ダメな大人の見本的な人生

40:いい雰囲気

 衣織とは他人のふりをすると誓い、彼の方を見ないようにする。

 しかし衣織にとってそんなことは取るに足らない事なのか、しばらく飽きることなく写真を撮っていた。

 悪い気はしない。
 反応に困る場合はあるかもしれないが、基本的に美人と言われて嬉しくない人はいないだろう。
 少なくとも、美来にとってそれは嬉しい事だった。だから悪い気はしないのだけど、よく考えればそれにしても執着が強すぎる、という感想だ。

 そこまで考えて、美来は気付けば自分の唯一の武器になっている顔が劣化することに悲しい気持ちを持っていて、悲しいのは自分だけだと思っていたが、その事実に気付いていない衣織は、もっと悲しい思いをするのではと考えて、少し衣織を哀れに思った。

 そしてちらりと衣織を見る。
 衣織はスマートフォンをこちらに向けてやはり連写を続けていた。

 普通に盗撮だからね。と言いたかったが、知り合いだと思われたら嫌なのでやめておいた。
 この子は若さと容姿がなければ、絶対に数回は刑務所に入っていると思う。

 一体、歴代の彼女たちはこの子をどうやって扱ってきたのだろう。
 大人にとっては羞恥プレイのこのやりとりも、高校生とか大学生のころだったら、〝私の事をこんなに好きでいてくれているんだ〟という気持ちで脳内お花畑になる気もするが。

 そしてまた厄介なのが、なぜか衣織が自分以外の女性を連写したり、ストーカーしたりするところが思い浮かばないという所だ。

 衣織と葵の様子を見たが、衣織が彼女に向かってカメラを連写している所は想像できなかった。

 しかし美来は、すぐにその考えを振り払う。

 色眼鏡を通してみているのかもしれない。自分だけだと高を括っていたのに葵の存在があったんだから、その考えは危険すぎる。

 しかしやっぱり、衣織が他の女性に惚れこんでいる所は想像がつかなくて。
 考えてもわからないという結論に至った美来は、すぐに考えない様に努めた。

「冷たいねー」

 衣織は当たり前な顔をしてそう言いながら、ズボンの裾を少し上げて海の中に入ってくる。

 砂浜には靴の中に靴下が入った状態でおかれていた。

「衣織くん、帰りどうするの?」
「タオルあったと思うし、なくてもなんとかなるよ」

 衣織は当然と言った様子で言う。
 本当にこの子は後先の事を考えないな、と思っていると、衣織のズボンの裾が濡れた。

「あ、濡れた。もういいや」

 衣織はそう言うと、せっかく濡れずに持っておいたズボンの裾を手放した。

「いいの?」
「いいのいいの」

 衣織はそう言うと、足元を見下ろす。

「綺麗だね。……あ、貝殻みっけ」

 衣織はそう言うと、身を屈めて手を伸ばした。
 袖が濡れて小さく「あ」と言う衣織に、美来は袖をまくり上げ忘れていることに今気づいたのだろうと察した。
 しかし、気付かないふりを強行しようとしているようで、そのままもう少し腕を海水に沈める。

