ダメな大人の見本的な人生
38:人それぞれ
「ありがとう、衣織くん」
「うん。どういたしまして」
コーヒーを持ってローテーブルまで歩く衣織の背中を見ながら、勝手に幸せに浸っている。
この子が年上を沼らせる天才だと分かっているのに、どうしてわざわざ自分から沼に足を踏み入れるような事をしているのだろう、という疑問が反省を呼んで、ほんの少し幸せの外側の平常心に傾けた。
「美味しいねー」
しかし二人でソファーに座ってコーヒーを飲めば、まともに回っていた一連の脳内の動きが全て消し飛ぶ。
「ねー」
穏やかな口調で言う衣織に、美来も間抜けな声で返事をした。
先ほどまでもの寂しかった部屋が、衣織がいる事で一気に明るくなる。
そして美来は確信した。結婚というのは一人ぼっちの〝寂しさ〟を埋める為にするものだ。
歪んだ考えという気がしなくもないが、一人で部屋の中にいた時の寂しさを考えると、真理な気がする。
そう思うとやはり、年齢は関係ない様な気がして、頭を抱える。
だいたい18歳の男の子なんて遊びたい盛りなんだから、結婚なんて重たい事を真剣に考えているはずがない。
以前衣織が結婚をほのめかした時だって、考えなしに言ったに違いない。
自分が衣織くらいのころは、付き合った人と結婚の話題になるのは当たり前だった。
周りはほとんどの人がまだ現実が見えていなくて、夢の中にいたんだから当然だ。
そんなことを考えながら、また変な思考回路にはまっていることに気が付いた美来は溜息をつく。
大体どうして、〝衣織〟と〝結婚〟がセットになっているんだ。
思考回路が段々と、思っている所とは別の所へと進んでいく。
もう本当に、勘弁してほしい。
「美来さんの今日の予定は?」
衣織にそう言われて思考回路は閉ざされて、ほとんど無理矢理現実世界に戻された。
「今日は特にない」
「じゃあ、出かけない?」
出かける? 今から? 正気? と思ったが、こうやって好奇心を失ってから老化が始まるんだと思い直した美来は、めんどくさいと思いながらも少しだけ気合を入れた。
「出かけるってどこに?」
「ドライブー」
「ドライブって、衣織くん車持ってるの?」
「今日の為に昨日から借りてたんだけど、無くなっちゃったから」
葵との温泉旅行の為に借りた、車。
そんな車に乗るのは嫌だ。
しかしすぐに、いやまだ葵と決まったわけじゃないし、と頭の中で反論する。
そうであってほしいという気持ちと、何でもかんでも勝手に決めつけるのはよくない、という良心。
もしかすると、別の人かもしれないじゃないか。別の……女の人……。
そこまで考えて、やっぱり年上のお姉さんしか思い浮かばない辺りが、自分が衣織という男をどんな目で見ているかを冷静に見る指針だった。
そんな子だと分かっているのに、どうしてこんな気持ちに。
うなだれたくなる気持ちをぐっと抑えて、これ以上考える事をやめた。
考えれば考える程、沼にはまっていきそうな予感はひしひしとしていたから。
「じゃあ、準備するね」
「どうせ車なんだから、準備なんていらないよ」
「そうかな?」
「そうそう」
その辺りを軽くドライブするだけなら必要ないか。と思い、マグカップはそもそもすぐに洗う気もなく、シンクにおいて水を溜めた。
マグカップの隣には、きっと皿にされ慣れているであろうフライパンと、味噌汁を入れられるものだと思って生まれてきたのに、不本意な液体を入れられた汁椀に水が溜まっている。
さすがに笑顔の犬のイラストの上に間抜けなフォントのひらがなで〝ねこ〟書いてあるTシャツで外に出る気にはなれなかったので、寝室にあるクローゼットに移動した。
「どこに停めてるのー?」
「すぐ近くだよー」
クローゼットから声を張り上げると、衣織も同じように声を張る。
じゃあこれでいっか、と決めたのは何の柄も飾りもないドシンプルなワンピース。
