ダメな大人の見本的な人生
44:まさに極上
料理はどれもこれも絶品。
そしてビールも最高。
見た時にはかなりの量だと思ったが、食べ進めているうちにこの量でも足りないのではないかと思うくらい、美味しすぎて箸が止まらない。
刺身は身がしまって弾力があるし、煮魚は身も甘くて柔らかくて甘辛い味が絶妙に絡まっているし、天ぷらは衣がサクサクしていて味がしっかりしているから塩で充分。
茶碗蒸しは口の中でほろほろとほどけて、鍋は魚介の出汁がしっかりと出ていて美味しくてスープだけで一品だし、小鉢も全部中身の具材が違うから飽きないし、フルーツとデザートまでついている。
そしてこれをお腹いっぱい食べ終わったら、今度は外の景色を見ながら露天風呂と酒が待っている。
これを最高と言わず何と呼ぶのか。
衣織に最高のプレゼントをもらってしまった。
あの時、衣織からの泊って行こうという提案を完全否定していたら、こんなおいしい料理にはありつけなかっただろう。
こんなにいい旅館を知る事もなかったかもしれない。
本当にこんなに幸せでいいのか、これから罰が当たるのではないかと思うくらい、幸せ。
「本ッ当に幸せ」
煮魚の甘みを噛みしめながら、美来は言う。
「美来さんが幸せそうだから、俺も幸せ」
さらりといい事を言う衣織に、美来はあからさまに明るい気持ちになる。
心の内側がほんの少しの抵抗を見せるが、今更という気持ちも否めない。
今日くらいは、衣織に対する自分の中の気持ちに少しくらいは素直になるべきだろう、という気持ちになる。しかしきっと、これは危険な思考なのだ。
しかし、自分の事を〝幸せそうにしているから俺も幸せ〟と言ってくれる人なんて、そうそういない。それも付き合ってもいない、一緒にいても何のメリットもない女に、だ。
もしかして、やっぱり騙されてる? 支払いを自分にさせるのではと疑った雰囲気を感じたから、とっさに作戦変更をした、とか。と疑い始めたが、また一口料理を食べ進めると、美味しくてどうでもよくなる。
どうでもよくなるから、衣織に対するハードルがどんどん下がっていく。
だから結論は、今日くらいは仕方ない! という所に収まる。
二人は他愛ない話をしながら料理を食べ進める。が、美来は基本的に食べる事に夢中だ。衣織ばかりが話しているが、衣織はいつもどおり、大して気にしていない。
「ごめん私、食べるのに夢中で」
「気にしないで。俺、美味しそうに食べる美来さん好きだよ」
出た。また、〝好き〟。
美来は動揺を読み取られない様に「ありがとう」と返事をした。
少しだけ冷静になった後、衣織のこういう所が好きだと思う。
好きというのは恋愛という意味ではなくて。
人として好きだ。一緒にいて安心するともいう。
気を張って反応しなくても、衣織は気にしないと言ってくれる。
衣織と一緒にいると楽だ。
何より、一緒にいると自分を許してあげられる気がする。
タバコを吸っているダメな自分も、自堕落でがさつな自分も。
結婚する、という動詞を主軸にするとマイナスなことばかりだけど、これが本当の自分なわけで。
衣織はそれをも包んでくれているような気がして。
いつの間に衣織という存在が自分の中で大きくなったのだろう。
衣織の顔を盗み見る。パクパクと次から次に口の中に運んでいた。
それを見て、気持ちが揺れる。
本当に幸せだな、と今日何度思ったかわからない事をまた思う。
そしてまた、葵の顔がちらつくから、勘弁してほしい。
浸っていたい幸せに水を差す。
葵は水を差しているわけではないだろうが。いや、もしかするとこういう心理状況を狙って名刺を渡したのかもしれない。
でも、なんにしても。こうやって二人でいる時に水を差されることが嫌だ。思い出す自分も嫌だ。
しかし直接聞く気にならないから。
聞くのが怖いから、一歩も前に進まない。
食事を終えて皿を下げてもらったタイミングで、露天風呂で飲む酒を頼んだ。
すっかり綺麗になったテーブルを見て、机はこんなに広かっただろうかと思った。
