ダメな大人の見本的な人生

47:つまり嫉妬

 この子は若さと容姿がなかったら捕まっていると思ったが、もしかすると若さと容姿がなくてもしっかり警察さんのお世話になるのかもしれない。

「めっちゃ、嫌だったから」

 どうしてそんなに、ありったけの感情を込めたみたいに嫌だと素直に言えるのだろう。

 自分の気持ちに当てはめて考えてみても何も思い浮かばない。

 衣織と出会った時の事、そして田上と別れてから衣織に攻め入られた家での出来事を思い出した。

 出会った頃の衣織は、こんなに感情が豊かだっただろうか。
 もう少し、落ち着いた雰囲気を持っていたような気がする。

 彼の中で何かしらの変化があったのかもしれない。
 しかし美来には、何が彼を変化させたのか想像もつかなかった。

 いったいいつから衣織はこんな風に、感情を大きく表に出すようになったのだろう。

 葵のおかげだろうか。
 のびのびとやりたいことをさせているから、衣織はストレスなく性格がどんどんと年相応になって行っている、とか。

 葵の事はもう、考えない様にしよう。
 せっかく衣織の説明で、少し息を潜めてくれたのだから。

 そう考えるのに、衣織と葵の関係は現在進行形で、しかもそもそも、ビジネスの関係にプラスして恋人みたいな関係って。

 何をどう計算しても、何もかも負けている。

 田上を殺したい、という衣織の爆弾発言の事を考えていたはずだったのに、いつの間にか衣織と葵の事を考えている。

「じゃあ俺も聞きたい。美来さんは、俺と葵さんを見てどう思ったの?」

 心臓が痛いくらい跳ねた。

 想定外の事に、美来は頭が回らなかった。

「どう思ったってそりゃ……そうだねえ」

 さまざまな言葉を使ってはぐらかそうと頭を働かせるが、最適な言葉も見つからなければ、何一つ思い浮かぶことすらなかった。

「……どうしてこんなところにいるんだろうって思ったかな」
「葵さんに連れられてきたんだよ。会食の後に一杯飲みたいって言うから付き合ってただけ」

 なるほど。
 〝会食〟なんていかにも経営者という感じがする。

 そして自分が衣織と同じ年齢の時〝会食〟という言葉すらおそらく知らなかっただろう。

 だからあの時衣織は、ちゃんとしたスーツを着ていたのかと納得はするものの、隣に並ぶ葵を思い出す心は消化しきれない。

「俺が聞きたいのはそういう事じゃないって、美来さん分かってるでしょ?」

 見透かす衣織の言葉に、心臓がドクリとなる。

 どうしてこんな時だけピンポイントに当ててくるんだ、と思ったが、衣織の勘の良さはいつもの事なので考えるのはやめておいた。

 衣織が聞きたいのはその時に〝どう思ったか〟という事。
 しかし答えてしまうと、境界線が決壊するのではないかという恐怖と、捨てきれないプライド。

 しかし、この場を乗り切る事ができる程ちゃんとした言い訳を考えられる脳みその容量は残っていないことに気付いて、美来は諦めのため息をつく。

「……いやだなって思った」

 どうにでもなれと、という気持ち。

 衣織は目を見開いていた。
 あれ、酔ってるのかな。聞かれた質問と別の返事したかな。と考えてみたが、やはり聞かれたことに対して真っ当に答えただけだった。

「なんで、嫌だったの?」
「別に」
「別にって何? 気になる。教えて」

 どうして食い下がってくるんだ。
 今の発言のどこの食いついたのかは知らないが、美来はこれ以上この事について話すつもりはなかった。

「もうしつこい!」

 美来が面倒だという事を全く隠さず言いながら衣織を突き放そうとすると、衣織は美来の腕を掴んで引き寄せた。

 水の中で身体同士が密着する感じが、空気中で触れ合ういつもと違うから、不思議な感覚で、美来は思わず身体をこわばらせた。

「いいよ。もう」

