ダメな大人の見本的な人生
43:いわゆる期待
意味が分からない思考は、夜だからかもしれない。
だから明日の朝になると、こうやって〝期待〟していることに対して自分から批難を浴びせられる事になるのかもしれないが、少なくとも今の〝自分〟はこれから先に起こる一切の事に期待している。
夜と朝では別人の様に考え方が違う。
きっと今思っている事も、明日の朝に冷静になった自分が、アホか? と一蹴してくれるに違いないと、完全に未来の自分任せにしている。
どうやら人間は、未来の自分を過剰評価する傾向にあるみたいだ。
部屋の中は和室になっていて〝旅館〟という感じがした。
色合いが落ち着いていて、洗練された雰囲気を感じる。
「すごい」
「すごいね。ここで大正解」
思わず声が漏れるくらい。
薄暗い部屋になっているが、電気をつけると真っ白ではないオレンジがかかった光が部屋の中を照らしている。
心から息を抜きたくなる感じがする。
衣織といると、幸せを感じる事が多い、と事考えて、危険だと思った。
本当にこのまま毒されてしまうのではと思う不安。
でもまあ、今日くらいいいか。と考えているのは絶対に夜だからで。
そしてこの旅館の雰囲気が良すぎるからに決まっている。
「あっちが寝室だっけ?」
「見に行こうか」
隣の襖の向こう側には、和室によく合う柄の藍色の掛布団が高級感をさらに加速させていた。
これを〝いい雰囲気〟と言わず何というのか、というくらい、薄暗い光に照らされている。
こんなに綺麗な寝室を見たことがない。
「防音、しっかりしてそう」
美しいベッドルームに酔いしれている美来は、衣織の言葉には絶対に反応しないと誓っていた。
「私、外見てこよっと」
「俺も行く」
美来は寝室を出てから、テーブルが置いてある和室に戻り、ウッドテラスに出た。
薄暗い夜にオレンジ色の明かりが映えている。
そしていたるところに暗い陰を落としていた。
石の道の先には露天風呂があり、二人は余裕で入れそうな大きさだ。
ここに入りながら酒でも飲んだら最高だろうなと、美来はまもなく訪れるはずの極楽の時間に思いを馳せていた。
「後で一緒に入ろうね」
何の嫌味もいやらしさなく、さらりと言う衣織。
本当にこの子は凄いなと、美来は妙に衣織に関心する。
テーブルの置いてある和室に戻ると、衣織はもともと準備していたボストンバックに手を突っ込んでいた。
〝温泉〟と言っていたけど、やっぱり日帰りではなくて旅行にいくつもりだったんだ。
考えて思い出すのは、葵の顔。
こんなに気分がいい時に、本当に勘弁してほしい。
「ねえ美来さん。露天風呂、楽しみだね」
「うん、楽しみ」
「今日はいろいろできるよ」
バックをガサゴソしながら、衣織は言う。
恐怖心と期待が同じところにいる。
そして身体は、無意識に緊張でこわばった。
「え? い、いろいろって……なに……?」
この子の〝いろいろ〟は世界で一番意味深だと思う。
もしかして大人のおもちゃを持ってきた、なんて、さすがにそんな事言わないよね。
さすがに大丈夫だよね。この子は確かにちょっとほかの子と違うけど、それは無いよね、信じて大丈夫だよね。
大丈夫のはずだ。そう自分自身に言い聞かせながら、美来は問いかける。
「いろいろってそりゃ、二人でいろいろと」
そのなんだか妙に色気のある口調で言うのはやめてほしい。
心臓がうるさくなる。
無理だ。無理。これ以上は無理。
何も使わない状態でもバテているのに、大人のおもちゃを使うなんて絶対に無理。
本当に頭がおかしくなったら、どう責任を取ってくれるのか。
無理、と頭が、心の奥底から本心でそういっているのに。
「だから……いろいろって……」
同じくらい期待もしているのだから、もう少し身体と気持ちは統一感を持つべきだと思う。
これ以上聞くのは無粋なのだろうか。
気付かないふりをしておいた方がいいのか。
いや、そもそも無粋ってなんだ。意味が分からない。
もうあっちもこっちも、全部意味が分からない。
「二人でいろいろって、なんなの?」
とうとう直接的に問いかける美来に、衣織は笑顔を浮かべてボストンバッグから〝なにか〟を取り出そうとする。
「水鉄砲とか、水風船とか」
衣織はそう言うと、ボストンバッグのほとんどをそれが占領していたのではないかと思うくらい大きくてゴツい水鉄砲を取り出し、次に水風船を取り出した。
水風船に至っては、細い管の先に無数のしぼんだ風船が付いているタイプ。
こんな雰囲気のいい旅館で何をするつもりなのか。
拍子抜けというのは、こういう時に使う言葉なのだと思う。
美来はため息をついた。
期待した自分が馬鹿みたいだ。
いや、期待って何? 大人のおもちゃに?
