ダメな大人の見本的な人生
39:人間って案外、他人に興味ない
衣織の借りてきた車は、赤い色で、普通より少し大きなサイズの普通車だった。
見ようによっては強そうで、山道でもバリバリ走れそうだ。
そして美来は重要事項を伝え忘れていることに気が付いた。
「私、運転怖いから無理だよ?」
「大丈夫。俺、運転好きだから」
先ほどの駐車場近い事件で衣織の信用は地に落ちていたが、自分が運転できないのだからどうしようもなく、かといってせっかく30分歩いたのに何の収穫もなく元の場所に戻るのは嫌だったので、運転は衣織に任せる事にした。
〝好きこそものの上手なれ〟とはよく言ったもので、衣織は運転が上手だった。
無邪気に「右よーし。左よーし」と言ってる様子が可愛い。
先ほど信用が地に落ちたばかりなので、特別安心して乗っていられるかと言われれば、それは違うが、問題なく乗っていられる。
二人を乗せた車が大通りに出た。
「美来さんと車デートだー」
「いい天気だし、気持ちいいね」
「じゃ、ちょっと遠くまで行こ」
「うん、いいよ」
休日もやっぱり外に出るべきだ。
家にずっとこもっていると気分がよくない。
「海とか」
「は……?」
正気か、この子。
本当にちょっとそこまでって感じだったじゃん。
準備は何もいらないって言ったじゃん。
「行けない」
「なんで? 予定あるの?」
衣織は心底不思議という様子だ。
君の同級生と同じレベルで考えるんじゃないよ。
30手前の女はどこに行くにも化粧が必須なんだよ。
「そうじゃなくて、私こんな格好なんだよ?」
「こんな格好って?」
「だから……」
美来は説明しようと試みたが、なんだか根本的に噛み合ってない気がしてならない。
どうすればこの子は理解してくれるのだろう。
「可愛いよ?」
美来の考えがまとまらないうちに、衣織はやはり当然といった様子で言う。
そりゃ君は、顔しか見てないからね。
しかも、その顔ですら、ドすっぴんだからね。
言いたいことは山ほどあったが、いろんな言い方を考えてみても理解してもらえる気がしない。
「じゃあまあ、とりあえずそっちの方向に行ってみよー」
軽い感じで衣織は言う。
やっぱりこの子を信用するんじゃなかった。
自分の中で消化しきっていたと思った30分歩かされたことも、掘り返して言ってやりたい気持ちになる。
諦めた美来は、とりあえず予定通りのドライブは楽しもうという所に追いついた。
他愛もない話をしながら、車が進んでいく。
昨日二人で一気見したドラマの話や、美味しいお店の話。
そうしている間に奇跡が起こって家に引き返さないだろうかと思っていたがそれは叶わぬ夢で。本当に海に到着してしまった。
駐車場に車を停めて運転席から降りた衣織は、渋り続ける美来を降ろす為に助手席に回る。
目の前には本当に綺麗な海が広がっている。
しかし、人もそこそこいる。
だが、衣織にとびきりの笑顔でうながされてはどうしようもなく、美来はしぶしぶ地面に足をつけた。
〝先に惚れた方が負け〟という言葉が頭をよぎる。
しかし美来はこの期に及んで〝先に惚れた方が負け〟を納得するつもりはなかった。
車を止めた駐車場は小高く上がっている。柵まで歩いて見下ろすと、片側一車線の道路の向こう側に、クリーム色の砂浜と水色の海が広がっていた。
海の色が遠くなるにつれて深くなっていく。
「わー、綺麗」
圧される様な錯覚を覚えて、これが自然の力か、と哲学的なことを考えていた。
これをデートと言わず何というのか。
こんな素敵な場所に連れてきてくれるのなら、化粧くらいはせめてさせてほしかった。
「降りてみようよ」
「でも……」
「いいからいいから」
そういう衣織に釣られて歩いた。