しばらくすると、酒が運ばれてくる。
薄い色の桶の中には乳白色の徳利と猪口が一つずつ。シンプルなものなのに洗練された雰囲気を感じる。
美来は桶ごと酒を受け取ると、ウッドデッキに出てすぐのパーテーションと棚が置かれているだけの簡易的な脱衣所で服を脱ぐ。
簡易的と言っても、どれも深い色で統一されていて、場の雰囲気になじんでいた。
美来はバスタオルを身体に巻き付けると、酒の入った桶を持って石の道を歩き、露天風呂に移動する。
後ろにはアッと言う間に服を脱ぎ終わった衣織が、水鉄砲とシリコンで出来た何度でも使える水風船を両手に持っていた。
ぎりぎりまでバスタオルを身体に巻き付ける美来とは対照的に、最初からすべてをさらけ出している衣織は、さっさと露天風呂に足を突っ込む。
「あったかい」
そういう衣織をよそに、美来は酒を露天風呂のすぐそばの台において、バスタオルを脱ごうとした。
裸を晒す抵抗感が、美来を夢の世界からほんの少し正気に戻させた。
この状況はおかしくないか。
今の今まで気が付かなかった。
付き合ってもいないのに、一緒に露天風呂に入るって、おかしくないか。
「美来さんも早くおいでよ。せーので入ろ」
しかし衣織はいつも通り。
この状況に何の疑問も抱いていないらしい。
本当に当たり前みたいに一緒に入ってしまう寸前まで来ている。
旅館の雰囲気の良さに始まり、料理のおいしさに感動し、露天風呂にテンションが上がって飛んでもない所に来てしまっていた。
本当に恐ろしい男だ、衣織。
しかし、ここまで来たらもう仕方がない。
「こっち、見ないでね」
「わかったー」
衣織は間延びした声で言うと、すぐに後ろを振り向いた。
こういう時は素直なんだよな、と思った美来はバスタオルを外して湯に足を入れた。その時点でもう気持ちがいい事が確定している。
「せーの」
衣織の声で露天風呂の中に身を沈めると「あ~」とおっさんみたいな声が自然に漏れる。
「極楽~」
気を張っていないと耐えられないくらいの快楽、ともいえる心地よさ。
温かい露天風呂の温度と、外の冷たい空気が最高だ。
最高の上に、さらに極上が待っている。
美来は台に置いてある桶の中で徳利から猪口に酒を注ぎ、酒の入った猪口を手に持った。
「これ、こうするんじゃないの?」
衣織はそう言うと、徳利だけが入った桶を露天風呂に浮かべた。ぷかぷかと気持ちよさそうに浮いている。
「温泉でよく見るヤツ」
「本当だ。確かによく見るヤツ。私だけごめんね」
「どうぞどうぞ」
嬉しそうに言う衣織に美来は遠慮することなく酒に口をつけた。
幸せ過ぎて昇天。
今日一日で人生のあらゆる幸せを詰め込んでしまったのではないかと不安になるくらいの気持ちだった。
「美来さん、美味しそうにお酒飲むよね」
「美味しいのよ、お酒」
美来はそう言いながら、もう次を猪口に入れていた。
空は幸運にも晴れていて、綺麗な月が出ている。
こんな幸せがこの世の中に存在していたのか。
まさに極上のひと時。
こんな気持ちはいつぶりだろう。
衣織には本当に感謝しなければいけない。
そしてまた、葵が顔を出すから。
「ねー、衣織くんさ」
美来は少し、落ち着いた声を出す。
「うん」
「この前バーで会った、衣織くんの隣にいた人」
「あー。葵さん?」
食事の時から回っている酒の力を借りて言ったはいいものの、衣織からその名前を聞いて、明らかに胸が痛む。
だけどそろそろはっきりさせて収まってもらわないと。頭の中をずっと彷徨っているから。
酒の力に任せて、最高の気分に絆されて、大した勇気もないままに口を開く。
それなのに自分から聞いておいて、〝葵〟の名前は衣織の口から聞きたくなかったなんて、わがままなことを考えていた。
「あの人、誰なの?」
衣織が口を開くまでのほんの少しの間が、酒の力や最高の気分をもってしても、後悔しそうになるくらい、痛い。
「俺を飼ってるお姉さん」
〝飼ってる〟で思い出したのは、以前衣織の言った〝結婚〟についての話。
