ダメな大人の見本的な人生
29:ほのぐらい
「おはよう」
乙ゲーの初夜明けくらい完璧な笑顔と角度で衣織は言う。
幸せだな、他人事のようにぽつりと思う。そしてほとんど同時に本当にアホみたいな話だと自覚した。
衣織はニコニコの笑顔を貼り付けて美来を見ていた。
どうして朝からそんなに上機嫌なんだ。
そう考えて、先ほどの感情を上書きした。
「……おはよ」
ぼそりと朝の妥当なテンションで呟く美来にも、衣織は笑顔を崩すことはなかった。
「美来さん、可愛い」
どんな人生を歩んできたら、歯の浮く様なセリフがすらすらと出てくるのだろう。
そして美来は昨日の夜の出来事を思い出していた。
最初こそ衣織に身を任せるしかない状態だったが、自分から誘ってした行為については、ただ本当に恋人同士のような時間を過ごした。
衣織に「可愛い」「可愛い」と手放しで褒められて、気分が盛り上がって相当大胆なことをした覚えもある。
どちらも違う意味で、思い出すだけで刺激が強い。
どうして人間は、夜と朝とでテンションが違うのだろう。
もしかして朝の自分と夜の自分は別人なのでは。
朝になって少し反省したが、まあ別にこの子だしな。という所に収まる。
できれば衣織に対して時々発生する謎の安心感のようなものにも名前が欲しいところだ。
美来は布団をひっつかんで衣織に背を向けてダンゴムシのように丸くなった。
まだ眠りたい。
しかし、一向に眠気は来ない。
頭はもう起きたいと言っているのに、身体はまだ眠っていたいと言っている様な。
美来は諦めて、布団を放り投げて身を起こした。
「もう眠れない」
美来が放り投げた布団は、衣織を食べるように覆い隠した。
しかし彼は何事もなかったかのように布団を腕で押しやりながら、また上機嫌な笑顔を浮かべている。
「とりあえずシャワー」
「やっと浴びられるね」
「……誰のせいだと思ってるの?」
他人事のように言う衣織に、美来は恨みをたっぷり込めてそう言った。
一体誰に引きずられて元の位置に戻されたのだったか。彼は覚えていないらしい。
「でも、美来さんから誘ってくれた」
衣織はそう言うと、今度こそとベッドから降りようとしている美来を後ろから抱きしめた。
「また誘って」
すぐ耳元で衣織が言うから。
ぞくりと背筋を這って、一気に〝夜〟に引きずり込まれる様な感覚。
これはまずいと思った。
「気が向いたらね」
その場で思いついただけの言葉を言って、美来は衣織の手を振り払って立ち上がった。
散々楽しんでおいて随分わがままだと思いながら、美来は足早に部屋を出た。
「いってらっしゃい」
衣織はひらひらと手を振りながら、寝室を出る美来を見送る。
キッチンの横を通り過ぎる時、戸棚を横目に思った。
今日は鍋くらい作ってあげよう。
そう決めた美来は、髪の毛は衣織が帰ってからゆっくり洗う事に決めてシャワーを浴びた。
待たせたら悪いという感情は、言い訳なのかもしれない。
衣織の中で、自分はどんな存在なんだろう。
ただ、顔がいいだけのお姉さん?
じゃあ、あの葵という女性が、本命?
