に返事が返ってくる。

 機嫌がよさそうな様子で。
 しかも隣を見なくても明らかにこちらを向いていると分かるくらい、はっきりした声で。

「ピロートークは?」

 とうとうムードもクソもない直接的すぎる言葉を吐く。
 しかし、衣織を刺激しない様に細心の注意を払う事は忘れなかった。

「美来さん見てたらもう一回、」
「しない」

 衣織が機嫌よく口を開いた時点で何となくその先の展開を想像できるあたりが恐ろしい。

 発した〝しない〟の一言がほんの少しいつも通りのペースに戻させた、気がしたから美来はゆっくりと息を吐き切った後、意を決して衣織の方を向いた。

 衣織はまた、ビー玉の様な目をしていた。
 先ほどの声から感じたご機嫌な様子なんて、全くない。

 一瞬の事だ。見間違いかと思うくらい。

 衣織は瞬きを一つするとほんの少しほほ笑みを浮かべる。しかしその顔はすぐに、ふてくされた形をした。

「俺、美来さんにとっては〝知り合いの男の子〟?」

 あっという間に、いつも通り。
 まるで先ほどの一連の出来事なんて、何もなかったかみたいに。

 〝知り合いの男の子〟

 チクリと胸に刺さっている。
 そのトゲが、抜けない。

「自分だって、〝知り合いのお姉さん〟って言ったじゃない」

 対抗して言い負かすつもりはなかった。
 ただ単純に、自分だって言ったじゃんという、事実確認。

 本当にそうだろうか。

「美来さんが、そう言ったから」

 衣織ははっきりとした意思を持たない口調で言う。

 じゃあ二人の関係性を問われた時、どんな返事をするのが正解だったのか。
 以前衣織が言ったみたいに〝好きな人〟とでも答えればよかったのか。

 ありえない。
 デートをしている相手に〝好きな人〟だなんて。
 マナー違反もいい所だ。人としてどうかと思う。
 
 しかし衣織は〝好きな人〟とあっさり言ってのけるわけで。
 言われた方は堪らないだろうが、衣織らしいと言えばらしい気がする。

 〝好きな人〟
 ありえないのに、なんだか腑に落ちる気がした。
 すごく、曖昧な形で。

「じゃあ、私たちの関係は何?」

 純粋に、答えがほしい。
 そんなに言うのなら、納得できる言葉をちょうだい。

「なんだろ」

 ほらそうやって、不明確な所に収まる。

 どうせこの関係に名前なんてない。
 あれは偶然だった。

 偶然、知り合い同士が知り合いで、成り行きで関係の名前の話になっただけ。
 そんな偶然はめったにないのだから、名前なんて必要ないのかもしれない。

「名前なんて、必要ないのかもね」

 探そうとしないのなら、見つかるはずがない。
 心の中で衣織に向けた言葉が、自分にも跳ね返ってくる。

 この関係に名前はない。

 元々はストーカーと被害者。
 受け入れている時点で、被害者でもなければストーカーでもないが。

「名前、必要?」

 〝美来さんが必要ならつけようか〟とでも言いたげな衣織の口調。
 それに引きずり出される、自分の意志はないのね。という、自分の中の諦めのような感情。

 だから何だって言うの。

「いらない」

 どうしてこんな気持ちにならないといけないんだ。
 一緒になる予定もない、子どもに。

 どうしてここまで、心の内側をかき乱されないといけないのか。

「美来さんはもう、俺と遊ぶの飽きちゃった?」

 衣織はほんの少しの明るさを混ぜて、平坦な口調で言う。
 まるでそこに本当の感情を入れない様に努めているみたいに。

 どんな風に返したらいいのかわからなかった。
 もし〝もう飽きた〟と言ったら。
 もし〝まだ遊びたい〟と言ったら。

 衣織がどんな返答をするのか、全く想像ができなかったから。

 だけど、〝会いたかった〟。

 ある程度の規則性を持つ生活が、外からの刺激で不規則になる。
 その感覚は、嫌いじゃなくて。

 だけど責任は持てないから、希望や絶望の様な偏った感情は衣織にも自分にも与えられない。

「飽きてない」

 だからどんな言葉で返せばいいのかわからないから。
 単純なイエスかノーの二択の回答。

「私に飽きたのは、衣織くんの方じゃないの?」

 平然を装って、流れに身を任せたつもりで問いかける。
 たった二週間の間、連絡が来なかっただけの相手に。

「飽きてないよ」

 たった一言。
 その一言で満たされた気持ちになるなんて、どうかしていると思う。

 ただ、「そう」と呟いた。
 もしかしたら衣織は、その先の言葉を待っていたのかもしれないと思うくらい、自分から聞いておいてあっさりとした返答。

「苦しかった?」

 そう言われて一番に思い出したのは、葵という女の事だった。
 〝飽きちゃった?〟と聞かれた時に使った方式でいけば、答えはイエス。

 〝苦しかった〟だ。

 しかしその言葉を口にしようとしても、喉元で変換される事は分かっていた。

「ごめんね、無理させて」

 葵という女の事ではなくて、先ほどの行為の事を言っているのだ、と気付いた心の内側が疼く。

 そうじゃない。だけど〝そうじゃない〟を言葉にすれば、それは絶望か希望のどちらかに偏ってしまう。

 一体、葵という女性とはどういう関係?
 私とのデートの後で、一緒にいるところを見たんだけど。それについてはどう思ってるの?

 気になるなら聞けばいいだけの話だ。
 衣織はそうした。

 〝アレ、誰?〟という無骨な言葉だったが、確かに自分の口で問いかけた。

「別に、平気」

 自分の強がるところが嫌い。

 葵を置いて自分の所に来たのだろうか。
 必然的に、そうなる。

 衣織は美来を抱きしめた。
 純粋に愛し合ったカップルの事後みたいな抱擁。

 今ある感情に、これほど似合わないものはない。

 本当に、自分の内側には品性のかけらすらないのではと思った。

 衣織が葵を置いて自分の所に来たことが、選ばれたことが、嬉しいなんて。

 服がない分、肌が直接密着する。
 明らかな安心感に戸惑っているのに、それに身を委ねたい感覚に陥ってる。

 美来は自分から衣織に唇を重ねた。
 唇を離すと、衣織はほんの少し目を見開いていた。

 衣織がするみたいに、美来は衣織の顔を包むように持って、もう一度口付けを落とした。

「いいの?」

 衣織のその声はいつも通りに聞こえて、明らかな余裕が抜け落ちている。

「俺、我慢しないよ」

 苦手そうだもんね、我慢。

 という言葉すら、返す気にならなかった。
 何も察してくれないから、何も話してあげない。

 もうどうせ部屋に入れてしまったのだから、そして今日はこのまま泊っていくのだろうから、関係ない。

 めちゃくちゃにしてほしい、というセリフの意味を、理解する日が来るとは思わなかった。

 衣織の身の回りの事を考えて、一喜一憂する事はお休みにしたい。
 頭を空っぽにして、バカになりたいから。

 だから、めちゃくちゃにしてほしい。
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