ダメな大人の見本的な人生
32:大罪のイチゴ
カウンターに座ったハルの髪には、隠す気のない寝ぐせが付いている。
「寝起きにパンって……朝ご飯じゃん」
「だと思って食いに来たんだよ」
「今何時だと思ってんの?」
「起きた時間がその人間にとっての朝なんだよ」
呆れた美来の様子なんて気にも留めず、ハルはあくびをかみ殺した。
大人としてのプライドがないのはいつもの事。本当にいつだって自由で羨ましい。
実柚里はご機嫌な様子でトーストにジャムを塗っている。
美来がふいに視線を移すと、衣織が効果音でも付きそうな程ジーっと、美来を見ていた。
「……なに?」
「今日も顔がいいなーって」
あー、はいはい。顔ね。
わかった、わかった。わかりましたよっと。くらいのテンションで、気持ちが一気にすーっと引いて、妙に冷静になる。
諦めと納得が共存する。
それからにじむような少しの寂しさ。
「今日も私を褒めてくれてありがとう」
結局この子は、顔がいい女と一緒にいられればそれでいいんだろう。
そう何度も思った。
何度も思ったのに諦められないから、納得ができないから。
自分の中で消化しきれないから苦しいんだ。
「美来さん、またテキトーにしてる」
「してないしてない」
でもこうやって、ふざけ合っているのは嫌いじゃない。
相反する感情が同時に心の内側を埋め尽くすのは、訳が分からないからやめてほしい。
「あら、まだ食べてなかったの?」
そう言いながら美妙子はまな板にパンを乗せて、向こう側からのれんをくぐった。
「ああ、ハルくん、いらっしゃい。……あったかい内に食べましょうよ」
実柚里が塗り終わったパンを皿にのせて差し出した。
みんなで申し訳程度の「いただきます」の挨拶をして、パンにかじりついた。
「おいし~」
「このジャム、本っ当に最っ高よね」
実柚里の言葉に美妙子はすぐさま反応する。
美来は仕事で疲れた身体と、様々な理由からすり減った精神に甘いあんこと芳醇なバターがしみこむ。
疲れてから回る思考回路がたどり着いた結論が〝もう食パンになりたい〟だった。
しかしその言葉を口にしたとしても誰も共感してくれるとは思えなかったので、美来は渾身の理性をふり絞って「しあわせ……」と呟いた。
自分の声が心の内側に落ちる。
やっと納得したように、たまにこんな穏やかな幸せがあれば他の事は何もいらない。と単純な答えを出す。
「幸せよね~。やっぱり人間たまには休まないとダメね」
「本当本当。根詰めてばかりだと、気分落ちちゃうもん。甘いもの食べて休まないと」
美妙子に続きそういう実柚里に、美来は人知れず大きく頷いた。
そうそうそれ。それが言いたかった。という感情を頷くことだけで全て表現する。
「お前、口ついてるよ」
「え? どこ?」
ハルに言われて、実柚里は自分の口角に触れる。
どうしてそうなったのか。実柚里の頬にはべったりとあんバターが付いていた。
しかし実柚里はほんの少しついているだけだと思っている様で、不思議そうな顔で未だに口角を触っている。
見かねたハルはティッシュを手に取り、実柚里の頬に手を伸ばした。
「こっちな」
さらりとイケメンムーブをかますハル。
お前、そんなこともできたのか? 私は知らなかったぞ。と思う美来をよそに、実柚里はそれに対して思う所はないようで、自分の頬からたった今離れたティッシュを見る。
そして不服そうに口をゆがめた。
「くやしい。一口分くらいはあるよね、この量」
ハルはきょとんとした顔をして、それから噴出して笑った。
「食い意地張り過ぎだろ」
楽しそうに笑うハルを、美来は信じられない気持ちで見ていた。
ハルは本当の感情を大きく表に出さない。
こんなに楽しそうに笑っている所を初めて見た。
なんだかお似合いで、幸せそうな二人を羨ましく感じる。
絶対に口にはしないが、まるで推しと推しが想定外の場所で絡んでいるくらいの尊さを、美来は感じていた。
実柚里とハルのやり取りを見ていた衣織が、自分のいちごバターのジャムの乗ったトーストを見つめた。
嫌な予感がした美来だったが、べちゃりと頬に自らトーストを押し付けた衣織によりその嫌な予感はど真ん中に的中する。
衣織は頬にジャムをつけたままティッシュを手に取り、美来に差し出した。
「……なにかな?」
「俺のほっぺも拭いて」
〝ほっぺ〟なんて言って許されるのなんて本当に今だけだからな?