心臓がうるさいのは、絶対に酒のせいではなかった。
そしてビールも最高。
見た時にはかなりの量だと思ったが、食べ進めているうちにこの量でも足りないのではないかと思うくらい、美味しすぎて箸が止まらない。
刺身は身がしまって弾力があるし、煮魚は身も甘くて柔らかくて甘辛い味が絶妙に絡まっているし、天ぷらは衣がサクサクしていて味がしっかりしているから塩で充分。
茶碗蒸しは口の中でほろほろとほどけて、鍋は魚介の出汁がしっかりと出ていて美味しくてスープだけで一品だし、小鉢も全部中身の具材が違うから飽きないし、フルーツとデザートまでついている。
そしてこれをお腹いっぱい食べ終わったら、今度は外の景色を見ながら露天風呂と酒が待っている。
これを最高と言わず何と呼ぶのか。
衣織に最高のプレゼントをもらってしまった。
あの時、衣織からの泊って行こうという提案を完全否定していたら、こんなおいしい料理にはありつけなかっただろう。
こんなにいい旅館を知る事もなかったかもしれない。
本当にこんなに幸せでいいのか、これから罰が当たるのではないかと思うくらい、幸せ。
「本ッ当に幸せ」
煮魚の甘みを噛みしめながら、美来は言う。
「美来さんが幸せそうだから、俺も幸せ」
さらりといい事を言う衣織に、美来はあからさまに明るい気持ちになる。
心の内側がほんの少しの抵抗を見せるが、今更という気持ちも否めない。
今日くらいは、衣織に対する自分の中の気持ちに少しくらいは素直になるべきだろう、という気持ちになる。しかしきっと、これは危険な思考なのだ。
しかし、自分の事を〝幸せそうにしているから俺も幸せ〟と言ってくれる人なんて、そうそういない。それも付き合ってもいない、一緒にいても何のメリットもない女に、だ。
もしかして、やっぱり騙されてる? 支払いを自分にさせるのではと疑った雰囲気を感じたから、とっさに作戦変更をした、とか。と疑い始めたが、また一口料理を食べ進めると、美味しくてどうでもよくなる。
どうでもよくなるから、衣織に対するハードルがどんどん下がっていく。
だから結論は、今日くらいは仕方ない! という所に収まる。
二人は他愛ない話をしながら料理を食べ進める。が、美来は基本的に食べる事に夢中だ。衣織ばかりが話しているが、衣織はいつもどおり、大して気にしていない。
「ごめん私、食べるのに夢中で」
「気にしないで。俺、美味しそうに食べる美来さん好きだよ」
出た。また、〝好き〟。
美来は動揺を読み取られない様に「ありがとう」と返事をした。
少しだけ冷静になった後、衣織のこういう所が好きだと思う。
好きというのは恋愛という意味ではなくて。
人として好きだ。一緒にいて安心するともいう。
気を張って反応しなくても、衣織は気にしないと言ってくれる。
衣織と一緒にいると楽だ。
何より、一緒にいると自分を許してあげられる気がする。
タバコを吸っているダメな自分も、自堕落でがさつな自分も。
結婚する、という動詞を主軸にするとマイナスなことばかりだけど、これが本当の自分なわけで。
衣織はそれをも包んでくれているような気がして。
いつの間に衣織という存在が自分の中で大きくなったのだろう。
衣織の顔を盗み見る。パクパクと次から次に口の中に運んでいた。
それを見て、気持ちが揺れる。
本当に幸せだな、と今日何度思ったかわからない事をまた思う。
そしてまた、葵の顔がちらつくから、勘弁してほしい。
浸っていたい幸せに水を差す。
葵は水を差しているわけではないだろうが。いや、もしかするとこういう心理状況を狙って名刺を渡したのかもしれない。
でも、なんにしても。こうやって二人でいる時に水を差されることが嫌だ。思い出す自分も嫌だ。
しかし直接聞く気にならないから。
聞くのが怖いから、一歩も前に進まない。
食事を終えて皿を下げてもらったタイミングで、露天風呂で飲む酒を頼んだ。
すっかり綺麗になったテーブルを見て、机はこんなに広かっただろうかと思った。
しばらくすると、酒が運ばれてくる。