歩いて5分の所に駐車場があるから、おそらくあそこだろうと予想をした美来は化粧すらする気がないまま、スマホ、財布、鍵、タバコという必要最低限のものを小さなバッグに詰めた。
「おまたせ」
「早かったね、行こっか」
衣織はシンクにいて、全ての洗い終えた所だった。
「洗ってくれたの?」
「うん。……迷惑だった?」
衣織は少し不安そうな様子を見せる。
なんて出来た子なんだと、美来は感動に打ちひしがれていた。
歴代家に招いた彼氏で、そんな気の利いた事をしてくれた人がいただろうか。いやいなかった。
「美来さんは気にしないかなって思って勝手にしちゃったけど」
「大正解。全然オッケー。本当に助かる」
キッチンに入られたり勝手に触られるのが嫌な人もいるだろうが、全く気にしない美来は、後から洗わないといけないのかと思っていた食器たちが綺麗に吸水マットの上に整列しているのを見て、衣織を抱きしめてキスの一つでもしたい気持ちに駆られた。
しかし自分からそんなことをしたら、それだけで済む予感が微塵もしなかった為、やめておいた。
今日もド真ん中をたたき出してくれる衣織に感謝しつつ、胸をときめかせつつ、美来は玄関までの廊下を歩く。
シンプルなワンピースだから、しゃれた靴でも履けばどうとでもなる。
しかし美来は、コンビニくらいならこれで行けるレベルの、本当に〝ちょっとそこまで〟するときに使っているサンダルを履いた。
配達員が来た時もこれ、コンビニもこれ、スーパーもこれ。
ヒールも何もない、つっかけの様なサンダル。
まだ若干の抵抗を残して、汚れてはいるがレースは付いている。
どうせ車から降りる事は無いんだし。という言い訳を自分にする。
本当は出かける気がなかったから、準備する気にもなれなかった。
誰も悪くない。ただ、タイミングが悪かった。
二人は玄関を出た。
鍵を閉めてから、駐車場に行くために衣織の隣を歩く。
しかし衣織は、美来が思っていた方向とは別の方向に歩き出した。
「駐車場、こっちじゃないの?」
「え? こっちだよ」
進行方向を指さす衣織はきょとんとした顔で言う。
他にも近くに駐車場があったのか、知らなかった
そう思いながらも、〝すぐ近く〟というのだからすぐなのだろう。と、信じる信じない以前に衣織の事を完全に間に受けていた。
それなのに、一向につかない。
かれこれ15分は歩いているのに。
「ねえ、まだ?」
「もう少し、もう少し」
まさか大通りの方に行くとは思ってなかった美来は、明らかに多くなる人通りに顔を隠しながら歩いた。
こんなサンサンにあふれさせた太陽光の中、すっぴんなんて見られたくない。
しかも、テキトーな格好なのに。
衣織に恨みの一つでも言ってやりたい気持ちになったが、冷静に考えて衣織は何も悪くない。
遠いとか近いの感覚なんて人それぞれだ。
そんなことで責めるわけにもいかないという思いと、絶対にこの距離を近いとは言わないという本心とのはざまで戦っていた。
美来はいつも通りの様子の衣織の少し後ろを、太陽の光が目に入って眩しいので、とでも言いたげな様子で目を隠して歩く。
せめて眉毛とリップくらいはして来ればよかった。
しかし後悔しても遅い。
バッグの中には化粧品と呼ばれる類のものは何一つ入っていない。
これが女子力の低さかと絶望しながらも、右からも左からも来る人への対策として、とうとう両手で目の上を覆う。
逆に怪しくなっていることに気付きながらも顔を隠し続けた。
やはり軽くでも化粧をしてくるべきだった。
他人の言葉を信用しすぎた末路だ。
駐車場に行くだけでぐったりと疲れた美来は、今すぐに甘い飲み物が飲みたくなる。
しかし、こんな昼間にドすっぴんでコンビニに入るのかと思うと、少しげんなりした。
駐車場にはついた。
すでに満身創痍の中、これだけは言ってやろうと口を開く。
「歩いて30分の距離は、私の中で〝すぐ近く〟とは言わないから」
わかったね!? 言ったからね!? という気持ちを全面に出す。
「たしかに、近くはないね」