しかし自分がすっぴんでしかもテキトーな服で歩いているという事実がグサグサと刺さる。
どうしてこんな格好で来てしまったんだろう。
駐車場の隅まで歩いた頃、向かいからカップルが歩いてくる。
女性はしっかりとオシャレをしていて、服もメイクもとても可愛い。
「やっぱり帰りたいんだけど……」
「何で?」
明らかに乗り気でない様子を見せる美来をよそに、衣織は機嫌のいい様子で返事をする。
「こんなデートで来るようなところにドすっぴんで、しかもつっかけみたいなサンダルじゃこないの! もっとこう、」
「じゃあ、さっきのお姉さん、どんな服着てた?」
「え?」
叱るように言う美来だったが、遮られた想定外の質問に戸惑う。
「見てたでしょ? さっきすれ違ったお姉さん」
「見てたけど……」
「どんな服で、何色の服着てた? 髪型、覚えてる?」
衣織は階段の前で立ち止まって美来に視線を合わせた。
いつも通りの衣織の様子。
それなのにどこか、真剣な様子にも見える。
「えっと……」
考えてみても衣織の質問に即答できそうにはない。
どんな雰囲気だったかはわかる。
おしゃれだった。なんだか明るい色を着ていて、つまり雰囲気は明るかった。
おそらく後ろを振り返れば、あの人! となるはずだが、それはなんだかズルい様な気がする。
「……よく、わからないかも。……明るい色でおしゃれだったのは覚えてるんだけど」
「でしょ?」
衣織は当然と言った様子で返事をする。
「美来さんは気にしすぎだよ」
衣織ははっきりと断定する口調で言う。
「みんな海を見に来てるんだもん。だから、通りすがりの人を一瞬〝綺麗な人だな~〟って思ったんだとしても、五分もたてば忘れてる。人間って案外、他人に興味ないんだよ」
〝確かに〟としか言いようのない言葉に美来は押し黙った。
確かに自分もよく美人な人だな、とかイケメンだなとか道端で思う事はあるが、今になってそれがどんな人だったかと言われたら一ミリも思い出せない。
何なら、似たような人を並べたらわからなくなるのではとすら思っていた。
「せっかく来たんだから、楽しんで帰ろ」
衣織は美来に向かって手を差し出した。
そうか。他人の視線なんて、特別に気にしなくてもいいんだ。
ドすっぴんであることもテキトーな格好をしている事も、気にならない訳ではないが、それはワクワクを押し殺す理由にしてはしょうもないと思った美来は、衣織の手を握って階段を降りた。
「次からはどこかに出かけるときはちゃんと言ってよね。私だってできるだけ身だしなみは整えておきたいんだから」
一切化粧をする気がなかった女が何を言っているのかと自分で思ったが、とりあえず衣織に釘を刺しておく。
衣織は「わかった」と上機嫌な様子で言ったが、多分わかってはいないと思う。
二人で並んで、海の側まで行くと、波の音がより大きく聞こえた。
「わ~いいね。今日はそんなに寒くないし」
「入っちゃえば? 美来さんサンダルだし」
確かにそうだ。
衣織は靴だから入れないだろうが、私は入れるのか。
そう思った美来は衣織には申し訳ないが、サンダルを脱ぎ捨ててワンピースの裾を持ち上げて海の中に入った。
当然だが、まだ水は冷たい。
しかしぴちゃぴちゃと水音を立てていると、案外すぐに慣れた。
「衣織くん」
別に何か用事があったわけではないが、彼の名前を呼んで振り返ると、彼はスマートフォンを構えて連写している所だった。
見なきゃよかった。と思ったと同時に衣織がストーカーだったことを思い出した。
まるで彼氏の様な立ち位置にいたが、今の彼は紛れもないストーカーだった。
「美来さん、可愛いよ~」
衣織はそう言いながら、美来に大きく手を振る。
知り合いだと思われたら恥ずかしい美来は、すぐに知らない人のふりをした。
