ダメな大人の見本的な人生

36:ひとりぼっちの夜

 夕方から変な気にさせようとしてくるのは勘弁してほしい。

 狙ってやっているに違いない。
 本当にこの子は、欲をあおる天才だ。

 危機感と、それから甘い期待。
 タバコの火を消すために身を起こすと、衣織の腕は先ほど同様、強くも弱くもない力で動きに合わせて動く。

 先ほどの流れでいけば、はなれるはずだった。

 しかし衣織は美来の動きに合わせて立ち上がると、水を張ったマグカップにタバコが落ちたタイミングを見計らって、美来を閉じ込める様に体重をかけた。

「タバコの匂いする」

 衣織はそう言うと、後ろから美来の首元に顔を寄せた。

「えっろ」

 一瞬で深い所に引きずり込まれるような、錯覚。
 どうにかしなければ、と上辺だけをなぞる。その間に、衣織の手が美来のTシャツの胸元を摘まんだ。

「ここ、ビールで汚しちゃったんでしょ?」
「き、気付いてたの……?」
「気付くよ。俺、美来さんのこと、ちゃーんと見てるもん」

 いつもよりトーンを落とした声が、頭に直接響いて、麻痺する。

 麻痺した頭のどこかでは、これがこの子の本気か、と、他人事の様にも思っていた。

「脱いじゃおっか」

 恥ずかしい。という気持ちが、頭をおかしくさせているのだと思った。
 
 早くこの内側を探られるような感覚から逃れたい。
 でも、すぐ後ろにいる衣織から逃げる事は叶わない。

 身を動かしても、衣織がそれを許すはずもない。

 逆の手がTシャツの中に入り込んで肌を直接這う。
 顔が見えない事も、黄昏時のもの寂しさも。全て、彼の演出みたいで。

「汚れた服は洗濯機にいれてー」

 きっともうどうしようもない、という、本能レベルの諦め。

「気持ちいい事、しよ」

 頭がバカになる予感がした。
 その予感は、別の名前では期待ともいう。

 いつからだ。
 一体いつからだろう。
 彼のペースに巻き込まれたのは。

 そう考えていたはずなのに、気付けばキッチンでほとんど服を脱いでいて、衣織の首に腕を絡めていた。





 何もかも終わった後、ベッドの上で話し合いをした結果。
 今日の夜ご飯はいろいろなものを少しずつ頼もうという事になった。

 たこ焼き、アヒージョ、ピザ、すし。
 いろいろなものを少しずつ頼む贅沢な夜ご飯。

 豪華な夜ご飯を前に酒が進まないはずはない。
 今日一日で、衣織から貰ったビールが冷蔵庫に入るスペースを生み出した。

 美来はローテーブルで食事をしながら、隣に座る衣織の顔を盗み見た。

 今思い出しても本当にとんでもない子だ。
 どんな鍛えられ方をしたら、こんなド真ん中の正解を叩き出すんだ?
 どうやったらあんなエロい誘い方ができるんだ?

 美来の頭の中には葵が浮かんだ。
 あのいかにも誠実で真面目そうな人が、夜は物凄いとか。

 変なことを考え始める思考をとっさに閉ざす。
 さすがに自重しようと、美来はゆっくり息を吐いた。

 そしてあんな誘われ方をされて断れるはずがない。
 間違いなく、今まで生きてきた中で一番スムーズな誘われ方だった。

 あれは仕方なかった。
 あんな誘われ方をしたら断われない。

 断れるはずがなかった。

 きっと男性だってそうだ。
 好みの女性が、見えるか見えないかのギリギリの服を着てベッドにいて〝しないの?〟と寂しそうにつぶやいたら堕ちるだろう。

 それと一緒だ。何も変わらない。
 その非現実的な状況が、現実に自分に起こっているだけなのだ、と美来は自分に言い聞かせていた。

 先ほどまでの大人びた表情とは打って変わって、美味しそうに食事をする衣織にまた胸が鳴る。

 美人は三日で飽きる、というが、少なくとも美来には隣のイケメンが三日で飽きるとは思えなかった。
 本当に恐ろしい事実だが。

 食事を終えた後、明日は予定があるという衣織は帰っていった。
 いつも通り、玄関前まで送ってと言われて、キスを一つ落として。

 安心感より寂しさが勝る。
 葵の所に行くのだろうと思っているから。

 衣織に葵との関係を聞く勇気すらないのだから、寂しいという言う権利どころか、思う権利すらないのに。
 一人ぼっちになった部屋のソファーで美来はぼんやりと座っていた。

 夜は寂しくなる。
 今日一日、ほとんど開くことのなかったスマホを開く。

 動画を流して没頭すると、少しは寂しさがまぎれる気がする。

 ひとりぼっち。
 本当にこのままずっと、一人ぼっちだったら。

 そう考えると怖くなるから、動画を見て、現実から無理矢理目を逸らす。





 仕事、と思って目を覚ますと休日だった。

 しかし、昨日が充実しすぎていて、やりたい事も全て終わってしまっていて、特にやりたいこともない。

 暇というのは時に人をおかしくする。

 マイナスなことばかりを考えてしまう。
 孤独だな、とか。現実を悲観的にとらえて再確認。

 昨日、衣織が帰った理由を葵と会うからかもしれないと疑ってから、様子がおかしい。

 美来はスマホを開いた。
 連絡は特に来ていない。

 SNSのパトロールをする。
 他人の幸せそうな話題で、ただ虚しくなるだけ。

 そういう自慰行為なんじゃないかと思うくらい、同じことを繰り返している。

 ベッドから抜け出したのは、起きてから2時間程経った頃だった。

 この時間があれば、ジムに行って帰ってきていい汗がかけただろう。
 時間がないという言い訳ばかりして、でも行きたいときに行ける様にと毎月料金を払い続けている。

 こんな時に行かないなら、一生行かないのではないかと思った。

 つまり、何の可能性もない2時間を過ごしたという事だ。

 タバコに火をつけて、衣織が置いて行ったキッチンの椅子に腰かけた。
 換気扇を回し忘れていることに気が付いて、息を止めて換気扇のボタンを押す。

 煙が換気扇に吸い込まれて行く様を、ただ眺めていた。

 休日も同じルーティーンが、嫌になる。

 この連休は身体を休める事を優先しようと思ったが、人と会っていた方が気が楽だ。

 今日の夜はスナックに行こうか。
 あの場所には自分の様に、プライベートにも職場にも居場所がない人が、たくさんいる。

 会社でも自分の代わりなんてたくさんいて、社会の歯車にすらなれないんだから。

 そしてプライベートでも、こうやって朝起きて一番にタバコを吸っているのだから、貰い手もないだろう。

「タバコ、やめたい」

 やめたい、というより〝やめないと〟なのだが。
 やめないといけない理由の一番に出てくる理由が〝結婚の為〟なのだから、そこに自分の本当の意志はないのだろうと思う。

 どうしてせっかく禁煙成功していたのに、吸ってしまったんだろう。
 衣織と出会ったあの日にタバコを買ったことを、美来は心底後悔した。
 勿論、タバコを吸いながら。

 あのままタバコを止められていたら、もう少し婚期が早まったかもしれないのに。
 タバコを灰皿と称したマグカップの水に浸した後、パンをトースターで焼きながら、即席のコーンスープに入れるお湯を沸かした。

 今までの2時間を取り戻そうと、目玉焼きとベーコンを同じフライパンで焼いてみる。

 無駄な抵抗だと、頭のどこかで思いながら。
< 37 / 103 >

この作品をシェア

pagetop