もしかして葵という女性と付き合ってはいるものの、葵は自分が忙しいから女性関係には一切口を出さない契約で付き合っている、とか。
あり得る。
葵のあの自信に満ちた様子でも、説明が付く気がした。
そこまで考えて、美来はため息をついた。
どうしてそんな大事なことを昨日の夜のテンションで聞いておかなかったんだろう。
いや、大事な事ってなんだ。
別に大切ではないはずだ。
これはただの遊びで、極めて短絡的なものだ。
時間をあえて消費して、消費した分強い娯楽要素がある、ギャンブルとか、その類いのもの。
惚れたら負け、という言葉が頭をよぎる。
遊ぶならもう少しちゃんと割り切りたい。
そうすればきっと、いい部分だけを抽出して遊ぶことができるのに。
美来は溜息をついてバスルームから上がると、ラフな格好に着替えた。
シャワーを浴びただけで気分がいい。
美来がリビングドアを開けると、衣織はスーツのズボンとシャツを身に着けてソファに座っていて、長い脚を組んでスマートフォンをいじっていた。
「シャワー、いいの?」
「うん。大丈夫」
「そう」
美来はそう言いながら、電気ポットにお湯を入れる。
しかし意識のほとんどは、ソファにいる衣織に向いていた。
「あの人?」
美来は何の気もない風を装って衣織に問いかける。
「あの人?」
衣織はそういって顔を上げると、美来の方へと視線を移す。
その顔はきょとんとしていて、本当に誰の事を言っているのかわかっていない様子だった。
「昨日の。置いてきちゃったんでしょ」
「ああ」
ほとんど無意識に、探りを入れる様な言い方をしてしまう。
衣織は納得したようにそう言って、またスマートフォンに視線を移す。
「違う違う。今日予定あるからさ。その連絡」
昨日の彼女に対するなんの情報も得られないまま、今日衣織に予定があるという事実が感情を悲しさに傾ける。
どうしてこんな気持ちになるのか、分からなかった。
この子はどうして葵という女とデートをしていたところを見られて、話題に出されても平常心を保っているのだろう。
顔だけで見ている女に見られたところで別に何も、という事だろうか。
なんなの。という気持ちになるのに、鍋を作ってあげたいという気持ちは消えなかった。
「じゃあ、もう帰るの?」
「うん。そろそろ帰ろうかな」
衣織はそう言うと、立ち上がって寝室から持ってきたスーツに袖を通す。
執着する割に、あっさり帰る。
この子は、いつもそうだ。
衣織がもう帰ることは分かっていて、美来はカバンの中からタバコを取り出て火をつけた。
ほんの少しの抵抗。
ほんの少し、一緒にいる時間が延びるだけ。
火をつけて煙を吐き出してから、灰皿にしたマグカップに水を張った。
「コレ、吸い終わってからでいい?」
廊下をあるいてドアの外に出るだけなのだから、一人でいいに決まっている。
「うん。全然」
それでも衣織が、玄関まで送ってほしいと思っている事に賭けた。
衣織は人懐っこい笑顔を浮かべて、準備を手早く終える。
美来は何も気にしていない様子で、煙を眺めるふりをする。
何を思ったのか、衣織はダイニングテーブルとお揃いの椅子を一脚、キッチンに持ち込んだ。
「よいしょ」
キッチンに持ち込んだ椅子を、換気扇の下にいる美来のすぐそばに下す。
「……何してるの?」
「少しでも近くにいたいなーって思って」
胸が鳴る。
衣織は持ってきた椅子に腰かけて、後ろから美来の腹部に腕を絡めた。
抵抗せずに身を任せれば、衣織の膝の上に腰を下ろすことになる。そして実際、そうなった。
「なにこれ」
いたって冷静。を装う。
「美来さんを膝の上に乗せてる」
衣織はそう言うと、後ろから美来の首元に顔を埋めた。
「楽しいの?」
大人ぶって、そう答える。
余裕なんてほとんどないくせに、余裕があるフリをして、タバコの煙を吐き出した。
喧嘩、というべきなのかわからないが、昨日のいざこざは彼の中でどこに収まったのだろう。
もうなかったことになったのだろうか。
顔がいい女と自分だけがセックスできれば、後の事はどうでもいい。とか。
その質のいいスーツも、あの人に仕立ててもらったんでしょ。
センスのいい香水の匂いが抜け切っていないのは、あの人から他の女性へのけん制のつもり?
