ダメな大人の見本的な人生
03:ダメな大人の典型達
平日の夜。
「ってことがあった」
「へー」
駅を降りてすぐの商店街の中にぽつりとある、少し古ぼけたスナックの中。
カウンターの隣に座る男、ハルは美来の言葉に大して興味なさげに相槌を打った。
彼の名前は三住春登。
みんなからは〝ハル〟と呼ばれている。
このスナックでしか会う事はないが、もうかれこれ二年の仲だ。
二人の座るカウンターの後ろ。少し離れた所では、常連のお客さんが三人。
テーブル席に座ってこのスナックのママ、美妙子と楽し気に話をしている。
酒で頭の動きを鈍らせて、現実で感じた痛みや焦りを一時的に忘れる場所。
ここは言葉にするなら、日常の外側。
週に一回は必ず来るくせに、ここには非日常がある。
不安なことをなんでも吐き出せて、誰かが相槌を打ってくれる。
「で、なに? その年下の男と付き合うとか?」
「そんな訳ないじゃん」
冗談じみた口調でそういうハルの言葉に一秒とあけずにそう返事をした。
きっとハルは、本当はこう言いたいのだろう。
〝で、結局なに?〟と。
しかし言わない。
それが女という生き物と人間関係を円滑に進める為の方法だと知らないなら、こんな場所で女と二人で、酒が飲めるはずがないから。
美来はあの日からちまちま吸っているタバコを一本取り出して、ライターで火を付けた。
「とうとう禁煙失敗か」
そう言いながらハルは、カウンターの上をすべる様に手を伸ばす。
「この一箱吸ったら、再開」
「それで本当にやめられたヤツ、知らねーんだけど」
少し笑いながらハルはカウンターの端に重ねて置かれている灰皿を手に取ると、コトンと音を立てて美来の前に置いた。
美来とハルはこのスナックでよく話はするが、お互いの事を深く知っているわけではなかった。
勿論、互いの男と女としての部分も。
恋人でも友人でもない。ましてや寂しさに任せて身体を重ねる関係というわけでもない。
たまたまこのスナックで出会って、年が近いからよく話すだけ。
それはなんだか、不思議な感覚だ。
「ありがと。吸う?」
「いらね」
灰皿を取ってもらったお礼にそう提案してみるが、ハルがタバコを吸わない事は分かっていた。
何となく、本当に何となく。
こんなことしている自分に嫌気がさしてくる。
それは段々と嵩を増していくことも知っていた。
「ハルってさー」
喉元を通して言葉にしておいて、タバコを口に含んだ。
細く細く煙を吐き出してから、また口を開く。
ハルは美来の言葉の続きを待っている様子だった。
「何で結婚しないの?」
「適性ないから」
あっさり、すっぱり。
それ以外ある訳ねーだろ。とでも言いたげに、ハルは言う。
「誰かを幸せにするとか、俺には無理。自分がその日そこそこ楽しく生きていけりゃ、他人なんてどーでもいい」
「うっわ。ダメな大人」
ふざけた口調でそういうと、ハルは鼻で笑って人差し指を出した。
「いや、お前もな」
ハルはテンポよく言いながら、カウンターに置かれた美来の煙草の箱を人差し指で弾いた。
ハルは人の目を本当に気にしない。
お金が無くなったらテキトーにバイトをして、そうかと思えば急にお金を貯めてふらっと旅行に出かける事もある。そして帰ってきてまたバイトして。
ハルを見ていると、こんな風でも案外生きていけるんだなと思う。
仕事も、食事も。自分に必要最低限の事しかしていない様な。
もっと言うなら、自分のやりたいことをやるために、それ以外の無駄な部分を徹底的に捨てている様な人間だ。
だからか、結構いろんなことを知ってるし、タメになる話をしてくれることも多い。
「アンタがせめてまともな仕事についてたらねェ」
