ダメな大人の見本的な人生

31:重罪のバター

【開店前にスナックみさ集合ね! なるはやー】

 仕事が終わるギリギリで実柚里から来た連絡。
 なるはやって、なるべくはやくの事か。

 定時で仕事が終わって急げば、スナックみさの開店前の時間に間に合う。という事は、今から真剣にやらないと間に合わない。

 いや、今日は間に合わないんじゃないか。

 美来は実柚里に返事をすることも忘れて、定時ちょうどに駆け出す為に、急いで仕事を片付けた。

 あの日以来、衣織からの連絡はない。
 会いに来ることもない。

 三週間以上、衣織とのチャットアプリのルームは動いていない。
 何度トーク画面を開いたかはわからないが、その度に今連絡が来たら〝既読〟の通知が付いてしまうと焦って画面を消す。

 連絡が来たら、は杞憂でした。という結末。
 飽きもせず繰り返していた。

 衣織が一晩泊まって行った日から会っていないという事になるから、約一週間。

 結局自分たちはどういう関係で、葵と衣織はどういう関係なのか。何一つわからないまま、時間だけが過ぎていく。

 わからなくていいはずなのに。
 会いに来ない事も、連絡を取らない事も、他人なら当たり前のはずなのに。
 落ち着かない。

 きっと不規則なリズムに慣れ過ぎてしまったから。

 美来がスナックに入ると、すでにカウンターには実柚里がいて、美妙子はご機嫌な様子でカウンターに頬杖をついていた。

「あ、美来さーん。美妙子さんオススメのジャムをね、デパートで見つけたんだ! 食べるでしょー?」
「私はパンを買ってきたの。楽しみね」
「美妙子さんのおかげだよ。あんな美味しいジャム教えてくれたんだもん」
「何言ってるの。買ってきてくれた実柚里ちゃんのおかげよ」

 実柚里と美妙子は美来なんてそっちのけで話を進める。

 美来は息を整えた後、握りしめていたスマートフォンで実柚里とのトーク画面を開いた。

 肝心なスナックみさに集まる内容を確認していなかったことに気付いた美来は、息を吐いて気を抜いた。

 パンなら急がなくてよかったんじゃ、とか。先に言っといてよ、とかいろいろな言葉が浮かんだが、結局なにか言う気にもなれなかったので、美来は「誘ってくれてありがとう」と蚊の鳴く様な声でそういって、カウンターに腰を下ろした。