 冷たく突き放されているような言葉が、ほんの少し胸を刺す。
 それなのに優しく抱きしめられる身体が脳に信号を送って、〝安心しろ〟という。

 だから、頭がおかしくなりそうになる。

「美来さんが何も言わないなら、自分の都合のいいように解釈するから」

 ふてくされた子どものような声で言うから、それが途方もなく可愛いと思うから、本当に骨の髄まで染められているのではと思うくらい不安になる。

 衣織の思っている事は十中八九正解。
 しかし衣織は、本当の正解だとは思っていないのかもしれない。

「ねえ、もう上がろう」

 露天風呂から上がるだけの言葉を、そんなに色っぽくそして愛らしさを混ぜて言うのはやめてほしい。

「わたし、タバコ吸うよ」
「うん。待ってる」

 何するかわかっていて待ってるって、それはそれでエロい。
 思考が完全にそちらに行ってしまっている。

 露天風呂から出て脱衣所で身体を拭くと、下着と浴衣を身に着けた。自分の浴衣姿が見慣れない。

 衣織が脱衣所で身支度を整えている間、ウッドデッキに置いてある椅子に座って、近くに申し訳程度に置いてある灰皿を手に取ってタバコを口に咥えた。

 美来は外のまだ少し寒く感じる風を浴びながら、煙を吐きだす。

 タバコは良くも悪くも、気持ちを平均的にする。
 イライラしているときは落ち着くし、テンションが上がっているときは一息抜く手助けをする。

 だから今回も、今までの内側に籠っていた熱のようなものが、夜に溶ける気がする。

 結局分かったのは、今日衣織は別に葵と一緒に旅行に行く予定ではなかったことと、それから衣織と葵の関係もまた曖昧という事。

 ああ、嫌だな。
 これから衣織が家に来ない度に、葵の所に、と思うのか。
 しかし、もしかすると葵だけではないのかもしれない。

 これは完全に惚れているのだろうなという直感。
 どうしてこんなことに。そう思っていると、浴衣を身に着けた衣織が隣の椅子に腰かける。

「風、気持ちいいねー」

 あっさりとした様子で言う衣織に、露天風呂で体の中に籠った熱が外のまだ冷たい冷気で冷やされていく。

 その気だるさが心地よくて、いわゆる整うという感覚に、美来は極上の環境からタバコで追い打ちをかけて浸っていた。

 衣織は何の気もない様子なのに、これからきっと衣織は〝本気〟で誘いにかかってくるのだろうと思う。

 それを考えるだけでなんかエロいな、と思うのだ。
 どうして衣織はこれほど余裕があるのだろう。
 人を誘う時は普通、緊張するものじゃないか。

 もしかすると、この女はもう俺の手中だ、とか思っているとか。

 だったら心底悔しいなと思うし、思い通りになってたまるかと思うのだが、じゃあ実際抵抗できるかと言われると、一切抵抗できる気がしなかった。

 二番目の女の気持ちが痛いほどわかって嫌になる。
 いや、もしかすると衣織の中では誰も彼もが平等に一列に並んでいるのかもしれないが。

 美来はたばこの煙と共に溜息を吐き出した。

「衣織くん」
「なに?」
「葵さんとも、こういう所くるの?」

 精一杯、何の気もない様子を醸し出す。
 衣織は勘付いていないのか、今度は別に大きく反応することはなかった。

「時々、連れて行ってくれるよ」

 衣織は少しだけ間を開けて、無理に明るくしたような口調で言う。

 そうだよね。
 会社の社長ともなると、部下というか年下の衣織にお金を出させたりするわけないもん。
 そう思うと、自分のこの状況を少し情けなく思った。

 せっかく楽しかったのに、夢から目が覚めてしまった様な錯覚。
 平日の夜に楽しい夢を見て、いい所で朝の目覚まし時計で起こされてしまった様な。
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