「俺にも選ぶ権利あるんだわ」
あまり抑揚のない口調でそういうハルをよそに、吸い込んだタバコの煙を吐き出しながらカウンターに肘をついて、カウンターの向こうの壁に並ぶ棚をぼんやりと眺めた。
「アンタ見てると安心するよ」
「……俺、どんな使い方されてんの?」
ハルは小さく笑いながら、大して興味も無さそうにそう言って酒を口に含んだ。
「美来ちゃん、本当美人さんだねェ」
そう言って後ろのカウンター席から声をかけてきたのは、常連客の斉藤だ。
50代の、失礼だがどこにでもいそうなおじさん。
この人は酔ったらこれしか言わない。
「俺がもう少し若かったらねェ」
いつも通りの言葉に、周りは「ほら始まった」と笑い声が響く。
「斉藤さんの若いころってどんな感じ?」
美来はテーブルを押して、カウンターの回転式の椅子をテーブル席の方へ向くように回した。
「ん~。仕事して、酒飲んでたなァ」
「そりゃ今も変わんねーよ」
少し考えて言葉を発した斉藤に、ハルはすかさずそう言う。
「確かに」という声の後、今度は小さなスナックの中が、笑い声だけで埋まる。
「結婚してたからなァ。今よりはもちょっと、まともだったかなァ」
「結婚って、どんな感じ?」
「俺にとっては疎外感を味わう場所だった。会社でとちって白い目で見られるよりも、よーっぽど辛かったよ」
斉藤は奥さんから一方的に離婚届を突き付けられたらしい。まさか夢にも思っていなかったから、あれ以上の驚きは多分これから先ないだろうと言っていた。
「藤ヶ谷さんは?」
「俺はそこそこ上手くやってるよ」
藤ヶ谷は要領がいい男だ。
いつもある程度の時間になるとどれだけ盛り上がっていても切り上げて帰るし、時々奥さんをスナックに連れてくることもあるが、その時は自分はほとんど酒を飲まず酔っぱらった奥さんを連れて帰っていく。
「奥さん、いつも『もっとゆっくりしてきたらいいのに』って言ってくれるんでしょ? それならどうしてお言葉に甘えてゆっくりしないんですか?」
「何でってそりゃあ……美来ちゃん、わからないの?」
「え、なんだろう。わかんない」
含んだ笑いを浮かべて美来にそう問いかけた藤ヶ谷だが、返答にクスクス笑った。
「ハルくん、わかる?」
「その類の女の思いやりはパチモンだから」
「大正解」
藤ヶ谷の質問にしれーっとした様子で答えるハルに、藤ヶ谷は大きく頷きながら酒の入ったグラスを手に取った。
「どういう事?」
「本当にもっとゆっくりしてきたらキレんだろ。私ばっかりに家事を押し付けて、とか言って」
ハルの言葉に納得して、男も女も大変だなとどこか他人事のように思った。
「結婚って大変だね。なんか、夢も希望もないじゃん」
美来がそう言うと、もう一人の男、巽が笑った。
「巽さんは?」
「俺はこの二人の話を聞いてると、結婚する意欲すらなくなった」
同じ気持ちになった巽に美来は親近感がわいた。
「私も同じ気持ち」
「美来ちゃんは選びたい放題だろう」
そういう斎藤に、美来はどんな返事をするか迷っていると、美妙子が持ったグラスの氷が風流な音を鳴らして崩れた。
「だから困る事もあるのよねー?」
穏やかな口調でさらりとそう言った美妙子は、豪快に氷の入ったビールを飲み切ると、テーブルの上に置いた。
「いいじゃないの。山あり谷ありの人生の中でも、こうやって楽しく話ができるんだから」
「確かにな」と、誰もが美妙子の言葉に同意する。
本当にそう思っている。ここに居る誰もがきっと。
だけど、その効果はあまり長くない。
だから平日のど真ん中だろうと、心が荒んだ時にはここに集まって、延命処置をする。
ここは、なんだかんだと言っても、孤独が怖い人間が居場所という救いを渇望している場所だ。