どうしてこの子はこんな恥ずかしい事を当たり前の顔でできるのだろう。
見ようによっては強そうで、山道でもバリバリ走れそうだ。
そして美来は重要事項を伝え忘れていることに気が付いた。
「私、運転怖いから無理だよ?」
「大丈夫。俺、運転好きだから」
先ほどの駐車場近い事件で衣織の信用は地に落ちていたが、自分が運転できないのだからどうしようもなく、かといってせっかく30分歩いたのに何の収穫もなく元の場所に戻るのは嫌だったので、運転は衣織に任せる事にした。
〝好きこそものの上手なれ〟とはよく言ったもので、衣織は運転が上手だった。
無邪気に「右よーし。左よーし」と言ってる様子が可愛い。
先ほど信用が地に落ちたばかりなので、特別安心して乗っていられるかと言われれば、それは違うが、問題なく乗っていられる。
二人を乗せた車が大通りに出た。
「美来さんと車デートだー」
「いい天気だし、気持ちいいね」
「じゃ、ちょっと遠くまで行こ」
「うん、いいよ」
休日もやっぱり外に出るべきだ。
家にずっとこもっていると気分がよくない。
「海とか」
「は……?」
正気か、この子。
本当にちょっとそこまでって感じだったじゃん。
準備は何もいらないって言ったじゃん。
「行けない」
「なんで? 予定あるの?」
衣織は心底不思議という様子だ。
君の同級生と同じレベルで考えるんじゃないよ。
30手前の女はどこに行くにも化粧が必須なんだよ。
「そうじゃなくて、私こんな格好なんだよ?」
「こんな格好って?」
「だから……」
美来は説明しようと試みたが、なんだか根本的に噛み合ってない気がしてならない。
どうすればこの子は理解してくれるのだろう。
「可愛いよ?」
美来の考えがまとまらないうちに、衣織はやはり当然といった様子で言う。
そりゃ君は、顔しか見てないからね。
しかも、その顔ですら、ドすっぴんだからね。
言いたいことは山ほどあったが、いろんな言い方を考えてみても理解してもらえる気がしない。
「じゃあまあ、とりあえずそっちの方向に行ってみよー」
軽い感じで衣織は言う。
やっぱりこの子を信用するんじゃなかった。
自分の中で消化しきっていたと思った30分歩かされたことも、掘り返して言ってやりたい気持ちになる。
諦めた美来は、とりあえず予定通りのドライブは楽しもうという所に追いついた。
他愛もない話をしながら、車が進んでいく。
昨日二人で一気見したドラマの話や、美味しいお店の話。
そうしている間に奇跡が起こって家に引き返さないだろうかと思っていたがそれは叶わぬ夢で。本当に海に到着してしまった。
駐車場に車を停めて運転席から降りた衣織は、渋り続ける美来を降ろす為に助手席に回る。
目の前には本当に綺麗な海が広がっている。
しかし、人もそこそこいる。
だが、衣織にとびきりの笑顔でうながされてはどうしようもなく、美来はしぶしぶ地面に足をつけた。
〝先に惚れた方が負け〟という言葉が頭をよぎる。
しかし美来はこの期に及んで〝先に惚れた方が負け〟を納得するつもりはなかった。
車を止めた駐車場は小高く上がっている。柵まで歩いて見下ろすと、片側一車線の道路の向こう側に、クリーム色の砂浜と水色の海が広がっていた。
海の色が遠くなるにつれて深くなっていく。
「わー、綺麗」
圧される様な錯覚を覚えて、これが自然の力か、と哲学的なことを考えていた。
これをデートと言わず何というのか。
こんな素敵な場所に連れてきてくれるのなら、化粧くらいはせめてさせてほしかった。
「降りてみようよ」
「でも……」
「いいからいいから」
そういう衣織に釣られて歩いた。
しかし自分がすっぴんでしかもテキトーな服で歩いているという事実がグサグサと刺さる。
