ダメな大人の見本的な人生
49:平々凡々な人生にむけて
もういつも通りと言っても過言ではない夜を過ごした、次の日の朝。
昨日の夜は結局すぐにその気にさせられてしまった。
その気になった結果ノリノリでしてしまった。本当に最近、大人として自分がどうかと思うときがある。
美来は動いても大して音のしない上質なベッドの上でため息を吐く。
「おはよう」
そしてご多分に漏れず、衣織は乙ゲーの相手役顔負けの完璧な容姿、完璧な角度で朝一番のご挨拶をしてくれる。
「おはよう……」
美来の頭の中には、昨日の夜散々楽しんだことが脳内で蘇る。
その記憶と衣織を横目に返事をした。
「昨日の夜は気持ちよかったね」
どんな人生を歩んだら人はこうなるのだろう。
美来は今、学者と呼ばれる人たちの気持ちがわかる気がした。
彼らはきっとこういう小さな好奇心を持ち続けて、学者という一つの事を突き詰める道を進んだに違いない。
本には一切興味がないが、もしこの子がこれまでの人生を語るエッセイか何かを出版するときが来たら、必ず買って読むと思う。
起きてしばらくしてから、衣織が電話で朝食をお願いしてくれた。
その間にもう一度露天風呂に入ろうと思っていた美来だったが、朝食はすぐにお持ちします、という事らしい。
露天風呂は食後の楽しみに取っておくことにした。
そして朝食は、本当にすぐに届いた。
米に味噌汁に焼き魚。それから小鉢。和食の朝ご飯だ。
健康的。しかもおいしい。
家ではほとんどすることのない焼き魚に身体が喜んでいる気がする。
食事をし終わると、荷物をまとめる衣織を横目に美来はもう一度露天風呂に入る為に準備をした。
結局夜はいつも通り楽しんでしまったが、昨日途中から少し下がってしまった気持ちを、露天風呂でどうにか盛り上げて帰りたい。
美来は露天風呂につかると、ゆっくりと息を吐いた。
朝の露天風呂もこれはこれで最高だ。
朝の風呂はいい。温かいし、まだ朝なのにこんな贅沢をしていいのかという気持ちになる。
露天風呂からは、室内で荷物をまとめ終わった衣織が座ってスマートフォンを触っている所が見えた。
衣織は〝いってらっしゃい〟といつも通りの様子で見送ってくれたが、一緒に入りたかっただろうと美来は予想していた。
おそらく気を使ってくれたのだろう。
今日はいつもの様に図々しく側によってきたりはしない。何となくそんな気がした。
美来は景色を見て露天風呂を味わうことも忘れて、遠くの方でガラス越しにいる衣織を見ていた。
そして衣織にばかり意識が行っていることに気が付いて溜息をつく。
これでは気分を盛り上げる所ではない。
美来は意図的にため息をついてバスタオルをひっつかんで露天風呂から出る。
歩きながら、バスタオルを身体に巻き付けた。
「ねー」
美来がウッドデッキからガラス越しにそう言うと、衣織はすぐにそれに気づき、立ち上がって引き戸を開けた。
「一緒に入らない?」
美来がそう言うと、何の用事だろうと不思議そうにしていた衣織の顔が、驚いた様子に変わった。
「……せっかくだし」
決まりが悪くなってそう言った後、美来はすぐに後ろを向いた。
「どっちでもいいけどね」
また可愛くない言葉を吐いてしまった。
そう思いながらプライドが邪魔をして訂正することもできずに、美来は後悔を抱えて露天風呂までの道を引き返した。
「入る」
一言で返事をする衣織からは、口調だけで嬉しそうな様子が伝わってきて。
ただ昨日と一緒。
一緒に風呂に入るだけの事だ。それのなにがそんなに嬉しいんだろう。
そう思うのに、美来は自分の顔にも笑顔が浮かんでいることに気付いて、ほんの少し決まりが悪い気持ちになった。
美来が露天風呂につかる頃には、衣織は走って露天風呂の方へとかけてきていた。
「水の周りではしりません」
「はーい」
衣織は元気よく返事をするが、露天風呂はもうすぐ目の前だ。
