ダメな大人の見本的な人生

45:〝みたいな〟モノ

 美来は勢いよく立ち上がった。
 目の前で衣織に裸をさらけ出すという事実に意識を向ける間もないくらい、パニックになって。

 衣織はその様子を少し驚いた様子で見ていた。

「……結婚、してるって事?」

 当然、口にする事への葛藤はあった。しかしここまで来ては、もう知りたくないという気持ちすら通り越している。
 どうしても確認しなければいけないに決まっている。

 意を決した様に口を開く美来とは対照的に、衣織はきょとんとした顔をしている。

「結婚……?」
「この前、衣織くん。『美来さんなら飼ってもいい』みたいなこと、言ってたでしょ。衣織くんの〝飼う〟って、そういう事でしょ」

 葵と衣織は付き合っている状態。
 だけど葵は女関係を含めて衣織を自由にさせている。という状態を想像はした。

 しかし、結婚しているなんて想像もしていなかった。
 だったら大問題じゃないのか。
 いわゆる不倫という事だ。

 という事は、もしかして。

「もしかしてこの旅館に泊まるお金も、全部葵さんのお金なの?」
「だから、」
「じゃあ、なに? まさか、最終的には慰謝料を請求することが目的とか……」
「美来さん。ちょっと落ち着いてよ」

 衣織を見下ろしながら唖然としている美来とはやはり対照的で。
 衣織はいつもの様子で笑った。

「違うよ。結婚なんてしてない」

 安心していいのかわからないが、ひとまず安堵した。
 しかし、肩の力は全然抜けきらない。

 もしかしたら衣織は嘘をついているのかもしれないし、もしくは事実婚の様な形をとっているのかもしれないんだから。

「じゃあどういう……。付き合ってるの?」
「付き合ってないよ?」

 どうしてそうなるの? とでも言いたげに少し笑いながら衣織は言う。
 どうしてそうなるの? はどう考えてもこっちの方だ。

 結婚でもない、付き合っている訳でもない。だったら一体、衣織と葵の関係は何なんだ。

 いろんな感情が沸き上がってくるが、そんな事よりもここまで知ったのならもう真実を知りたいという気持ちが強かった。

「なら、姉弟とか」
「姉弟でも親戚でもないよ」

 夫婦でもない、恋人でもない。姉弟でもない。

 だったらなんだ。母親だとでもいうのか。
 あんな若い人が?
 もしかすると父親が再婚して若い奥さんをもらったから母親だけど、みたいな。

 頭の中がいろいろな可能性を模索する。
 模索するのに、コレだ! という答えは何一つ浮かばないまま。
 まるで露天風呂の中で刺激に応じて水面を移動するだけの桶みたいに、衣織の言葉で感情が掴み切れない所で揺れているみたいだ。

「じゃあ、何なの?」

 出しつくした案が頭の中を空っぽにする。
 その隙間をさっさと埋めてほしくて、美来は衣織の目を見た。

「俺の上司、みたいな人かな」

 この世の中、〝上司〟は〝上司〟だ。
 会社という組織で自分より上の立場にいる人。

 〝みたいな人〟なんて曖昧な表現は、一緒には使わない。

「あの人は会社の社長。俺はその部下」
「部下って……衣織くん大学生でしょ?」
「葵さんに声かけられたんだ」

 てっきり衣織が葵に声をかけたのだと思っていたが、葵が衣織に声をかけたのか。
 いったい何のために。

 衣織の言葉一つ一つに過剰に反応してしまう。
 二人がどういう関係なのか。不思議に思って、同時に不審に思って。
 どうしようもなく、気になってしまうから。

「大学生で開業する人に向けたセミナーみたいなのやっててさ、友達に誘われて見に行ったんだけど、そこに葵さんがいたんだよ。で、葵さんに〝私があなたを育ててみたい〟って言われて。ちょうどバイト探してたし、その時、時間は腐るほどあったから、葵さんの会社で働いてる、っていうか、いろいろ教えてもらってるんだよ」

 それは確かに〝上司〟〝みたいな人〟だ。

 ただ、普通の上司と部下は、腕を組んで歩いたりはしないが。
 そういう男女的な事も含めて衣織は葵に〝飼われている〟という認識なのだろうか。

「じゃあ結婚してたり、付き合ったりしている訳ではないのね」
「うん。そう。……風邪ひいちゃうから、ちゃんと浸かったほうがいいよ」

 衣織にそう言われて、美来は素っ裸を衣織の眼前に晒している事を本当の意味で理解した。
 急に恥ずかしくなって、温泉に勢いよく浸かる。

 明確になったはずなのに、頭の中はごちゃごちゃしすぎている。
 当然だ。結局お互いがお互いの事をどう思っているかという所まで今度は気になり始めているんだから。

「美来さんも、葵さんの事を気になったりするんだね」

 衣織は何の気もないような様子で美来に問いかける。
 その様子を見て、ほんの少し安心する。

 嫉妬なんて醜い感情を持っている女だと思われるのも、どうして嫉妬しているのかの理由を知られるのも嫌だったから。

 しかし同時に、どうして気が付かないのかという苛立ちもある。
 〝察して、って言うのは、少しわがままね〟という美妙子の言葉をまた思い出すのに、察してほしいと思っている。

 だけど、察してもらうという事はつまり、自分が好きだと認識されるというわけで。それは困るから察してもらうのはダメだし、それなら一体、どうしたらこの心のもやもやは消えるのだろう。

 どうして衣織は、葵との関係を何もない様な様子で答えられるのだろう。
 葵と一緒にいるのが、衣織の中では当たり前になりすぎているのだろうか。

 もしかすると本当に、葵と衣織はビジネス上だけの関係で。
 いや、本当にそうなら、腕を組んで歩いたりするわけがない。

 だけど美来はもし自分なら、〝好きな人〟にそんなことを聞かれたら、次から次に言い訳が頭の中に浮かぶと思っていた。

 それはまるで衣織から〝好きな人〟ではないと言われているみたいで。
 最初からわかっていたはずだ。衣織は顔以外、何も見ていなくて、顔があれば、それ以外は何も必要ないという事なんて、出会ってから数分と経たずに知った事実。

 ずっとわかっていたのに、なぜか彼氏彼女の様な立ち位置に何となく収まっていただけ。
 恋人とは根本的に、何もかも違うのに。

「どうして衣織くんは、葵さんの話をそんな平然とできるの?」

 衣織の言葉に対する適当な返事が思い浮かばなくて、美来は衣織に何の気もないような様子を装って問いかけた。

「別に隠すようなものでもないし」
「衣織くんとその、葵さんは、結局どういう関係なの?」
「だから、上司と部下みたいなモンだよ」
「〝みたい〟って、なに?」

 美来の問いかけに衣織は黙った。
 質問の意図が分かったからだと思う。

 当然、自分でも相当プライベートなことを聞いていると分かっていた。

 衣織は、明確に意味が分かっている。
 つまり〝本当はビジネスの関係だけではなくて、身体の関係もあるんでしょ〟という事だ。

「その質問には答えたくない」

 衣織は少し戯けた口調で言う。

 あっけらかんと、身体の関係はあるよ、と言い切ってくれればもう少し気は楽だったかもしれないのに。
 いや、大して変わらなかっただろう。きっと明確に現実を突きつけられて、勝手に悲しい気持ちになっていたに違いない。
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