「ってことがあった」
「へー」
駅を降りてすぐの商店街の中にぽつりとある、少し古ぼけたスナックの中。
カウンターの隣に座る男、ハルは美来の言葉に大して興味なさげに相槌を打った。
彼の名前は三住春登。
みんなからは〝ハル〟と呼ばれている。
このスナックでしか会う事はないが、もうかれこれ二年の仲だ。
二人の座るカウンターの後ろ。少し離れた所では、常連のお客さんが三人。
テーブル席に座ってこのスナックのママ、美妙子と楽し気に話をしている。
酒で頭の動きを鈍らせて、現実で感じた痛みや焦りを一時的に忘れる場所。
ここは言葉にするなら、日常の外側。
週に一回は必ず来るくせに、ここには非日常がある。
不安なことをなんでも吐き出せて、誰かが相槌を打ってくれる。
「で、なに? その年下の男と付き合うとか?」
「そんな訳ないじゃん」
冗談じみた口調でそういうハルの言葉に一秒とあけずにそう返事をした。
きっとハルは、本当はこう言いたいのだろう。
〝で、結局なに?〟と。
しかし言わない。
それが女という生き物と人間関係を円滑に進める為の方法だと知らないなら、こんな場所で女と二人で、酒が飲めるはずがないから。
美来はあの日からちまちま吸っているタバコを一本取り出して、ライターで火を付けた。
「とうとう禁煙失敗か」
そう言いながらハルは、カウンターの上をすべる様に手を伸ばす。
「この一箱吸ったら、再開」
「それで本当にやめられたヤツ、知らねーんだけど」
少し笑いながらハルはカウンターの端に重ねて置かれている灰皿を手に取ると、コトンと音を立てて美来の前に置いた。
美来とハルはこのスナックでよく話はするが、お互いの事を深く知っているわけではなかった。
勿論、互いの男と女としての部分も。
恋人でも友人でもない。ましてや寂しさに任せて身体を重ねる関係というわけでもない。
たまたまこのスナックで出会って、年が近いからよく話すだけ。
それはなんだか、不思議な感覚だ。
「ありがと。吸う?」
「いらね」
灰皿を取ってもらったお礼にそう提案してみるが、ハルがタバコを吸わない事は分かっていた。
何となく、本当に何となく。
こんなことしている自分に嫌気がさしてくる。
それは段々と嵩を増していくことも知っていた。
「ハルってさー」
喉元を通して言葉にしておいて、タバコを口に含んだ。
細く細く煙を吐き出してから、また口を開く。
ハルは美来の言葉の続きを待っている様子だった。
「何で結婚しないの?」
「適性ないから」
あっさり、すっぱり。
それ以外ある訳ねーだろ。とでも言いたげに、ハルは言う。
「誰かを幸せにするとか、俺には無理。自分がその日そこそこ楽しく生きていけりゃ、他人なんてどーでもいい」
「うっわ。ダメな大人」
ふざけた口調でそういうと、ハルは鼻で笑って人差し指を出した。
「いや、お前もな」
ハルはテンポよく言いながら、カウンターに置かれた美来の煙草の箱を人差し指で弾いた。
ハルは人の目を本当に気にしない。
お金が無くなったらテキトーにバイトをして、そうかと思えば急にお金を貯めてふらっと旅行に出かける事もある。そして帰ってきてまたバイトして。
ハルを見ていると、こんな風でも案外生きていけるんだなと思う。
仕事も、食事も。自分に必要最低限の事しかしていない様な。
もっと言うなら、自分のやりたいことをやるために、それ以外の無駄な部分を徹底的に捨てている様な人間だ。
だからか、結構いろんなことを知ってるし、タメになる話をしてくれることも多い。
「アンタがせめてまともな仕事についてたらねェ」
「俺にも選ぶ権利あるんだわ」