美来が露天風呂につかる間、衣織は高速で身体を洗っていた。そしてすぐに露天風呂に入る。
二人が入ると一人の時よりもずっと狭くなる。
それなのに、幸せは何倍にも増している気がして。
特別なことは何もしていない。ただ一緒にいるだけだ。
それなのにどうして衣織といると、こんなに幸せな気持ちになるのだろう。
何もかも満たされた様な。
特別なことは何もいらなくて、ただ一緒にいたいと、思う様な。
不思議だった。
女関係を洗い出すときりがなさそうだし、そして恋愛対象としてすら機能しない年下の男の子。
あっさり切り捨てれば、彼氏くらいならすぐに見つかるのに、それをしない。
最近は〝しようとする気にすらならない〟というのが正解なのかもしれない。
この子の何にこんなに惹かれるのだろう。
きっと複合的なもので。一緒にいて居心地がいい、という事だけは間違いない。
結局考えても、中途半端な所に戻ってきてしまうのだ。
「朝の露天風呂も最高だね」
衣織はいつも通りの様子でそういう。
美来は昨日の事を少し後悔した。
どれだけ大人びていても、衣織はまだ18歳なのだ。
精神的な負担だってあるだろう。
だから葵と自分との間に板挟みになるなんて可哀想だ。
まあ、衣織の自業自得と言えばそれまでかもしれないが。
美来は、気持ちよさそうに鼻歌を歌いながら昨日置きっぱなしにしていた使いまわせる水風船に温泉のお湯を溜める衣織の横顔を眺める。
昨日の夜も思ったが、やはり最初に出会った時よりも衣織の雰囲気が変わったような気がする。
もっと年相応になった。
いや、いろいろ今も年相応ではない事の方が多いが、それでも衣織は変わったと思う。
それがいいとか悪いとかそういう事ではなくて。
しかし、衣織が悪い風に変わったとは思わない。
どちらかと言えば自然体のままでいられるようになったのだろうと思う。
だからそれが葵のおかげなのであれば、今一緒にいて楽しいのも間接的には葵のおかげという事になる。
それなら感謝しなければいけないのだ。
衣織の将来の事を考えた場合。そして、衣織がどうしても年上の女性がいいという場合。葵のような人に育ててもらって、男性として一人前になるほうがいいに決まっている。
親の気持ちというのはこういうものなのかもしれないと、美来は思った。
いつか自分の手元から離れると分かっていて、愛情をあげたい、そんな気持ち。
そこまで考えて、美来は衣織の事を後ろから抱きしめた。
「美来さん?」
でもまだ、もう少しだけ。
葵には譲りたくない。
もう少しだけは、側にいたい。
「少しだけ、こうしてていい? 寒いから」
衣織の広い背中に頬を寄せた。
夜は本当に余計なことを考えてしまう。
どうせ自分には衣織の様な年下の男の子と一緒にいる勇気はない。
葵のように男性を育てられるような教養もお金もない。
自分には、ある程度納得できる様な、平々凡々な人生がお似合いなのだ。
きっと衣織はいつか葵の様に、華やかな世界を見るのだろう。
それならこんなところに引き留めておくわけにはいかない。
女は女をよく見ている。
葵を一目見て分かった。きっと、他人にも自分にも根本的には厳しい人だ。
そんな人に〝育ててみたい〟と言われる衣織は、きっと一流の女性から見て、何か光るものがあったに違いない。
やっぱり考え事は朝にすべきだ。
昨日の夜にあれだけいろいろと考えて巡り巡っていた思考が、あっさりとまとまる。
そろそろ結婚に本気で乗り出して、そのタイミングで彼との関係を終わらせなければいけない。
衣織の事が好きなら、なおさらそうすべきだ。
「美来さん」
衣織があまりにも切羽詰まったような悲しそうな声で言うから。
この気持ちを察されたのではないか。
衣織なら、それくらいの事はしそうだから。
「ん?」
美来は衣織に優しく問いかける。
これだけ〝顔がいい〟と褒めてくれて、自己肯定感を上げてくれたんだから、感謝すべきじゃないか。
「……したくなった」
「……は?」