 のれんの向こう側から軽い音がして、美妙子は弾かれた様に顔を上げた。

「焼けた!」

 上機嫌でカウンターをぐるりと回ってのれんをくぐる美妙子が、なんだか可愛らしい。

「何のジャム?」
「あんバターとー、いちごバター!」

 実柚里は分厚い紙袋から丁寧に梱包されたビンを取り出して、乱暴に緩衝材をむしり取りながら言う。

 どうして万物の食べ物は〝バター〟とついていると途端に十割増しで食欲がそそられるのだろう。

「できたよー」

 美妙子は上機嫌な様子でそう言うと、パンを三枚おしゃれなまな板の上にのせて持ってきた。

「まだ焼いてるから、いっぱい食べましょうね」
「やったー!」

 美妙子が買ってきたというパンはスーパーで売っているパンとは明らかに違っていた。
 しっとりした部分とカリッとした部分が調和していて、バターがよく染みそうだ。

「さっそく食べよ~」

 実柚里はそういって緩衝材をむしり取ったあんバターのビンを開けようとした。

「……あれ、開かない」

 そういってもう一度力を入れるが、ふたが開くことはなかった。

「貸して」

 見かねた美来がそう言うと実柚里は「本当に固いよ」と言いながら美来にビンを渡した。

 一人暮らし歴の長い大人を舐めるんじゃないよ。

 男手のない一人暮らしがどれだけ大変なことか。

 ビンが開かないくらいで弱音は吐いていられない。
 隙間に油を塗ってでも、輪ゴムを束ねて手が滑らないようにしてでも自分で開けるしかないんだ。

 自分の道は自分で切り開くしかないんだから。
 だからさっさと結婚して、平穏が訪れてほしいんだ。
 つまるところ、本当ならビンのふたを開けているひまなんてない。

 たったビン一つで人生論にまで至った美来は、いつも通りビンを開けようとした。

「……あれ?」
「ほら、開かないでしょ?」

 実柚里の最初から期待してなかった。とでも言いたげな様子にムキになった美来は、思いきり力を入れて試してみるが、びくともしなかった。

「二人とも細すぎるのよ。貸しなさい。私はこの手で自分の人生を切り開いてきたんだから」

 美妙子と同じ人生論を持っていることに複雑な気持ちを抱えながら、美来はビンを手渡す。
 美妙子はすぐにビンを開けようと試みた。

「あれ」

 しかし、先陣を切った二人と全く同じ反応をする。

「開かない」

 もう一度試すも、それは同じ結果だった。

「おかしいわね」
「美妙子さん、いつも店でビンが開かない時はどうしてるの?」
「大体常連さんがいるから」

 意気込んだ手前、胸を張って言えないのか。美妙子は少し恥ずかしそうにそう言った。

 ドアのベルが鳴った。

 もう開店時間か。
 そう考えて何の気なしに美来は振り返る。

 突然の事に驚きすぎて声一つ出なかった。
 ここ三週間で、会わない生活に慣れていた男が。

 衣織が立っていた。

 最近何してるの? という怒りに似た、二人の関係には不釣り合いな感情と、会えた事への嬉しさ。
 また、訳の分からないくらい、ぐちゃぐちゃに混じる。

「やった。美来さんがいる」

 それなのに衣織は、いつも通りの笑顔を浮かべて、いつも通りの言葉を言う。

「来た来た。おーい、クズ~」
「なに?」

 衣織はいつも通りの様子でカウンターに近付いてきた。

 実柚里が衣織を〝クズ〟と呼んでいる事も、それを衣織が全く気にしていない所もおもしろすぎて、美来は複雑な感情なんて忘れて、息を漏らす様に笑った。

「ビンのふた開けて」
「何くれるの?」
「パン食べさせてあげる」
「別にいらないけど」

 ほとんど断られているようなものだが、実柚里には明らかな圧倒的勝者の余裕があった。

「美来さんが困ってるんだよ」

 そう言うと衣織はほんの少しだけ目を見開いて表情を変える。
 そして実柚里から美来の方へと視線を移した。

「美来さん、困ってるの?」

 どうして〝問いかける〟という行動だけで可愛いとかっこいいが共存するんだろう。

 意味が分からない思考回路に入っている美来は、「ああ」とか「まあ」とか言葉にならない言葉を発する。

 言葉を発しておいて、いったい自分が何に困っているのか全く分からなかった。

「そう。困ってるの。美来さんがふた開けようとしてくれたんだけど、ほら!」

 そう言うと実柚里は無理矢理美来の手を握って衣織の前に差し出した。

「こんなに真っ赤になっちゃって!」

 実柚里がそう言うと、衣織は美来の手をまじまじと見た。

「ジンジンするんだって!」
「貸して」
「どうぞ」

 衣織と実柚里は阿吽の呼吸でやり取りをする。
 衣織は少し力を入れたが、「固っ」と呟いてもう一度ビンを握る。

 そしてそれは、パカッとあっけない音を立てて開いた。

「おお、ありがとう。次これね」

 衣織は黙って実柚里からいちごバターのビンを受け取ると、今度はあっさりとあけた。

「ありがとう、衣織くん。衣織くんも食べるでしょ?」
「いただきます」

 やはり上機嫌な様子の美妙子は、丁寧に返事をする衣織に皿を差し出す。

 そして美来と実柚里にも皿を渡すと、焼いたパンをおしゃれなまな板からそれぞれの皿に移した。

 美妙子が実柚里にバターナイフをふたつ手渡したタイミングでのれんの向こう側からまた音が鳴って、美妙子はまな板を持ったままのれんの向こう側に消えた。

 またドアのベルが鳴ったと同時に、大きなあくびをする声、というか、音。

「あ、ハルさんも来たー」

 ハルは寝ぐせをつけたまま目を擦りながら、カウンターに近寄った。
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