どうしてこんな格好で来てしまったんだろう。
駐車場の隅まで歩いた頃、向かいからカップルが歩いてくる。
女性はしっかりとオシャレをしていて、服もメイクもとても可愛い。
「やっぱり帰りたいんだけど……」
「何で?」
明らかに乗り気でない様子を見せる美来をよそに、衣織は機嫌のいい様子で返事をする。
「こんなデートで来るようなところにドすっぴんで、しかもつっかけみたいなサンダルじゃこないの! もっとこう、」
「じゃあ、さっきのお姉さん、どんな服着てた?」
「え?」
叱るように言う美来だったが、遮られた想定外の質問に戸惑う。
「見てたでしょ? さっきすれ違ったお姉さん」
「見てたけど……」
「どんな服で、何色の服着てた? 髪型、覚えてる?」
衣織は階段の前で立ち止まって美来に視線を合わせた。
いつも通りの衣織の様子。
それなのにどこか、真剣な様子にも見える。
「えっと……」
考えてみても衣織の質問に即答できそうにはない。
どんな雰囲気だったかはわかる。
おしゃれだった。なんだか明るい色を着ていて、つまり雰囲気は明るかった。
おそらく後ろを振り返れば、あの人! となるはずだが、それはなんだかズルい様な気がする。
「……よく、わからないかも。……明るい色でおしゃれだったのは覚えてるんだけど」
「でしょ?」
衣織は当然と言った様子で返事をする。
「美来さんは気にしすぎだよ」
衣織ははっきりと断定する口調で言う。
「みんな海を見に来てるんだもん。だから、通りすがりの人を一瞬〝綺麗な人だな~〟って思ったんだとしても、五分もたてば忘れてる。人間って案外、他人に興味ないんだよ」
〝確かに〟としか言いようのない言葉に美来は押し黙った。
確かに自分もよく美人な人だな、とかイケメンだなとか道端で思う事はあるが、今になってそれがどんな人だったかと言われたら一ミリも思い出せない。
何なら、似たような人を並べたらわからなくなるのではとすら思っていた。
「せっかく来たんだから、楽しんで帰ろ」
衣織は美来に向かって手を差し出した。
そうか。他人の視線なんて、特別に気にしなくてもいいんだ。
ドすっぴんであることもテキトーな格好をしている事も、気にならない訳ではないが、それはワクワクを押し殺す理由にしてはしょうもないと思った美来は、衣織の手を握って階段を降りた。
「次からはどこかに出かけるときはちゃんと言ってよね。私だってできるだけ身だしなみは整えておきたいんだから」
一切化粧をする気がなかった女が何を言っているのかと自分で思ったが、とりあえず衣織に釘を刺しておく。
衣織は「わかった」と上機嫌な様子で言ったが、多分わかってはいないと思う。
二人で並んで、海の側まで行くと、波の音がより大きく聞こえた。
「わ~いいね。今日はそんなに寒くないし」
「入っちゃえば? 美来さんサンダルだし」
確かにそうだ。
衣織は靴だから入れないだろうが、私は入れるのか。
そう思った美来は衣織には申し訳ないが、サンダルを脱ぎ捨ててワンピースの裾を持ち上げて海の中に入った。
当然だが、まだ水は冷たい。
しかしぴちゃぴちゃと水音を立てていると、案外すぐに慣れた。
「衣織くん」
別に何か用事があったわけではないが、彼の名前を呼んで振り返ると、彼はスマートフォンを構えて連写している所だった。
見なきゃよかった。と思ったと同時に衣織がストーカーだったことを思い出した。
まるで彼氏の様な立ち位置にいたが、今の彼は紛れもないストーカーだった。
「美来さん、可愛いよ~」
衣織はそう言いながら、美来に大きく手を振る。
知り合いだと思われたら恥ずかしい美来は、すぐに知らない人のふりをした。
どうしてこの子はこんな恥ずかしい事を当たり前の顔でできるのだろう。