想像の斜め上を行く衣織の言葉に、美来は思わず声を上げた。
昨日の夜は結局すぐにその気にさせられてしまった。
その気になった結果ノリノリでしてしまった。本当に最近、大人として自分がどうかと思うときがある。
美来は動いても大して音のしない上質なベッドの上でため息を吐く。
「おはよう」
そしてご多分に漏れず、衣織は乙ゲーの相手役顔負けの完璧な容姿、完璧な角度で朝一番のご挨拶をしてくれる。
「おはよう……」
美来の頭の中には、昨日の夜散々楽しんだことが脳内で蘇る。
その記憶と衣織を横目に返事をした。
「昨日の夜は気持ちよかったね」
どんな人生を歩んだら人はこうなるのだろう。
美来は今、学者と呼ばれる人たちの気持ちがわかる気がした。
彼らはきっとこういう小さな好奇心を持ち続けて、学者という一つの事を突き詰める道を進んだに違いない。
本には一切興味がないが、もしこの子がこれまでの人生を語るエッセイか何かを出版するときが来たら、必ず買って読むと思う。
起きてしばらくしてから、衣織が電話で朝食をお願いしてくれた。
その間にもう一度露天風呂に入ろうと思っていた美来だったが、朝食はすぐにお持ちします、という事らしい。
露天風呂は食後の楽しみに取っておくことにした。
そして朝食は、本当にすぐに届いた。
米に味噌汁に焼き魚。それから小鉢。和食の朝ご飯だ。
健康的。しかもおいしい。
家ではほとんどすることのない焼き魚に身体が喜んでいる気がする。
食事をし終わると、荷物をまとめる衣織を横目に美来はもう一度露天風呂に入る為に準備をした。
結局夜はいつも通り楽しんでしまったが、昨日途中から少し下がってしまった気持ちを、露天風呂でどうにか盛り上げて帰りたい。
美来は露天風呂につかると、ゆっくりと息を吐いた。
朝の露天風呂もこれはこれで最高だ。
朝の風呂はいい。温かいし、まだ朝なのにこんな贅沢をしていいのかという気持ちになる。
露天風呂からは、室内で荷物をまとめ終わった衣織が座ってスマートフォンを触っている所が見えた。
衣織は〝いってらっしゃい〟といつも通りの様子で見送ってくれたが、一緒に入りたかっただろうと美来は予想していた。
おそらく気を使ってくれたのだろう。
今日はいつもの様に図々しく側によってきたりはしない。何となくそんな気がした。
美来は景色を見て露天風呂を味わうことも忘れて、遠くの方でガラス越しにいる衣織を見ていた。
そして衣織にばかり意識が行っていることに気が付いて溜息をつく。
これでは気分を盛り上げる所ではない。
美来は意図的にため息をついてバスタオルをひっつかんで露天風呂から出る。
歩きながら、バスタオルを身体に巻き付けた。
「ねー」
美来がウッドデッキからガラス越しにそう言うと、衣織はすぐにそれに気づき、立ち上がって引き戸を開けた。
「一緒に入らない?」
美来がそう言うと、何の用事だろうと不思議そうにしていた衣織の顔が、驚いた様子に変わった。
「……せっかくだし」
決まりが悪くなってそう言った後、美来はすぐに後ろを向いた。
「どっちでもいいけどね」
また可愛くない言葉を吐いてしまった。
そう思いながらプライドが邪魔をして訂正することもできずに、美来は後悔を抱えて露天風呂までの道を引き返した。
「入る」
一言で返事をする衣織からは、口調だけで嬉しそうな様子が伝わってきて。
ただ昨日と一緒。
一緒に風呂に入るだけの事だ。それのなにがそんなに嬉しいんだろう。
そう思うのに、美来は自分の顔にも笑顔が浮かんでいることに気付いて、ほんの少し決まりが悪い気持ちになった。
美来が露天風呂につかる頃には、衣織は走って露天風呂の方へとかけてきていた。
「水の周りではしりません」
「はーい」
衣織は元気よく返事をするが、露天風呂はもうすぐ目の前だ。
美来が露天風呂につかる間、衣織は高速で身体を洗っていた。そしてすぐに露天風呂に入る。
