ダメな大人の見本的な人生

48:情欲的

「私と一緒にいて、楽しい?」

 純粋な疑問だった。
 葵といる日々は刺激的だろう。
 連れて行ってくれる、という場所もきっと、一般人には想像もできない様な、想像できても手が届かない様な所に違いない。

 衣織はきっと、誰かと誰かを比較して優劣をつける子ではない。
 だけど同時系列上で関わっていて、年齢も近そうで性別も同じ。
 比較されていると思わない方が無理な話だ。

 こんな状況で〝いや、この子は私の顔が好きだからね〟と無形的な価値で納得することはさすがの美来でもできなかった。

 私と一緒にいて何が楽しいのだろうという、純粋な疑問。

「美来さんは俺の事、一緒にいて楽しくないと思っている女の人を自分から泊って帰ろうって誘う男だと思うの?」

 全く思わないから、訳が分からないんじゃないか。
 どうして顔だけの女にそこまでするのかわからないから、もしかしたら私の事が好きなのでは、なんて馬鹿げたことを考えてしまう。

 しかし衣織が本当に顔だけを好きな可能性の方が高いから。そこに何となく気が合う、というオプションが付いているだけだと思うから、こんな気持ちになる。

 だが根本的な事を言えば、一緒になる勇気もないんだから感情の答え合わせをしたって何の意味もない。

 意味もないけど、衣織を誰かにとられるのは嫌で。
 嫌だと思っているけど、どうしたらいいのかわからなくて、身動きが取れないから、苦しい。

「楽しくなかったら、旅行に誘ったりしないよ」

 衣織はもしかすると、最初から答えを期待していたわけではないのかもしれない。
 当然、と言った様子で落ち着き払っていた。

 なんだか付き合いたての高校生カップルの彼女が、彼氏に元カノ事情を詮索しているときみたいじゃないか。

 聞きたくないのに、どうしようもなく聞きたくて。
 聞くと痛いのに、次が気になって。

 こんな気持ちだった気がする。

「そっか」

 美来は消えていく煙を見ながら、ぼんやりと返事をする。

 感情の答え合わせに意味はない。
 なぜなら他の誰でもない自分に、これ以上踏み込む勇気がないんだから。

 美来は吸い終わったタバコを灰皿に押し付けた。

 喫煙者は肩身が狭い。
 建物の中で当然に吸えていたはずのタバコも、当然の様に吸えなくなった。

 今では申し訳程度に小さな灰皿がウッドデッキにぽつりと置いてあるだけ。

 木か竹かは知らないが、とにかく肌触りのいいデッキチェアに寝転ぶように体重を預けた。

 なんだか気分が乗らない。

 直接的な言い方をするなら、さっきまでの性欲がどっかに行った。

 そりゃそうだ。
 葵という逆立ちしても勝てそうにない女がちらつくんだから。

「美来さん、そっち行ってもいい?」
「いいけど……」
「けど?」
「今ちょっと、そんな気ないよ」

 オブラートに包んでいる様でほとんど何も包めていない気がするが、とりあえず伝えておく。
 どうしてもできないか、と言われるとそうでもない気がする。
 そしてこんないい所に連れてきてもらっているんだから、付き合ってあげたい気持ちもある。

 しかし引っ込んでしまったものは引っ込んでしまったし、今するとしても気分が乗らない事は確実なので、せっかくなら本気で誘いにかかってきてその気にさせてくれないかなと思っていた。