 どうしてこの子は特定の事になると知能が下がるんだろう。

「綺麗な貝殻。ピンク色」

 衣織が海水から上げた手には、透き通る小さな貝殻が握られていた。

「本当、綺麗。なんて名前なんだろう?」

 衣織はそれを美来に差し出す。美来が片手を差し出すと、衣織は貝殻を美来の手のひらの上に置いた。
 その貝殻は向こう側が透けるくらい薄くて、小さい。

「でもすぐ割れそう」

 そういって衣織が美来の手のひらの貝殻を指先で突くと、ピンク色の貝殻は音もなく割れた。

「あ、割れちゃった。せっかく綺麗だったのに」

 言葉に反して特に残念そうでもない衣織。

「浜辺で綺麗な貝殻探そう」

 急にロマンチックなことを言い出す衣織だったが、きっと他意はなく純粋に自分が貝殻を探したいのだろうと思った美来は二つ返事で付き合う事にした。

 二人は浜辺で貝殻を探す。

「これ、いいかも」
「はい」

 持って帰って玄関にでも飾ろうと思った美来は、自分が気に入った貝殻を衣織の手の上において行く。

 帰り際にそれを海水で洗った。
 美来のワンピースの裾は気付かないうちに少し湿っていたが、衣織のズボンは水を吸い込み、細かい砂も凄い事になっていた。

 衣織は駐車場までの道を裸足で、靴と靴下を手に持って移動する。
 美来は衣織から受け取った自分が選んだ貝殻を両手に持っていた。

 美来は来た時の様に、駐車場から海を見下ろす。

 今日はここに来てよかった。
 やっぱり休日は、外に出ていた方が気分がいい。

 景色には興味なさげな衣織を追って車に来ると、衣織は小さめのボストンバッグをガサゴソと探し、あった! と言ってタオルを美来に差し出した。

 自分の方が濡れているんだから一番に使いたいだろうに、迷いなく人に差し出す。
 美来は衣織の優しさに触れて、温かい気持ちになる。時々感じる衣織の優しさが、心の内側に染みる気がする。

 前までならすぐ〝恋愛対象でもない年下に!〟と心が反発していたが、最近はそう思う事も減った。
 衣織が凄いのか、自分の感覚がマヒしているのか。

 美来はワンピースの裾と足を軽くふくと、タオルを衣織に手渡した。

「今何時だろ」
「三時すぎだよ。美来さんお腹空いた?」
「あんまり」
「俺も。じゃあ、夜ご飯しっかり食べたらいっか」

 衣織はそう言うと、靴を履いてタオルをしまい、車に乗り込んだ。

 車が動き始めて間もなく、衣織は手のひらを下に向けている美来の手に、上から自分の手を覆う様に重ねて握った。

「もう少し、美来さんとドライブしたい」

 胸がときめく、キュンとする、というのは間違いなくこの感覚だ。
 心が締め付けられた様な錯覚に陥っている。

 どうしてこんな気持ちになるんだろう。

「いいよ」
「やったー」

 衣織が嬉しそうな顔で笑う。それはズルい。
 ドライブするだけでそんなに嬉しそうにされたら、たまにはいいかな、と思ってしまう。

 気持ちが動いて仕方がない。いつもなら疲れるはずの感情の揺れも、今日は程よく疲れているからなのか、心地よく感じる気がする。

 しばらく他愛もない話をしながらドライブしていると、日が傾いているのが分かる。

 幸せだと思った。
 こんなに幸せでいいのかと疑問に思って、何か大切なことを忘れているんじゃないかと不安が募るくらい。

「ね、美来さん」
「ん?」

 手のぬくもりはとっくに中間地点に収まっている。
 これはあえて言葉に出すのなら、明らかに〝いい雰囲気〟だ。

「泊って行こ?」
「は?」

 美来は思わず素っ頓狂な声を上げる。
 いい雰囲気の全てをぶち壊して。

「どっかその辺りに」

 しかし衣織は、何の気もない様子でニコニコと笑っている。

 この子は正気か?

 財布、スマホ、鍵、タバコしか持ってきていない女が泊まる事なんてできるはずがない。
 もしかして、女という生き物に接触するのは初めてなのだろうか。

 女の準備は長く、荷物が多いなんてわかり切った事だろうに。

「……何を言ってるの?」
「なんか美来さんと泊まって帰りたいなーって」
「無理に決まってるでしょ? 私、何も持ってきてないんだよ?」
「何とかなるよ」

 何とかなるって何。
 男と女は同じ生き物ではないんだよ。

 女が化粧するのにいくつの道具を使うか君は知っているかい?
 小一時間説教してやりたい気持ちになったが、それよりも唖然とし過ぎて言葉にもならなかった。

「旅館みたいなところがいいな。昔っぽい雰囲気があるところ。和室で、一緒に入れる温泉があって」
「ねーお願いだから、私の話を聞いて」

 美来は淡々とそういうが、衣織はまったく気にしていない様子だ。

 彼は時々、自分に都合の悪い話が聞こえなくなる時がある。
< 41 / 103 >

この作品をシェア

pagetop