いつまでも、そしてどこでも誰にでも、通用する技だと思うなよ?
そう思いながらも、気付けば美来は彼の頬についたジャムを無言で拭き取っていた。
頭ではこんなことを平気でやる姑息な子だと分かっているのに、どうして〝もう、仕方ないなぁ~〟という気持ちになるのだろう。
美来は自分に溜息をつきたい気持ちを抑えた。
「ありがとう」
しかし衣織が余りに嬉しそうにお礼を言うから、美来は「どういたしまして」という小さな一言を呟くと同時に、可愛いかよ、と心の中で暴れるもう一人の自分とひっそりと激戦を繰り広げるしかなかった。
最後のいちごバタートーストに手を伸ばしたのは衣織だった。
ああ、食べたかったないちごバター。と思っていると、衣織はそれを半分に裂いた。
「はいどうぞ」
「……ありがとう」
ほとんど放心状態のまま衣織からパンを受け取る。
いちごバターを食べていないことに気付いてくれていたんだな、と思うと、また嬉しい気持ちになるから勘弁してほしい。
しかも衣織はしれっと大きな方を手渡していた。
きっと楽しみにしていただろう。
大きな方を人に渡すという事ができる子だと言うだけで、明らかに心の中でポイントが上がっていく。
〝顔がタイプのお姉さん〟にさえここまでできるのだから、この子は本当にモテるだろうな。と思ったが、彼女が隣にいるのに〝好きな人〟と紹介する様な子なのだから、その気遣いは限定的に働くものなのだろうという所に収まる。
何度も言うが自分のデートの後に他の女性と腕を組んで歩ける様な男だ。
常に気遣いができるはずがない。
しかし、やはり、よく見てくれている事は嬉しくて。
〝教えてあげないと。美来ちゃんは何が好きで、何が嫌いか。どうしてほしくて、どうしてほしくなのか。察して、って言うのは、少しわがままね〟
この前このスナックで美妙子と二人で話をした時の助言を思い出して、美来は笑顔を作った。
「食べたいなーって思ってたんだ」
そう言うと、衣織はかじりつこうと小さく開けていた口の動きを止めた。
「ありがとうね、衣織くん」
ほんの少しの照れ隠しをしながら言う美来に、衣織は少し間を開けて、自分の口元からパンを遠ざけた。
「……美来さんが可愛い」
ぼそりと呟く。
「あー……可愛い」
衣織はパンを持ったまま首の力を抜いて真下を向いた。
「いいな~美来さん」
美来は実柚里の方向へと視線を向けた。
「衣織めっちゃチョロいから、言う事なんでも聞くじゃん」
「発想がクズなんだよ」
実柚里の言葉にすかさずツッコミを入れるハル。
「うん。聞く。なんでもいう事聞く」
しかし衣織は顔を上げて、妙に真っ直ぐないい目をしている。
「ほんとにあなた達見ていると飽きないわね」
呆れた様な、しかし嬉しそうに美妙子がいう。
衣織と葵がデートしてた、というか自分もデートしていたバーを美来は思い出していた。
少し背伸びをしていた。やっぱり、この場所が好きだ。
気兼ねなく入れて、いつでも集まれて、誰かが話を聞いてくれる。心の底から安心できる。そんな自分だけの居場所。
心の中で思ったことが、なぜか別の所と繋がった。
自分が結婚をしたい理由は、安心感が欲しいのだろうと思っていた。
本当はこのスナックみたいな〝居場所〟が欲しいのかもしれない。
話を聞いてくれて、安心ができる、自分だけの居場所。
揺るがないその居場所が欲しいから、結婚したい。
その結論に、納得する。
これ以上ないくらい。
しかしそれから派生して、じゃあ年齢は関係ないんじゃないのか。と問いかける事には、まだ答えは出ない。
受け入れてしまえば、衣織への気持ちを完全に認めてしまうことになるから。
酷い事になる予感しかしない。
セフレというのかは知らないが、顔だけを見ている衣織と付き合ったとして、顔は劣化するんだから。
凄く近くにいるのに、誰よりも遠い気がする。
近づくほど、苦しい。
だから何もかも投げ出してしまいたくなるのに、別の女の所に行かれるのは悲しいのは、どう考えてもわがままだ。
「寝起きにパンって……朝ご飯じゃん」
「だと思って食いに来たんだよ」
「今何時だと思ってんの?」