いろいろ考えても、結局何もまとまらない。
しかし美来には衣織に今思っている事の全部を質問する気にもぶつけるつもりもなかった。
答えてくれたところでなんだと言うんだ。
人生が交わるわけでもあるまいし。
だからどうにか名前のつけようとないこの気持ちを消化して、なかったことにしてしまいたい。
「美来さん、いい匂い」
電気も付けていないカーテンから太陽の光が漏れているだけの仄暗い部屋の中に、二人きり。
どうせ髪を洗う為にもう一度シャワーを浴びたい。
いろんな条件が脳内で算出を始めるから、気を抜くと変な気がおきそうで。
「もう終わっちゃう?」
衣織がほんの少しだけ切羽詰まった声を出すから。
「もう少し」
なんだか少しいじめたい気にもなる。
衣織は美来の腹部に絡めていた腕に力を込めて、身体と身体を密着させる。
「変態」
美来はなるべく衣織から意識を遠ざけて、換気扇に吸い込まれている煙を見つめていた。
「ちゃんと我慢するから」
言動の全部が、確信を突かない。
我慢が苦手な子から〝我慢する〟という言葉が出る事がエロいな、と思っている時点で変な思考回路を辿っているのだと思う。
タバコをフィルターのギリギリまで吸うなんてかっこ悪い。
そんな考えがあるのに、もう少しでも吸い込めば指先が熱を持つ、ギリギリまで。
「終わった」
美来が衣織の手に当たらない様に少し手を浮かせて言うと、衣織の腕がゆっくりと離れた。
「え~もう?」
美来が身を起こしてマグカップにタバコを浸すまでの短い間、衣織は言う。そして美来はそのままタバコから指を離した。
「玄関まで送って」
「はいはい」
テキトーに流しているふりをする。
そういわれることは、想像できていたくせに。
美来は最初に衣織が部屋に来た時の様に玄関までの十歩とない距離を歩く。
「また来るね」
「んー」
この場合、どんな返事なら差支えがないのだろう。
〝また来る〟事に対して喜べる相手なら、例えば恋人同士とか。
そんな関係なら、待ってるね。なんて可愛らしい言葉が使えるだろう。
しかし、プライドが邪魔をする。プライドだけじゃない。〝女〟という差し迫った価値が、邪魔をする。
衣織はまた、触れるだけの口付けを落とす。
二度目なのだから想定内。もしかすると、期待すらしていたのかもしれない。
ドアから漏れた光が細くなって、それから消える。
また、ひとりぼっち。
乙ゲーの初夜明けくらい完璧な笑顔と角度で衣織は言う。
幸せだな、他人事のようにぽつりと思う。そしてほとんど同時に本当にアホみたいな話だと自覚した。
衣織はニコニコの笑顔を貼り付けて美来を見ていた。
どうして朝からそんなに上機嫌なんだ。
そう考えて、先ほどの感情を上書きした。
「……おはよ」
ぼそりと朝の妥当なテンションで呟く美来にも、衣織は笑顔を崩すことはなかった。
「美来さん、可愛い」
どんな人生を歩んできたら、歯の浮く様なセリフがすらすらと出てくるのだろう。
そして美来は昨日の夜の出来事を思い出していた。
最初こそ衣織に身を任せるしかない状態だったが、自分から誘ってした行為については、ただ本当に恋人同士のような時間を過ごした。
衣織に「可愛い」「可愛い」と手放しで褒められて、気分が盛り上がって相当大胆なことをした覚えもある。
どちらも違う意味で、思い出すだけで刺激が強い。
どうして人間は、夜と朝とでテンションが違うのだろう。
もしかして朝の自分と夜の自分は別人なのでは。
朝になって少し反省したが、まあ別にこの子だしな。という所に収まる。
できれば衣織に対して時々発生する謎の安心感のようなものにも名前が欲しいところだ。
美来は布団をひっつかんで衣織に背を向けてダンゴムシのように丸くなった。
まだ眠りたい。
しかし、一向に眠気は来ない。
頭はもう起きたいと言っているのに、身体はまだ眠っていたいと言っている様な。
美来は諦めて、布団を放り投げて身を起こした。
「もう眠れない」
美来が放り投げた布団は、衣織を食べるように覆い隠した。
しかし彼は何事もなかったかのように布団を腕で押しやりながら、また上機嫌な笑顔を浮かべている。
「とりあえずシャワー」
「やっと浴びられるね」
「……誰のせいだと思ってるの?」
他人事のように言う衣織に、美来は恨みをたっぷり込めてそう言った。
一体誰に引きずられて元の位置に戻されたのだったか。彼は覚えていないらしい。
「でも、美来さんから誘ってくれた」
衣織はそう言うと、今度こそとベッドから降りようとしている美来を後ろから抱きしめた。
「また誘って」
すぐ耳元で衣織が言うから。
ぞくりと背筋を這って、一気に〝夜〟に引きずり込まれる様な感覚。
これはまずいと思った。
「気が向いたらね」
その場で思いついただけの言葉を言って、美来は衣織の手を振り払って立ち上がった。
散々楽しんでおいて随分わがままだと思いながら、美来は足早に部屋を出た。
「いってらっしゃい」
衣織はひらひらと手を振りながら、寝室を出る美来を見送る。
キッチンの横を通り過ぎる時、戸棚を横目に思った。
今日は鍋くらい作ってあげよう。
そう決めた美来は、髪の毛は衣織が帰ってからゆっくり洗う事に決めてシャワーを浴びた。
待たせたら悪いという感情は、言い訳なのかもしれない。
衣織の中で、自分はどんな存在なんだろう。
ただ、顔がいいだけのお姉さん?
