ダメな大人の見本的な人生

35:たいがい巣穴の中

 目を覚ますと、身体がちょうどよく温まっていた。

 黄昏時のもの寂し気な日の入り方に、まどろみ。包まれている安心感があって、この感覚から抜け出したくないから、まだ目を覚ましたくないと思っている。

「おきた?」

 すぐ耳元から聞こえるかすれた声で、美来は現状についての一切を思い出した。

「おはよ」
「おはよう」

 返事をするとすぐ後ろから、まだ少しかすれた、優し気な声が返ってくる。

 それがストンと下腹部に落ちて堪らない気持ちになるのはきっと、まだ酒が残っていて、なおかつ寝起きだからだと思う。

 日は落ちかけている。
 遮るカーテンを押しのけて、日の光は昼間とは違った入り方をしている。

 西日はどうして人をセンチメンタルな気持ちにさせるのだろう。

 美来は身体を起こした。
 ソファで寝落ちしたときは身体のコンディションが最悪なのはお約束だが、今日は調子がいい。

「ぐっすり寝てたね。可愛かったよ」

 起き上がりながら笑顔で言う衣織を見て、何となく、きっと身体が痛くないのはこの子のおかげなのだろうと思った。

 気を回してくれたから、無理な体勢で眠らなくてよかったのかもしれない。

 衣織の優しさに触れる度、少女漫画みたいな言い方をするなら、胸がときめく。

 美来はセンチメンタルな気持ちに任せて、たった今起き上がったばかりの衣織の肩に額を預けた。

 なんだか温かい気持ちになったから。同時に黄昏時が、ほんの少しセンチメンタルな気持ちにさせたから。

 いつもでも衣織への感情は、言い訳ばかり。

 衣織は何をいう事もなく、美来の頭を撫でる。

 どうして何も言わないのだろう。
 もしかすると、既に心の内側を感じ取っていて、〝堕としたな〟と思われている、とか。
 
 そんな考えが突発的に出てくる時点で、おそらく随分と手遅れなのだろう。
 一人暮らしは自由で、それから大体寂しいものなんだから、誘惑の悪魔にだって狩られやすい。

「この前の、ダーツの時さ」
「うん」
「私、負けたじゃん」
「そうだね」
「ご飯ご馳走するって、約束したから」
「うん。したね」
「今日は、どう?」

 言葉にしている間も緊張していた。
 衣織の肩に額を預けて、うつむいたまま。目を閉じてもいられなかった。

 もしかすると葵に会うのかもしれない。
 別の女性とディナーの予定があるかもしれない。

 衣織から返答がなければわからない事を、頭の中はいつまでもぐずぐずと考えている。

「やったー」

 衣織は間延びした声で言いながら、美来を正面から抱きしめた。

 意味の分からない、安心感。
 もう本当に、意味が分からない。
 意味が分からないくらい、嬉しい。

「美来さんのお誘い受けちゃった」

 衣織は美来を腕の中に抱きながら、無邪気な様子で言う。

 自分で誘っておいてなんだが、どうして衣織はそんなに嬉しそうにできるのだろうと思った。

 嬉しいのは、こちらの方だ。
 そして、それも意味が分からない。どうしてこんなに、嬉しいんだろう。

 意味が分からない安心感と衣織の腕に包まれながら、黄昏時が背を押して、泣きたくなった。

 今まで、何となく誘われてきた。
 都合が悪ければ最低限の言葉を選んで断ってきた。

 仲が良くなる前に自分から食事に誘ったことなんて、もしかすると今までで一度もないかもしれない。

 本当にそれくらい、困らなかったから。

 こんな気持ちなんだ。
 人を誘う事はこんなに勇気が必要で、受け入れてもらえるとこんなに嬉しいものなのか。

「何食べたい?」

 浮つく気持ちを必死に押さえつけて、美来は衣織の背に腕を伸ばしたまま抱きしめた。

「俺が選んでいいの?」
「いいよ」
「じゃあ、デリバリーでもいい? 美来さんと二人でゆっくりしたいから」

 言う事が完全に彼氏のそれだ。

 もしも今の会話を聞かれたとして、セフレだとか、友達だとか、絶対に思われないだろう。

 しかし美来は、明らかな笑顔を浮かべた。

「いいよ。じゃあ、そうしよう」

 美来がそう言うと衣織はさらに強く美来を抱きしめた。

「あ~、美来さん好き」

 〝美来さん好き〟
 その言葉が頭の中であからさまに反響する。

 さらりと、あまりにもさらりと衣織が言うから、美来の頭はしばらくその言葉の意味を理解することができなかった。