「起きた時間がその人間にとっての朝なんだよ」
呆れた美来の様子なんて気にも留めず、ハルはあくびをかみ殺した。
大人としてのプライドがないのはいつもの事。本当にいつだって自由で羨ましい。
実柚里はご機嫌な様子でトーストにジャムを塗っている。
美来がふいに視線を移すと、衣織が効果音でも付きそうな程ジーっと、美来を見ていた。
「……なに?」
「今日も顔がいいなーって」
あー、はいはい。顔ね。
わかった、わかった。わかりましたよっと。くらいのテンションで、気持ちが一気にすーっと引いて、妙に冷静になる。
諦めと納得が共存する。
それからにじむような少しの寂しさ。
「今日も私を褒めてくれてありがとう」
結局この子は、顔がいい女と一緒にいられればそれでいいんだろう。
そう何度も思った。
何度も思ったのに諦められないから、納得ができないから。
自分の中で消化しきれないから苦しいんだ。
「美来さん、またテキトーにしてる」
「してないしてない」
でもこうやって、ふざけ合っているのは嫌いじゃない。
相反する感情が同時に心の内側を埋め尽くすのは、訳が分からないからやめてほしい。
「あら、まだ食べてなかったの?」
そう言いながら美妙子はまな板にパンを乗せて、向こう側からのれんをくぐった。
「ああ、ハルくん、いらっしゃい。……あったかい内に食べましょうよ」
実柚里が塗り終わったパンを皿にのせて差し出した。
みんなで申し訳程度の「いただきます」の挨拶をして、パンにかじりついた。
「おいし~」
「このジャム、本っ当に最っ高よね」
実柚里の言葉に美妙子はすぐさま反応する。
美来は仕事で疲れた身体と、様々な理由からすり減った精神に甘いあんこと芳醇なバターがしみこむ。
疲れてから回る思考回路がたどり着いた結論が〝もう食パンになりたい〟だった。
しかしその言葉を口にしたとしても誰も共感してくれるとは思えなかったので、美来は渾身の理性をふり絞って「しあわせ……」と呟いた。
自分の声が心の内側に落ちる。
やっと納得したように、たまにこんな穏やかな幸せがあれば他の事は何もいらない。と単純な答えを出す。
「幸せよね~。やっぱり人間たまには休まないとダメね」
「本当本当。根詰めてばかりだと、気分落ちちゃうもん。甘いもの食べて休まないと」
美妙子に続きそういう実柚里に、美来は人知れず大きく頷いた。
そうそうそれ。それが言いたかった。という感情を頷くことだけで全て表現する。
「お前、口ついてるよ」
「え? どこ?」
ハルに言われて、実柚里は自分の口角に触れる。
どうしてそうなったのか。実柚里の頬にはべったりとあんバターが付いていた。
しかし実柚里はほんの少しついているだけだと思っている様で、不思議そうな顔で未だに口角を触っている。
見かねたハルはティッシュを手に取り、実柚里の頬に手を伸ばした。
「こっちな」
さらりとイケメンムーブをかますハル。
お前、そんなこともできたのか? 私は知らなかったぞ。と思う美来をよそに、実柚里はそれに対して思う所はないようで、自分の頬からたった今離れたティッシュを見る。
そして不服そうに口をゆがめた。
「くやしい。一口分くらいはあるよね、この量」
ハルはきょとんとした顔をして、それから噴出して笑った。
「食い意地張り過ぎだろ」
楽しそうに笑うハルを、美来は信じられない気持ちで見ていた。
ハルは本当の感情を大きく表に出さない。
こんなに楽しそうに笑っている所を初めて見た。
なんだかお似合いで、幸せそうな二人を羨ましく感じる。
絶対に口にはしないが、まるで推しと推しが想定外の場所で絡んでいるくらいの尊さを、美来は感じていた。
実柚里とハルのやり取りを見ていた衣織が、自分のいちごバターのジャムの乗ったトーストを見つめた。
嫌な予感がした美来だったが、べちゃりと頬に自らトーストを押し付けた衣織によりその嫌な予感はど真ん中に的中する。
衣織は頬にジャムをつけたままティッシュを手に取り、美来に差し出した。
「……なにかな?」
「俺のほっぺも拭いて」
〝ほっぺ〟なんて言って許されるのなんて本当に今だけだからな?