二人が入ると一人の時よりもずっと狭くなる。
それなのに、幸せは何倍にも増している気がして。
特別なことは何もしていない。ただ一緒にいるだけだ。
それなのにどうして衣織といると、こんなに幸せな気持ちになるのだろう。
何もかも満たされた様な。
特別なことは何もいらなくて、ただ一緒にいたいと、思う様な。
不思議だった。
女関係を洗い出すときりがなさそうだし、そして恋愛対象としてすら機能しない年下の男の子。
あっさり切り捨てれば、彼氏くらいならすぐに見つかるのに、それをしない。
最近は〝しようとする気にすらならない〟というのが正解なのかもしれない。
この子の何にこんなに惹かれるのだろう。
きっと複合的なもので。一緒にいて居心地がいい、という事だけは間違いない。
結局考えても、中途半端な所に戻ってきてしまうのだ。
「朝の露天風呂も最高だね」
衣織はいつも通りの様子でそういう。
美来は昨日の事を少し後悔した。
どれだけ大人びていても、衣織はまだ18歳なのだ。
精神的な負担だってあるだろう。
だから葵と自分との間に板挟みになるなんて可哀想だ。
まあ、衣織の自業自得と言えばそれまでかもしれないが。
美来は、気持ちよさそうに鼻歌を歌いながら昨日置きっぱなしにしていた使いまわせる水風船に温泉のお湯を溜める衣織の横顔を眺める。
昨日の夜も思ったが、やはり最初に出会った時よりも衣織の雰囲気が変わったような気がする。
もっと年相応になった。
いや、いろいろ今も年相応ではない事の方が多いが、それでも衣織は変わったと思う。
それがいいとか悪いとかそういう事ではなくて。
しかし、衣織が悪い風に変わったとは思わない。
どちらかと言えば自然体のままでいられるようになったのだろうと思う。
だからそれが葵のおかげなのであれば、今一緒にいて楽しいのも間接的には葵のおかげという事になる。
それなら感謝しなければいけないのだ。
衣織の将来の事を考えた場合。そして、衣織がどうしても年上の女性がいいという場合。葵のような人に育ててもらって、男性として一人前になるほうがいいに決まっている。
親の気持ちというのはこういうものなのかもしれないと、美来は思った。
いつか自分の手元から離れると分かっていて、愛情をあげたい、そんな気持ち。
そこまで考えて、美来は衣織の事を後ろから抱きしめた。
「美来さん?」
でもまだ、もう少しだけ。
葵には譲りたくない。
もう少しだけは、側にいたい。
「少しだけ、こうしてていい? 寒いから」
衣織の広い背中に頬を寄せた。
夜は本当に余計なことを考えてしまう。
どうせ自分には衣織の様な年下の男の子と一緒にいる勇気はない。
葵のように男性を育てられるような教養もお金もない。
自分には、ある程度納得できる様な、平々凡々な人生がお似合いなのだ。
きっと衣織はいつか葵の様に、華やかな世界を見るのだろう。
それならこんなところに引き留めておくわけにはいかない。
女は女をよく見ている。
葵を一目見て分かった。きっと、他人にも自分にも根本的には厳しい人だ。
そんな人に〝育ててみたい〟と言われる衣織は、きっと一流の女性から見て、何か光るものがあったに違いない。
やっぱり考え事は朝にすべきだ。
昨日の夜にあれだけいろいろと考えて巡り巡っていた思考が、あっさりとまとまる。
そろそろ結婚に本気で乗り出して、そのタイミングで彼との関係を終わらせなければいけない。
衣織の事が好きなら、なおさらそうすべきだ。
「美来さん」
衣織があまりにも切羽詰まったような悲しそうな声で言うから。
この気持ちを察されたのではないか。
衣織なら、それくらいの事はしそうだから。
「ん?」
美来は衣織に優しく問いかける。
これだけ〝顔がいい〟と褒めてくれて、自己肯定感を上げてくれたんだから、感謝すべきじゃないか。
「……したくなった」
「……は?」
想像の斜め上を行く衣織の言葉に、美来は思わず声を上げた。