じゃあ、あの葵という女性が、本命?
もしかして葵という女性と付き合ってはいるものの、葵は自分が忙しいから女性関係には一切口を出さない契約で付き合っている、とか。
あり得る。
葵のあの自信に満ちた様子でも、説明が付く気がした。
そこまで考えて、美来はため息をついた。
どうしてそんな大事なことを昨日の夜のテンションで聞いておかなかったんだろう。
いや、大事な事ってなんだ。
別に大切ではないはずだ。
これはただの遊びで、極めて短絡的なものだ。
時間をあえて消費して、消費した分強い娯楽要素がある、ギャンブルとか、その類いのもの。
惚れたら負け、という言葉が頭をよぎる。
遊ぶならもう少しちゃんと割り切りたい。
そうすればきっと、いい部分だけを抽出して遊ぶことができるのに。
美来は溜息をついてバスルームから上がると、ラフな格好に着替えた。
シャワーを浴びただけで気分がいい。
美来がリビングドアを開けると、衣織はスーツのズボンとシャツを身に着けてソファに座っていて、長い脚を組んでスマートフォンをいじっていた。
「シャワー、いいの?」
「うん。大丈夫」
「そう」
美来はそう言いながら、電気ポットにお湯を入れる。
しかし意識のほとんどは、ソファにいる衣織に向いていた。
「あの人?」
美来は何の気もない風を装って衣織に問いかける。
「あの人?」
衣織はそういって顔を上げると、美来の方へと視線を移す。
その顔はきょとんとしていて、本当に誰の事を言っているのかわかっていない様子だった。
「昨日の。置いてきちゃったんでしょ」
「ああ」
ほとんど無意識に、探りを入れる様な言い方をしてしまう。
衣織は納得したようにそう言って、またスマートフォンに視線を移す。
「違う違う。今日予定あるからさ。その連絡」
昨日の彼女に対するなんの情報も得られないまま、今日衣織に予定があるという事実が感情を悲しさに傾ける。
どうしてこんな気持ちになるのか、分からなかった。
この子はどうして葵という女とデートをしていたところを見られて、話題に出されても平常心を保っているのだろう。
顔だけで見ている女に見られたところで別に何も、という事だろうか。
なんなの。という気持ちになるのに、鍋を作ってあげたいという気持ちは消えなかった。
「じゃあ、もう帰るの?」
「うん。そろそろ帰ろうかな」
衣織はそう言うと、立ち上がって寝室から持ってきたスーツに袖を通す。
執着する割に、あっさり帰る。
この子は、いつもそうだ。
衣織がもう帰ることは分かっていて、美来はカバンの中からタバコを取り出て火をつけた。
ほんの少しの抵抗。
ほんの少し、一緒にいる時間が延びるだけ。
火をつけて煙を吐き出してから、灰皿にしたマグカップに水を張った。
「コレ、吸い終わってからでいい?」
廊下をあるいてドアの外に出るだけなのだから、一人でいいに決まっている。
「うん。全然」
それでも衣織が、玄関まで送ってほしいと思っている事に賭けた。
衣織は人懐っこい笑顔を浮かべて、準備を手早く終える。
美来は何も気にしていない様子で、煙を眺めるふりをする。
何を思ったのか、衣織はダイニングテーブルとお揃いの椅子を一脚、キッチンに持ち込んだ。
「よいしょ」
キッチンに持ち込んだ椅子を、換気扇の下にいる美来のすぐそばに下す。
「……何してるの?」