いつまでも、そしてどこでも誰にでも、通用する技だと思うなよ?
そう思いながらも、気付けば美来は彼の頬についたジャムを無言で拭き取っていた。
頭ではこんなことを平気でやる姑息な子だと分かっているのに、どうして〝もう、仕方ないなぁ~〟という気持ちになるのだろう。
美来は自分に溜息をつきたい気持ちを抑えた。
「ありがとう」
しかし衣織が余りに嬉しそうにお礼を言うから、美来は「どういたしまして」という小さな一言を呟くと同時に、可愛いかよ、と心の中で暴れるもう一人の自分とひっそりと激戦を繰り広げるしかなかった。
最後のいちごバタートーストに手を伸ばしたのは衣織だった。
ああ、食べたかったないちごバター。と思っていると、衣織はそれを半分に裂いた。
「はいどうぞ」
「……ありがとう」
ほとんど放心状態のまま衣織からパンを受け取る。
いちごバターを食べていないことに気付いてくれていたんだな、と思うと、また嬉しい気持ちになるから勘弁してほしい。
しかも衣織はしれっと大きな方を手渡していた。
きっと楽しみにしていただろう。
大きな方を人に渡すという事ができる子だと言うだけで、明らかに心の中でポイントが上がっていく。
〝顔がタイプのお姉さん〟にさえここまでできるのだから、この子は本当にモテるだろうな。と思ったが、彼女が隣にいるのに〝好きな人〟と紹介する様な子なのだから、その気遣いは限定的に働くものなのだろうという所に収まる。
何度も言うが自分のデートの後に他の女性と腕を組んで歩ける様な男だ。
常に気遣いができるはずがない。
しかし、やはり、よく見てくれている事は嬉しくて。
〝教えてあげないと。美来ちゃんは何が好きで、何が嫌いか。どうしてほしくて、どうしてほしくなのか。察して、って言うのは、少しわがままね〟
この前このスナックで美妙子と二人で話をした時の助言を思い出して、美来は笑顔を作った。
「食べたいなーって思ってたんだ」
そう言うと、衣織はかじりつこうと小さく開けていた口の動きを止めた。
「ありがとうね、衣織くん」
ほんの少しの照れ隠しをしながら言う美来に、衣織は少し間を開けて、自分の口元からパンを遠ざけた。
「……美来さんが可愛い」
ぼそりと呟く。
「あー……可愛い」
衣織はパンを持ったまま首の力を抜いて真下を向いた。
「いいな~美来さん」
美来は実柚里の方向へと視線を向けた。
「衣織めっちゃチョロいから、言う事なんでも聞くじゃん」
「発想がクズなんだよ」
実柚里の言葉にすかさずツッコミを入れるハル。
「うん。聞く。なんでもいう事聞く」
しかし衣織は顔を上げて、妙に真っ直ぐないい目をしている。
「ほんとにあなた達見ていると飽きないわね」
呆れた様な、しかし嬉しそうに美妙子がいう。
衣織と葵がデートしてた、というか自分もデートしていたバーを美来は思い出していた。
少し背伸びをしていた。やっぱり、この場所が好きだ。
気兼ねなく入れて、いつでも集まれて、誰かが話を聞いてくれる。心の底から安心できる。そんな自分だけの居場所。
心の中で思ったことが、なぜか別の所と繋がった。
自分が結婚をしたい理由は、安心感が欲しいのだろうと思っていた。
本当はこのスナックみたいな〝居場所〟が欲しいのかもしれない。
話を聞いてくれて、安心ができる、自分だけの居場所。
揺るがないその居場所が欲しいから、結婚したい。
その結論に、納得する。
これ以上ないくらい。
しかしそれから派生して、じゃあ年齢は関係ないんじゃないのか。と問いかける事には、まだ答えは出ない。
受け入れてしまえば、衣織への気持ちを完全に認めてしまうことになるから。
酷い事になる予感しかしない。
セフレというのかは知らないが、顔だけを見ている衣織と付き合ったとして、顔は劣化するんだから。
凄く近くにいるのに、誰よりも遠い気がする。
近づくほど、苦しい。
だから何もかも投げ出してしまいたくなるのに、別の女の所に行かれるのは悲しいのは、どう考えてもわがままだ。