いつも通りの様子で言う衣織を、後ろからぶん殴ってやりたいと思った。
「うん。どういたしまして」
コーヒーを持ってローテーブルまで歩く衣織の背中を見ながら、勝手に幸せに浸っている。
この子が年上を沼らせる天才だと分かっているのに、どうしてわざわざ自分から沼に足を踏み入れるような事をしているのだろう、という疑問が反省を呼んで、ほんの少し幸せの外側の平常心に傾けた。
「美味しいねー」
しかし二人でソファーに座ってコーヒーを飲めば、まともに回っていた一連の脳内の動きが全て消し飛ぶ。
「ねー」
穏やかな口調で言う衣織に、美来も間抜けな声で返事をした。
先ほどまでもの寂しかった部屋が、衣織がいる事で一気に明るくなる。
そして美来は確信した。結婚というのは一人ぼっちの〝寂しさ〟を埋める為にするものだ。
歪んだ考えという気がしなくもないが、一人で部屋の中にいた時の寂しさを考えると、真理な気がする。
そう思うとやはり、年齢は関係ない様な気がして、頭を抱える。
だいたい18歳の男の子なんて遊びたい盛りなんだから、結婚なんて重たい事を真剣に考えているはずがない。
以前衣織が結婚をほのめかした時だって、考えなしに言ったに違いない。
自分が衣織くらいのころは、付き合った人と結婚の話題になるのは当たり前だった。
周りはほとんどの人がまだ現実が見えていなくて、夢の中にいたんだから当然だ。
そんなことを考えながら、また変な思考回路にはまっていることに気が付いた美来は溜息をつく。
大体どうして、〝衣織〟と〝結婚〟がセットになっているんだ。
思考回路が段々と、思っている所とは別の所へと進んでいく。
もう本当に、勘弁してほしい。
「美来さんの今日の予定は?」
衣織にそう言われて思考回路は閉ざされて、ほとんど無理矢理現実世界に戻された。
「今日は特にない」
「じゃあ、出かけない?」
出かける? 今から? 正気? と思ったが、こうやって好奇心を失ってから老化が始まるんだと思い直した美来は、めんどくさいと思いながらも少しだけ気合を入れた。
「出かけるってどこに?」
「ドライブー」
「ドライブって、衣織くん車持ってるの?」
「今日の為に昨日から借りてたんだけど、無くなっちゃったから」
葵との温泉旅行の為に借りた、車。
そんな車に乗るのは嫌だ。
しかしすぐに、いやまだ葵と決まったわけじゃないし、と頭の中で反論する。
そうであってほしいという気持ちと、何でもかんでも勝手に決めつけるのはよくない、という良心。
もしかすると、別の人かもしれないじゃないか。別の……女の人……。
そこまで考えて、やっぱり年上のお姉さんしか思い浮かばない辺りが、自分が衣織という男をどんな目で見ているかを冷静に見る指針だった。
そんな子だと分かっているのに、どうしてこんな気持ちに。
うなだれたくなる気持ちをぐっと抑えて、これ以上考える事をやめた。
考えれば考える程、沼にはまっていきそうな予感はひしひしとしていたから。
「じゃあ、準備するね」
「どうせ車なんだから、準備なんていらないよ」
「そうかな?」
「そうそう」
その辺りを軽くドライブするだけなら必要ないか。と思い、マグカップはそもそもすぐに洗う気もなく、シンクにおいて水を溜めた。
マグカップの隣には、きっと皿にされ慣れているであろうフライパンと、味噌汁を入れられるものだと思って生まれてきたのに、不本意な液体を入れられた汁椀に水が溜まっている。
さすがに笑顔の犬のイラストの上に間抜けなフォントのひらがなで〝ねこ〟書いてあるTシャツで外に出る気にはなれなかったので、寝室にあるクローゼットに移動した。
「どこに停めてるのー?」
「すぐ近くだよー」
クローゼットから声を張り上げると、衣織も同じように声を張る。
じゃあこれでいっか、と決めたのは何の柄も飾りもないドシンプルなワンピース。
歩いて5分の所に駐車場があるから、おそらくあそこだろうと予想をした美来は化粧すらする気がないまま、スマホ、財布、鍵、タバコという必要最低限のものを小さなバッグに詰めた。