 本当にそろそろ自分が大人としてどうなのかと思ってくる。

「俺が隣に来るのはいやじゃない?」
「全然」

 美来がそう言うと、衣織は美来が寝転んでいる椅子の太もも辺りに腰を下ろした。
 デッキチェアがギシ、と控えめな音を出す。

「今日の美来さん、なんか変」

 衣織が大人びた表情で言うから

「私はいつもまともではないけどね」

 少し戯けて、そして心の底から思っている事を伝える。
 いつもよりセンチメンタルになっている気持ちを、どうしていいのかわからない気持ちを、衣織に察されるのは嫌だ。

 衣織は美来の顔の横に手を付いて、それから美来の隣に寝転んだ。
 またギジ、と木の椅子が音を鳴らした。

 始まるのかー。という、本当に大人として、というか女としてどうかと思う感想。

 衣織は美来の首元に顔を埋めると、大きく息を吸い込む。ゆっくりと息を吐くと、もう一度大きく息を吸った。
 てっきり始まるかと思ったら、全然始まらない。

「あー、ヤバい。くらくらする」

 もしかしてのぼせたのか。そう思って美来は頭を動かして衣織を見た。

 しかし想定外だ。
 衣織は美来の胸元に頬を寄せて、しっかりと美来の目を見ていた。

「俺やっぱ、美来さんのタバコの匂い、最高にすき」

 こんな夜に、〝最高にすき〟なんて紛らわしい言葉を言うのはやめてほしい。
 タバコをやめられなくなったら、この子は責任を取ってくれるのだろうか。

 衣織はそう言うと、美来に唇を重ねた。

 以前タバコを吸った後にキスをした時に、まずいとわめいていたような気がするが。
 もう慣れたのだろうか。

 やはり気分は乗り切らないまま、冷静な自分がいる。
 今日は、そんなことを考える余裕もなくなる、という予感が残念ながら微塵もしなかった。

 衣織の手が、美来の帯にかかった。

「待って」
「なに?」

 優しくそう問いかけるが、衣織が帯を解く手を止める事はない。
 するするとほどける音がする。

「中がいい」
「うん。わかった」

 衣織はそういうが、しかし全く気にする素振りも見せない。
 まさかこのままここで、と頭の中がそんなことを考えるが、美来は今日はしっかりと残っている理性で衣織に着物を脱がされる手前でも冷静さを保っていた。

「黒にしたんだ」

 衣織は美来の下着をまじまじと見ながら言う。
 冷静さを保っていたはずの美来は、一瞬でパニックに陥った。

 そしてとっさに衣織と距離を取ろうと胸を押し返す。

「もっとちゃんと見せてよ」
「見せるようなモンじゃないから!! ちょっと待って……!」
「ええー。待たないよ」

 衣織は戯けたような口調で言う。

 そういえば忘れていた。
 衣織はこの下着の色を見るのが楽しみだという変態的な思考を語っていたじゃないか。

 美来は衣織が少し離れたのをいい事に、くるりと身を返して椅子から滑り降りて、全ての荷物を置き去りにして室内に入った。

 顔は多分真っ赤だと思う。
 室内はこれまたムードのある間接照明だけ。
 もう誘っている雰囲気以外なかった。

 なんで電気をつけて露天風呂に入らなかったのだろうと後悔した。

 美来は小走りで走りながら腹部で滑り落ちそうな帯を持っている。

 しかし急に腹部に鈍い重さを感じて動きを止める。
 そして引っ張られて後ろに移動した。

「ダメだよ、逃げたら」

 衣織は垂れた帯を持っている。どうやらそれを引いて引き留めたらしい。
 もう完全に、捕食される生き物の気持ちだった。

「待って待って! 何か恥ずかしいから!」
「何で恥ずかしいんだろうね」

 衣織は全く気にしていない様子でそう言うと、美来の着物をゆっくりとはだけさせた。

「もっとちゃんと見たいのに。美来さんが選んだ下着」

 わざとやってるんだなという所に落ち着く。
 そして本気で誘いにかかってきているのだと悟る。

 どうしてこんなに急に意地悪になった?
 普段は結構優しいのに。
 衣織が近し抱き方をしたのは、田上とデートしている所を見られた時だ。
 何が彼の勘にさわったのかわからないまま、美来はただただ衣織を押し返そうとする。

「もうちょっと待ってね」

 衣織は美来の後ろから耳元でそう言うと、手を回して美来の肌と黒い下着の間に指を入れる。そして、美来の身体から少しだけ引き離した。

「すぐ、その気にさせるから」

 下腹部が疼いて、甘い予感に頭がくらくらする。
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