あまり抑揚のない口調でそういうハルをよそに、吸い込んだタバコの煙を吐き出しながらカウンターに肘をついて、カウンターの向こうの壁に並ぶ棚をぼんやりと眺めた。
「アンタ見てると安心するよ」
「……俺、どんな使い方されてんの?」
ハルは小さく笑いながら、大して興味も無さそうにそう言って酒を口に含んだ。
「美来ちゃん、本当美人さんだねェ」
そう言って後ろのカウンター席から声をかけてきたのは、常連客の斉藤だ。
50代の、失礼だがどこにでもいそうなおじさん。
この人は酔ったらこれしか言わない。
「俺がもう少し若かったらねェ」
いつも通りの言葉に、周りは「ほら始まった」と笑い声が響く。
「斉藤さんの若いころってどんな感じ?」
美来はテーブルを押して、カウンターの回転式の椅子をテーブル席の方へ向くように回した。
「ん~。仕事して、酒飲んでたなァ」
「そりゃ今も変わんねーよ」
少し考えて言葉を発した斉藤に、ハルはすかさずそう言う。
「確かに」という声の後、今度は小さなスナックの中が、笑い声だけで埋まる。
「結婚してたからなァ。今よりはもちょっと、まともだったかなァ」
「結婚って、どんな感じ?」
「俺にとっては疎外感を味わう場所だった。会社でとちって白い目で見られるよりも、よーっぽど辛かったよ」
斉藤は奥さんから一方的に離婚届を突き付けられたらしい。まさか夢にも思っていなかったから、あれ以上の驚きは多分これから先ないだろうと言っていた。
「藤ヶ谷さんは?」
「俺はそこそこ上手くやってるよ」
藤ヶ谷は要領がいい男だ。
いつもある程度の時間になるとどれだけ盛り上がっていても切り上げて帰るし、時々奥さんをスナックに連れてくることもあるが、その時は自分はほとんど酒を飲まず酔っぱらった奥さんを連れて帰っていく。
「奥さん、いつも『もっとゆっくりしてきたらいいのに』って言ってくれるんでしょ? それならどうしてお言葉に甘えてゆっくりしないんですか?」
「何でってそりゃあ……美来ちゃん、わからないの?」
「え、なんだろう。わかんない」
含んだ笑いを浮かべて美来にそう問いかけた藤ヶ谷だが、返答にクスクス笑った。
「ハルくん、わかる?」
「その類の女の思いやりはパチモンだから」
「大正解」
藤ヶ谷の質問にしれーっとした様子で答えるハルに、藤ヶ谷は大きく頷きながら酒の入ったグラスを手に取った。
「どういう事?」
「本当にもっとゆっくりしてきたらキレんだろ。私ばっかりに家事を押し付けて、とか言って」
ハルの言葉に納得して、男も女も大変だなとどこか他人事のように思った。
「結婚って大変だね。なんか、夢も希望もないじゃん」
美来がそう言うと、もう一人の男、巽が笑った。
「巽さんは?」
「俺はこの二人の話を聞いてると、結婚する意欲すらなくなった」
同じ気持ちになった巽に美来は親近感がわいた。
「私も同じ気持ち」
「美来ちゃんは選びたい放題だろう」
そういう斎藤に、美来はどんな返事をするか迷っていると、美妙子が持ったグラスの氷が風流な音を鳴らして崩れた。
「だから困る事もあるのよねー?」
穏やかな口調でさらりとそう言った美妙子は、豪快に氷の入ったビールを飲み切ると、テーブルの上に置いた。
「いいじゃないの。山あり谷ありの人生の中でも、こうやって楽しく話ができるんだから」
「確かにな」と、誰もが美妙子の言葉に同意する。
本当にそう思っている。ここに居る誰もがきっと。
だけど、その効果はあまり長くない。
だから平日のど真ん中だろうと、心が荒んだ時にはここに集まって、延命処置をする。
ここは、なんだかんだと言っても、孤独が怖い人間が居場所という救いを渇望している場所だ。