薄い色の桶の中には乳白色の徳利と猪口が一つずつ。シンプルなものなのに洗練された雰囲気を感じる。
美来は桶ごと酒を受け取ると、ウッドデッキに出てすぐのパーテーションと棚が置かれているだけの簡易的な脱衣所で服を脱ぐ。
簡易的と言っても、どれも深い色で統一されていて、場の雰囲気になじんでいた。
美来はバスタオルを身体に巻き付けると、酒の入った桶を持って石の道を歩き、露天風呂に移動する。
後ろにはアッと言う間に服を脱ぎ終わった衣織が、水鉄砲とシリコンで出来た何度でも使える水風船を両手に持っていた。
ぎりぎりまでバスタオルを身体に巻き付ける美来とは対照的に、最初からすべてをさらけ出している衣織は、さっさと露天風呂に足を突っ込む。
「あったかい」
そういう衣織をよそに、美来は酒を露天風呂のすぐそばの台において、バスタオルを脱ごうとした。
裸を晒す抵抗感が、美来を夢の世界からほんの少し正気に戻させた。
この状況はおかしくないか。
今の今まで気が付かなかった。
付き合ってもいないのに、一緒に露天風呂に入るって、おかしくないか。
「美来さんも早くおいでよ。せーので入ろ」
しかし衣織はいつも通り。
この状況に何の疑問も抱いていないらしい。
本当に当たり前みたいに一緒に入ってしまう寸前まで来ている。
旅館の雰囲気の良さに始まり、料理のおいしさに感動し、露天風呂にテンションが上がって飛んでもない所に来てしまっていた。
本当に恐ろしい男だ、衣織。
しかし、ここまで来たらもう仕方がない。
「こっち、見ないでね」
「わかったー」
衣織は間延びした声で言うと、すぐに後ろを振り向いた。
こういう時は素直なんだよな、と思った美来はバスタオルを外して湯に足を入れた。その時点でもう気持ちがいい事が確定している。
「せーの」
衣織の声で露天風呂の中に身を沈めると「あ~」とおっさんみたいな声が自然に漏れる。
「極楽~」
気を張っていないと耐えられないくらいの快楽、ともいえる心地よさ。
温かい露天風呂の温度と、外の冷たい空気が最高だ。
最高の上に、さらに極上が待っている。
美来は台に置いてある桶の中で徳利から猪口に酒を注ぎ、酒の入った猪口を手に持った。
「これ、こうするんじゃないの?」
衣織はそう言うと、徳利だけが入った桶を露天風呂に浮かべた。ぷかぷかと気持ちよさそうに浮いている。
「温泉でよく見るヤツ」
「本当だ。確かによく見るヤツ。私だけごめんね」
「どうぞどうぞ」
嬉しそうに言う衣織に美来は遠慮することなく酒に口をつけた。
幸せ過ぎて昇天。
今日一日で人生のあらゆる幸せを詰め込んでしまったのではないかと不安になるくらいの気持ちだった。
「美来さん、美味しそうにお酒飲むよね」
「美味しいのよ、お酒」
美来はそう言いながら、もう次を猪口に入れていた。
空は幸運にも晴れていて、綺麗な月が出ている。
こんな幸せがこの世の中に存在していたのか。
まさに極上のひと時。
こんな気持ちはいつぶりだろう。
衣織には本当に感謝しなければいけない。
そしてまた、葵が顔を出すから。
「ねー、衣織くんさ」
美来は少し、落ち着いた声を出す。
「うん」
「この前バーで会った、衣織くんの隣にいた人」
「あー。葵さん?」
食事の時から回っている酒の力を借りて言ったはいいものの、衣織からその名前を聞いて、明らかに胸が痛む。
だけどそろそろはっきりさせて収まってもらわないと。頭の中をずっと彷徨っているから。
酒の力に任せて、最高の気分に絆されて、大した勇気もないままに口を開く。
それなのに自分から聞いておいて、〝葵〟の名前は衣織の口から聞きたくなかったなんて、わがままなことを考えていた。
「あの人、誰なの?」
衣織が口を開くまでのほんの少しの間が、酒の力や最高の気分をもってしても、後悔しそうになるくらい、痛い。
「俺を飼ってるお姉さん」
〝飼ってる〟で思い出したのは、以前衣織の言った〝結婚〟についての話。
心臓がうるさいのは、絶対に酒のせいではなかった。