 どういうこと? どういう意味でその言葉を言うの? 〝顔が〟という彼の一番大切な主語が抜けていただけ? そうだよね。そういう事でいいんだよね。

「何食べる? 美来さん、何がいい?」
「……たこやき、とか」
「わ、いいね! たこやき!」

 ほとんど放心状態の美来なんて気にも留めず、衣織は美来を腕に抱いたまま楽しそうに会話を進める。

 たこやきなんて、全然気分じゃない。それどころか、アヒージョとかそういう塩気のあるモノがいい。バケットもあれば、後はどうでもいい。

「とりあえず」
「うん」
「たばこ、吸ってもいい?」
「うん、いいよ」

 いったん落ち着こう。
 そう思って言うと、衣織は笑顔で美来から離れて立ち上がった。

 美来も立ち上がり、キッチンへと歩く。

 もしかするとあれか。最近の子は、〝好き〟を軽く使うのか。
 きっとそうだ。そうに違いない。
 なんだ、なんだ。別に気にすることもないんだ。

 そう思って我に返ると、衣織はすでにキッチンに自ら置いた椅子に座り、両手を伸ばしていた。

「おいで」

 どうしてにこやかな笑顔で、そんな男前な事ができるんだ。
 どうして彼の存在には、かっこいいと可愛いの同居が許されているのか。

 正直今は一人でタバコを吸いたい気分だった。
 普段ならきっと〝ひとりの気分だから〟と言っていただろう。

 しかし、先ほど夜ご飯を誘って断られなかった安心感をまだ心の内側で引きずっている美来は、断ることができずに衣織の膝の上に腰を下ろした。

 今日の自分はおかしい。
 どう考えてもおかしい。

 そう思っているのに、後ろから抱きしめられる感覚は嫌いじゃない。

 衣織は一体、いつまでタバコを吸う事に付き合ってくれるのだろう。

 どう考えてもレアだと思う。
 付き合う男はみんながみんな、示し合わせたように〝タバコはやめてほしい〟と言った。

 やめてほしい、と言われると吸いたくなって、そうなると彼氏の存在が面倒くさいと思うようになって。

 結局彼氏と別れてから、禁煙するか。となることを繰り返して、さらに失敗するというループを飽きもせずに繰り返していた記憶がある。

 美来は換気扇をつけてから、タバコに火をつけた。

 幸いにして止められたというのに、これだ。
 結局人間は根本がしっかりしていなければ、いつだって元の位置に戻ってくるのだろうな、と美来は哲学的なことを考えていた。

「衣織くんはさ」
「うん」
「タバコ吸う人、きらいじゃないの?」

 言葉にして、自分の耳に届いて、初めてとんでもない事を聞いていると自覚した。

 衣織にそれを聞いてどうするんだ。

 確かに彼がタバコに対して全くマイナスなことを言わない理由は気になるが。
 だからって〝タバコ吸う人、きらいじゃないの?〟という聞き方は明らかに彼女目線が入っていないか。

 いや待て。
 〝全体的に、タバコを吸う人は平気なの?〟という風にも捉えられるのか。

 その結論に至り、やっと平常心を取り戻した。

「別に、全然。何なら俺、美来さんの服についたタバコの匂い好きだよ」
「へー」

 美来は自分から聞いておいて、はたから見れば何の気もない様に聞こえる声を出す。

 しかし心の中では曲がった解釈をされなかった事への安心感が充満していた。

「何で服についたタバコの匂いが好きなの?」
「だってさ、俺と会う前にタバコ吸ってたんだーとか思うと、なんかエロくない?」

 聞いておいて本当にごめんなさいだが、全っ然意味がわからない。

 この子の思考回路はどうなっているんだ。

 自分と会う前に、タバコを吸ってたんだ、と思うと、なんかエロい。

 文章をかみ砕いて考えてみたが、やはり繋げると全く意味が分からなかった。

「そうなんだ」
「美来さん外でほとんどタバコの匂いしないよね?」
「気を付けてるから」
「だからさ、スナックの中とか、こうやって家にいる時とかに美来さんの服からタバコの匂いするとさ」

 衣織はそう言うと、後ろから苦しいくらいに美来の身体を締め付けた。

「あー、今気抜いてるなーってわかって、めっちゃエロい」

 衣織の手に覆われた下腹部が、疼いた気がする。

 生命の危機に似た、ゾクゾクする何か。
 葵とのデートを見た日の、真夜中のベッドの上の出来事の様な。
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