「あ、そうだこれこれ。今こんなのあるんだよ! 美来さん、知ってた?」
感情が完全に迷子になったころ、衣織は嬉しそうに何かを取り出す。
「使いまわせる水風船! シリコンになっててね、水を入れたら何回も使えるってやつ。凄くない?」
彼がどこにテンションが上がっているのか皆目見当もつかない美来は、「うん」と覇気のない様子で返事をした。
今までの自分が真っ白になったみたいな。燃え尽きたような。
一瞬でも大人のおもちゃが過った自分をぶん殴ってやりたい。
普通に子どものおもちゃだった。
気持ちがいろいろな所を行ったり来たりする。
本当にそろそろ勘弁してほしいし、なんならそろそろ自分も衣織という存在に慣れてほしい。
気持ちを消化することはできないという事はもうわかり切っていたが、美来はとりあえずテーブルの上に置いてあるお茶を二人分入れた。
「お茶ありがとう。楽しみだね、ごはん」
「そうだね」
衣織は美来の向かいに座って、お茶に口をつけた。
そろそろ夜ご飯が部屋に来るはずだ。
もう衣織の事は全部忘れて、食事を堪能してやろう。
そう思うと腹部を圧迫するような空腹感に襲われる。
「失礼いたします」
襖の向こうから聞こえたゆるりとした声に、美来は待ちに待った料理が来た喜びで「やった」と呟いてとっさに立ち上がった。
「そんなに楽しみにしていただいて嬉しいこと。どうぞ、おかけになってくださいな」
しとやかに笑って言う品のある女将に、美来は自分が勢いよく立ち上がったことに気付いて、何事もなかったかのようにゆっくりその場に座った。
「楽しみだね」
何事もなかったかのように振る舞う美来に、衣織も何事もなかったかのように振る舞う。おそらく衣織は、本当に何も気にしていないのだろうが。
刺身、煮魚、天ぷらが、テーブルに並ぶ。
「うわ、おいしそう!」
「おいしいですよ」
衣織の言葉に、女将はふざけた口調で、戯れる様に言う。
そういって笑顔のまま料理を運んでいく。
茶碗蒸し、小さな鍋に、いくつかの小鉢に、フルーツ、デザート。
その間女将はずっと背筋を伸ばして、ゆっくりとした笑顔でいた。
〝大人〟になってからの美しさというのは、こういう所にあらわれるのだと、美来は思った。
若さで許されていたことが何もかも使えなくなる。
だからこういう所を磨く必要があるのだな、と美来は旅館の女将を見てひしひしと感じていた。
「どうぞごゆっくり」
女将が部屋を出た後でテーブルを眺める。二人分の料理がテーブルを埋め尽くしていた。
だから明日の朝になると、こうやって〝期待〟していることに対して自分から批難を浴びせられる事になるのかもしれないが、少なくとも今の〝自分〟はこれから先に起こる一切の事に期待している。
夜と朝では別人の様に考え方が違う。
きっと今思っている事も、明日の朝に冷静になった自分が、アホか? と一蹴してくれるに違いないと、完全に未来の自分任せにしている。
どうやら人間は、未来の自分を過剰評価する傾向にあるみたいだ。
部屋の中は和室になっていて〝旅館〟という感じがした。
色合いが落ち着いていて、洗練された雰囲気を感じる。
「すごい」
「すごいね。ここで大正解」
思わず声が漏れるくらい。
薄暗い部屋になっているが、電気をつけると真っ白ではないオレンジがかかった光が部屋の中を照らしている。
心から息を抜きたくなる感じがする。
衣織といると、幸せを感じる事が多い、と事考えて、危険だと思った。
本当にこのまま毒されてしまうのではと思う不安。
でもまあ、今日くらいいいか。と考えているのは絶対に夜だからで。
そしてこの旅館の雰囲気が良すぎるからに決まっている。
「あっちが寝室だっけ?」
「見に行こうか」
隣の襖の向こう側には、和室によく合う柄の藍色の掛布団が高級感をさらに加速させていた。
これを〝いい雰囲気〟と言わず何というのか、というくらい、薄暗い光に照らされている。
こんなに綺麗な寝室を見たことがない。
「防音、しっかりしてそう」
美しいベッドルームに酔いしれている美来は、衣織の言葉には絶対に反応しないと誓っていた。
「私、外見てこよっと」
「俺も行く」
美来は寝室を出てから、テーブルが置いてある和室に戻り、ウッドテラスに出た。
薄暗い夜にオレンジ色の明かりが映えている。
そしていたるところに暗い陰を落としていた。
石の道の先には露天風呂があり、二人は余裕で入れそうな大きさだ。
ここに入りながら酒でも飲んだら最高だろうなと、美来はまもなく訪れるはずの極楽の時間に思いを馳せていた。
「後で一緒に入ろうね」
何の嫌味もいやらしさなく、さらりと言う衣織。
本当にこの子は凄いなと、美来は妙に衣織に関心する。
テーブルの置いてある和室に戻ると、衣織はもともと準備していたボストンバックに手を突っ込んでいた。
