ダメな大人の見本的な人生

42:忘れた過去の向こう側

 必死に食い下がる美来を、衣織は〝はいはい〟とでも言いたげな様子で対応していた。

 それは勿論相手をされている側の美来も痛い位によく分かる。
 しかし引き下がるわけにもいかない美来が頭を抱えている。

「とにかく、今日は受け取らないから」

 衣織はそう言うと、車から降りる。それを視線で追った後、美来も急いで助手席から降りた。

「衣織くん、」
「ジンジャーエールが飲みたい。後、棒についた唐揚げ」

 その程度のもの、一か月毎日買ってあげてもいい。
 絶対にそれ以上の金額を払っているのだ。

「お金なんかどうでもいいからさ。『ありがとう、衣織くん』って言って、ご褒美がほしいな」

 そんなもので返せるレベルのものではないと分かっているから頭を抱えているんだと思ったが、こうなった衣織が人の話を聞かない事もよく分かっていた。

 甘えるか、という気持ちが顔を出すが、衣織は18歳だぞ、という正気が幻想をぶん殴る。

 甘えるというのは年が近いとか年上とかまでに発生するものであって、年齢が大きくしたの子どもに向ける言葉ではないのではないか。

「たまには甘えてよ、美来さん」

 振り返る衣織は、いつも通りの様子で。

 もう何度言ったかわからない〝でも〟という言葉を飲み込んだ。
 ここまで言っているのだから、今日は絶対に曲がらないのだろうなという、一種の諦め。

「衣織くん」

 コンビニに入った後で衣織にお礼を言っていないことに気付いた美来は、ドリンクコーナーに行こうとする衣織を呼び止めた。

「ありがとう」
「どうしたしまして」

 衣織は笑って、美来に背を向ける。
 なんだかもう、意味が分からない。

 衣織の背中に飛びついて、思いきり抱き締めたい様な。
 一秒だって離れたくない様な、バカみたいな考えが頭の中に浮かぶ。

 愛されてるな、なんて、愛が何かも知らない様な子どもに思うのだから終わってる。

 美来はその考えを振り切って、化粧品のコーナーへと向かう。
 案外たくさんあって、ここでそろえれば問題なさそうだ。

 大学生のころを思い出す。
 あの頃は思い立ったら他人の都合なんて考えずにすぐ行動をしていて、例えば夜寝る準備が終わっていても、友達に誘われれば楽しそうなことが待っていると思ってすぐに飛び出した。

 風呂に入っていても、面倒だなんて思わずに最低限の化粧をして外に出ていたし、何ならすっぴんでも何の抵抗もなかった。

 若さもあるのだろう。
 何をしても許される年齢だったという事も大きい。

 こんなに腰が重くなったのはいつからだろう。
 いつから〝面倒くさい〟という感情が勝って、動くことが億劫になったのだろう。

 もしかすると、大学生のころだったら、今日と同じ状況の時、自分から〝泊まって帰ろう! 何とかなるよ!〟と言っていたかもしれない。

 いやきっと、言っていただろう。

 衣織と関わらなければ、昔と自分の違いに気付くこともなかったのかもしれない。

 そうすればずっとマイナス思考のまま、今のこの瞬間の楽しむこともなく、時間と女の価値に追われて、一生を終えていたのかもしれない。

 そう考えると恐ろしい。そして、大切なことを思い出させてくれる衣織に、いつも楽しませて、珍しい景色を見せてくれる衣織に心の底から感謝している。

 それなのに、頭の中には葵が過る。

 なぜか葵が頭の中に過ってから、美来は衣織と今日これから二人の時間を過ごせることに、喜びを感じていた。

 汚い感情だと自分で思う。
 葵から衣織を、奪っている様な気がしているから。

 不倫にハマる女性の気持ちがわかる。
 しかし、葵と衣織の関係が、本当に付き合っているのかはわからないし。

「いいのある?」
「うわっ!!」

 狭いコンビニに響くくらい大きな声を出してしまって、美来は思わず振り返って衣織の胸を叩いた。

「びっくりした!」
「ごめん。真剣に選んでた?」

 衣織はいつも通りの笑顔を浮かべている。
 それがまた心の内側に染みるみたいに感じるから、本当に勘弁してほしい。

 どうしていつもいつも、こんな気持ちになるだろう。
 もう少し感情がおとなしくしてくれていれば、分かる気がするのに。

 美来は最低限の化粧品を手に取った。

「ここで全部ありそう? なかったらどっか別の所も見に行こう」
「うん、大丈夫」

 化粧品はもうここで全て決めてしまいたいと思った。
 衣織と二人で過ごす時間を優先したい、と心の底から思っているなんて、本当にどうかしていると思う。

 いや、元々何も持っていなかったんだから、今更贅沢は言わないだけだ。
 武器、装備なしの勇者からこんぼうと布の服くらいにはなったはずだ。

 ふと視線を移すと、下着が置いてあった。

 何の柄もないシンプルなもの。コンビニに下着って、需要あるんだと思って手に取る。

「下着もここで選ぶの?」
「うん、そうする」

 別に気どる必要もないしな、と思いすこし持っている下着をずらすと、その後ろには同じ下着の違う色があった。

 それを見た衣織はすっと後ろを向く。

 この子にも一応デリカシーがあるのか。そう思うと衣織の知らない一面を知った様な、成長を実感した様な。とにかく温かい気持ちになる。

「衣織くんもそんな気遣いができるんだねー」

 美来は感心した、という感情を余すことなく表に出して衣織に言う。

「女の人が下着を選ぶ所を見ない、なんて。私ちょっと感動しちゃった。まさか衣織くんがそんな気遣いが出来る子だったって思わなかったから」
「俺、楽しみは先にとっておくタイプなんだー」

 予想とは違う反応に、美来の思考回路は一瞬で動きを止めて、そして一気に嫌な予感が心の内側に漂ってきた。

「後から脱がせる時の楽しみにとっておこうと思って」

 褒めた言葉のすべて、一言一句、余す事なく返してほしいと思った。

 全然違った。
 女の人の事を考えていたのかと思ったのに、完全に自分の娯楽に全振りしていた。

 そしていつもの所に戻ってくる。
 どうしてこの子はこうあるのだろう。

 美来はもう、全ての息を吐き切るつもりで溜息をついた。

 タバコと下着と化粧品、それから衣織の分の飲み物とちょっとしたお菓子に、棒についた唐揚げ購入する。
 そしてまた、車に乗り込んだ。

「夜ご飯は〝海の幸〟って書いてあったよ! お刺身とか出てくるのかな」

 唐揚げの串を食べながら、〝海の幸〟ではしゃぐの可愛い。
 突発的に出てきた感想に、本当に自分をぶん殴って正気にさせてやりたくなった。
 
 そして急に不安になる。
 もしかすると今日一日で相当毒されているのでは。

 毒された結果、正常な距離感に戻れないのでは。

 しかしもう衣織は旅館の予約は取ってしまっている様だし、化粧品も下着も買ってしまった。

 自分から万全な状態で敵の陣地に乗り込んでいるようなものだ。

 旅館に着くころには辺りはもう薄暗くなっている。

 旅館から漏れる温かい光と、囲まれている木々に、下腹部が締め付けられるような感覚がした。

 変な感覚だ。
 先ほど考えていたことが全部吹っ飛ぶような。

 衣織のいいようになることに、期待している様な。

 いつから自分はこんなドMになったのかと思ったが、このこれから始まることが分かり切っている所が、なんかエロいなと、他人事のようにも考えている。
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