「少しでも近くにいたいなーって思って」
胸が鳴る。
衣織は持ってきた椅子に腰かけて、後ろから美来の腹部に腕を絡めた。
抵抗せずに身を任せれば、衣織の膝の上に腰を下ろすことになる。そして実際、そうなった。
「なにこれ」
いたって冷静。を装う。
「美来さんを膝の上に乗せてる」
衣織はそう言うと、後ろから美来の首元に顔を埋めた。
「楽しいの?」
大人ぶって、そう答える。
余裕なんてほとんどないくせに、余裕があるフリをして、タバコの煙を吐き出した。
喧嘩、というべきなのかわからないが、昨日のいざこざは彼の中でどこに収まったのだろう。
もうなかったことになったのだろうか。
顔がいい女と自分だけがセックスできれば、後の事はどうでもいい。とか。
その質のいいスーツも、あの人に仕立ててもらったんでしょ。
センスのいい香水の匂いが抜け切っていないのは、あの人から他の女性へのけん制のつもり?
いろいろ考えても、結局何もまとまらない。
しかし美来には衣織に今思っている事の全部を質問する気にもぶつけるつもりもなかった。
答えてくれたところでなんだと言うんだ。
人生が交わるわけでもあるまいし。
だからどうにか名前のつけようとないこの気持ちを消化して、なかったことにしてしまいたい。
「美来さん、いい匂い」
電気も付けていないカーテンから太陽の光が漏れているだけの仄暗い部屋の中に、二人きり。
どうせ髪を洗う為にもう一度シャワーを浴びたい。
いろんな条件が脳内で算出を始めるから、気を抜くと変な気がおきそうで。
「もう終わっちゃう?」
衣織がほんの少しだけ切羽詰まった声を出すから。
「もう少し」
なんだか少しいじめたい気にもなる。
衣織は美来の腹部に絡めていた腕に力を込めて、身体と身体を密着させる。
「変態」
美来はなるべく衣織から意識を遠ざけて、換気扇に吸い込まれている煙を見つめていた。
「ちゃんと我慢するから」
言動の全部が、確信を突かない。
我慢が苦手な子から〝我慢する〟という言葉が出る事がエロいな、と思っている時点で変な思考回路を辿っているのだと思う。
タバコをフィルターのギリギリまで吸うなんてかっこ悪い。
そんな考えがあるのに、もう少しでも吸い込めば指先が熱を持つ、ギリギリまで。
「終わった」
美来が衣織の手に当たらない様に少し手を浮かせて言うと、衣織の腕がゆっくりと離れた。
「え~もう?」
美来が身を起こしてマグカップにタバコを浸すまでの短い間、衣織は言う。そして美来はそのままタバコから指を離した。
「玄関まで送って」
「はいはい」
テキトーに流しているふりをする。
そういわれることは、想像できていたくせに。
美来は最初に衣織が部屋に来た時の様に玄関までの十歩とない距離を歩く。
「また来るね」
「んー」
この場合、どんな返事なら差支えがないのだろう。
〝また来る〟事に対して喜べる相手なら、例えば恋人同士とか。
そんな関係なら、待ってるね。なんて可愛らしい言葉が使えるだろう。
しかし、プライドが邪魔をする。プライドだけじゃない。〝女〟という差し迫った価値が、邪魔をする。
衣織はまた、触れるだけの口付けを落とす。
二度目なのだから想定内。もしかすると、期待すらしていたのかもしれない。
ドアから漏れた光が細くなって、それから消える。
また、ひとりぼっち。