「おまたせ」
「早かったね、行こっか」
衣織はシンクにいて、全ての洗い終えた所だった。
「洗ってくれたの?」
「うん。……迷惑だった?」
衣織は少し不安そうな様子を見せる。
なんて出来た子なんだと、美来は感動に打ちひしがれていた。
歴代家に招いた彼氏で、そんな気の利いた事をしてくれた人がいただろうか。いやいなかった。
「美来さんは気にしないかなって思って勝手にしちゃったけど」
「大正解。全然オッケー。本当に助かる」
キッチンに入られたり勝手に触られるのが嫌な人もいるだろうが、全く気にしない美来は、後から洗わないといけないのかと思っていた食器たちが綺麗に吸水マットの上に整列しているのを見て、衣織を抱きしめてキスの一つでもしたい気持ちに駆られた。
しかし自分からそんなことをしたら、それだけで済む予感が微塵もしなかった為、やめておいた。
今日もド真ん中をたたき出してくれる衣織に感謝しつつ、胸をときめかせつつ、美来は玄関までの廊下を歩く。
シンプルなワンピースだから、しゃれた靴でも履けばどうとでもなる。
しかし美来は、コンビニくらいならこれで行けるレベルの、本当に〝ちょっとそこまで〟するときに使っているサンダルを履いた。
配達員が来た時もこれ、コンビニもこれ、スーパーもこれ。
ヒールも何もない、つっかけの様なサンダル。
まだ若干の抵抗を残して、汚れてはいるがレースは付いている。
どうせ車から降りる事は無いんだし。という言い訳を自分にする。
本当は出かける気がなかったから、準備する気にもなれなかった。
誰も悪くない。ただ、タイミングが悪かった。
二人は玄関を出た。
鍵を閉めてから、駐車場に行くために衣織の隣を歩く。
しかし衣織は、美来が思っていた方向とは別の方向に歩き出した。
「駐車場、こっちじゃないの?」
「え? こっちだよ」
進行方向を指さす衣織はきょとんとした顔で言う。
他にも近くに駐車場があったのか、知らなかった
そう思いながらも、〝すぐ近く〟というのだからすぐなのだろう。と、信じる信じない以前に衣織の事を完全に間に受けていた。
それなのに、一向につかない。
かれこれ15分は歩いているのに。
「ねえ、まだ?」
「もう少し、もう少し」
まさか大通りの方に行くとは思ってなかった美来は、明らかに多くなる人通りに顔を隠しながら歩いた。
こんなサンサンにあふれさせた太陽光の中、すっぴんなんて見られたくない。
しかも、テキトーな格好なのに。
衣織に恨みの一つでも言ってやりたい気持ちになったが、冷静に考えて衣織は何も悪くない。
遠いとか近いの感覚なんて人それぞれだ。
そんなことで責めるわけにもいかないという思いと、絶対にこの距離を近いとは言わないという本心とのはざまで戦っていた。
美来はいつも通りの様子の衣織の少し後ろを、太陽の光が目に入って眩しいので、とでも言いたげな様子で目を隠して歩く。
せめて眉毛とリップくらいはして来ればよかった。
しかし後悔しても遅い。
バッグの中には化粧品と呼ばれる類のものは何一つ入っていない。
これが女子力の低さかと絶望しながらも、右からも左からも来る人への対策として、とうとう両手で目の上を覆う。
逆に怪しくなっていることに気付きながらも顔を隠し続けた。
やはり軽くでも化粧をしてくるべきだった。
他人の言葉を信用しすぎた末路だ。
駐車場に行くだけでぐったりと疲れた美来は、今すぐに甘い飲み物が飲みたくなる。
しかし、こんな昼間にドすっぴんでコンビニに入るのかと思うと、少しげんなりした。
駐車場にはついた。
すでに満身創痍の中、これだけは言ってやろうと口を開く。
「歩いて30分の距離は、私の中で〝すぐ近く〟とは言わないから」
わかったね!? 言ったからね!? という気持ちを全面に出す。
「たしかに、近くはないね」
いつも通りの様子で言う衣織を、後ろからぶん殴ってやりたいと思った。