〝温泉〟と言っていたけど、やっぱり日帰りではなくて旅行にいくつもりだったんだ。
考えて思い出すのは、葵の顔。
こんなに気分がいい時に、本当に勘弁してほしい。
「ねえ美来さん。露天風呂、楽しみだね」
「うん、楽しみ」
「今日はいろいろできるよ」
バックをガサゴソしながら、衣織は言う。
恐怖心と期待が同じところにいる。
そして身体は、無意識に緊張でこわばった。
「え? い、いろいろって……なに……?」
この子の〝いろいろ〟は世界で一番意味深だと思う。
もしかして大人のおもちゃを持ってきた、なんて、さすがにそんな事言わないよね。
さすがに大丈夫だよね。この子は確かにちょっとほかの子と違うけど、それは無いよね、信じて大丈夫だよね。
大丈夫のはずだ。そう自分自身に言い聞かせながら、美来は問いかける。
「いろいろってそりゃ、二人でいろいろと」
そのなんだか妙に色気のある口調で言うのはやめてほしい。
心臓がうるさくなる。
無理だ。無理。これ以上は無理。
何も使わない状態でもバテているのに、大人のおもちゃを使うなんて絶対に無理。
本当に頭がおかしくなったら、どう責任を取ってくれるのか。
無理、と頭が、心の奥底から本心でそういっているのに。
「だから……いろいろって……」
同じくらい期待もしているのだから、もう少し身体と気持ちは統一感を持つべきだと思う。
これ以上聞くのは無粋なのだろうか。
気付かないふりをしておいた方がいいのか。
いや、そもそも無粋ってなんだ。意味が分からない。
もうあっちもこっちも、全部意味が分からない。
「二人でいろいろって、なんなの?」
とうとう直接的に問いかける美来に、衣織は笑顔を浮かべてボストンバッグから〝なにか〟を取り出そうとする。
「水鉄砲とか、水風船とか」
衣織はそう言うと、ボストンバッグのほとんどをそれが占領していたのではないかと思うくらい大きくてゴツい水鉄砲を取り出し、次に水風船を取り出した。
水風船に至っては、細い管の先に無数のしぼんだ風船が付いているタイプ。
こんな雰囲気のいい旅館で何をするつもりなのか。
拍子抜けというのは、こういう時に使う言葉なのだと思う。
美来はため息をついた。
期待した自分が馬鹿みたいだ。
いや、期待って何? 大人のおもちゃに?
「あ、そうだこれこれ。今こんなのあるんだよ! 美来さん、知ってた?」
感情が完全に迷子になったころ、衣織は嬉しそうに何かを取り出す。
「使いまわせる水風船! シリコンになっててね、水を入れたら何回も使えるってやつ。凄くない?」
彼がどこにテンションが上がっているのか皆目見当もつかない美来は、「うん」と覇気のない様子で返事をした。
今までの自分が真っ白になったみたいな。燃え尽きたような。
一瞬でも大人のおもちゃが過った自分をぶん殴ってやりたい。
普通に子どものおもちゃだった。
気持ちがいろいろな所を行ったり来たりする。
本当にそろそろ勘弁してほしいし、なんならそろそろ自分も衣織という存在に慣れてほしい。
気持ちを消化することはできないという事はもうわかり切っていたが、美来はとりあえずテーブルの上に置いてあるお茶を二人分入れた。
「お茶ありがとう。楽しみだね、ごはん」
「そうだね」
衣織は美来の向かいに座って、お茶に口をつけた。
そろそろ夜ご飯が部屋に来るはずだ。
もう衣織の事は全部忘れて、食事を堪能してやろう。
そう思うと腹部を圧迫するような空腹感に襲われる。
「失礼いたします」
襖の向こうから聞こえたゆるりとした声に、美来は待ちに待った料理が来た喜びで「やった」と呟いてとっさに立ち上がった。
「そんなに楽しみにしていただいて嬉しいこと。どうぞ、おかけになってくださいな」
しとやかに笑って言う品のある女将に、美来は自分が勢いよく立ち上がったことに気付いて、何事もなかったかのようにゆっくりその場に座った。
「楽しみだね」
何事もなかったかのように振る舞う美来に、衣織も何事もなかったかのように振る舞う。おそらく衣織は、本当に何も気にしていないのだろうが。
刺身、煮魚、天ぷらが、テーブルに並ぶ。
「うわ、おいしそう!」
「おいしいですよ」
衣織の言葉に、女将はふざけた口調で、戯れる様に言う。
そういって笑顔のまま料理を運んでいく。
茶碗蒸し、小さな鍋に、いくつかの小鉢に、フルーツ、デザート。
その間女将はずっと背筋を伸ばして、ゆっくりとした笑顔でいた。
〝大人〟になってからの美しさというのは、こういう所にあらわれるのだと、美来は思った。
若さで許されていたことが何もかも使えなくなる。
だからこういう所を磨く必要があるのだな、と美来は旅館の女将を見てひしひしと感じていた。
「どうぞごゆっくり」
女将が部屋を出た後でテーブルを眺める。二人分の料理がテーブルを埋め尽くしていた。