ダメな大人の見本的な人生

51:女と女

 ハルと居酒屋に行った日の次の週の金曜日。

 その間にも衣織からの連絡はないし、会う事もしていない。

 では衣織から連絡がない事が日常になったのか、と言われると、スマホを開くたびに少し期待してしまう自分もいて。

 ただ、〝衣織は元気にしているんだろうか〟と親戚の子を見守るような気持ちにもなっている。

 今の美来にとって何より怖いのは、また衣織から継続して連絡が来る事だ。
 それに慣れてしまった時、また離れるのが苦しくなってしまったら。
 そんな気持ちはあるのに、もうこのまま不必要な連絡はないのかと悲しく思う気持ちもあって。

 美来は定まらない自分の気持ちに溜息を吐き捨てて会社を出た。

 今日は団体が来るという事なので、美来はスナックみさに行くのを遠慮して家で酒を飲もうと決めていた。

 今日はもうコンビニでいろいろ買って帰ろう。
 でも、コンビニの総菜にもちょっと飽きたし、今日はコンビニの冷凍食品を試してみようかな。

「こんばんは」

 そんなことを考えていると、何のためらいもない様子で声を掛けられる。
 後ろから聞こえた女性の声に全く思い当たるところがないまま、美来はほとんど無意識に振り返った。

 自分の姿を見て硬直している美来の反応は想定内なのか。
 そこには薄く笑顔を貼り付けた副島葵がいた。

「こんばんは」

 葵はもう一度、はっきりとした口調で美来に言う。

「……こんばんは」

 やっとのことで返事をすると、葵は薄い笑顔を少しだけ濃くする。

「もしかしてと思ったもので、つい。ご迷惑でしたか」
「……いえ、別に」
「よかった。ご迷惑でなかったら、少しお話しませんか」

 一体何を話すことがあるというのか。

「ぜひ、ご馳走させてください。せっかく会えたんですから」

 何一つわからなかったが、葵の雰囲気には押し付けるような強い感じはない。
 しかし、断ること自体がそもそも選択肢に含まれていない様な。

 そして断った時の事に彼女がどんな反応をするのか、美来には全く想像できなかった。

「……はい」

 美来が返事をすると葵は柔らかい表情を浮かべた。

「よかった。お腹はすいていますか」

 一体どういうつもりなのだろう。
 話をするという事は、共通の話題。
 つまり衣織の事だろう。

 偶然会ったと思っていたが、もしかすると待ち伏せしていた、とか。

 しかし葵はもし〝待ち伏せしていたのか〟という事実確認をしたのだとしても、あっさりと白状しそうな雰囲気すらある。それの何が悪いの? と言われても、おそらくまともに返事は出来ないだろう。

 それくらいここは葵の独壇場だった。
 圧倒的で。そして恐縮させられる様なこの気持ちは、嫌い。

「いえ、あまり」
「では、軽く食べられる所にしましょう」

 そう言うと葵はあっさりと踵を返した。

 この人が、衣織の才能を伸ばそうとしている人。
 自分にも他人にも厳しそうな印象は相変わらず。 

 そして、葵の前で衣織はどんな笑顔を見せるのか。美来はそんな事ばかりが気になっていた。

 見方を変えればチャンスなのに。
 もう距離を取ると決めているのだから、何も萎縮することはない。

 衣織との関係をばっさりと切る為のチャンス。
 葵に宣言してしまえば、もしかすると葵は〝迷惑だからやめなさい〟と諭してくれるかもしれない。

 葵は美しいくらい途切れない雑談を繰り広げ、上の空で返事をしながら到着したのは、ガラス張りのおしゃれな建物だった。

 そこは居酒屋とは程遠く、カフェほど昼間の雰囲気はない。
 バーほどかしこまってもいなくて、食後に一杯気楽に飲むにはちょうどいい場所だった。

 天井は高く、壁にはいろいろなお酒が並んでいて広々としている。

 若干緊張はするものの、客の様子から店の敷居はさほど高くない事が分かる。

 〝お腹がすいていない〟というだけでこんな的確な場所をあっさりと選んでしまえるところが、葵という女性の格の高さ。
 それから、同じ女性として尊敬すると素直に思った。

 おそらく、本当に顔意外は何一つとして敵わない。
 少し関わった女でさえ惚れ惚れさせる。

「美来さん」

 席についてすぐ、落ち着かない様子の美来に葵はそう言った。
 美来は思わず少し背筋を伸ばす。

「でしたよね。お名前」
「はい……そうです」

 美来がそう言うと葵は少し安心したような表情をする。
 正直もう少し機械のような人かと思っていた。

 無駄なものは徹底的に省いて、必要のないものは切り捨てるような。
 しかしなんだか葵には人間味がある気がする。

「お決まりでしたら、ご注文をお伺いいたします」
「何か食べたいものはおありですか」
「……食べたいもの」

 葵にそう聞かれて、美来はメニュー表に視線を移す。
 しかし、突然そう問われた頭は若干パニックになっていた。

「もし特になければ、私が適当に頼んでも?」
「はい、お願いします」

 正直に言うと、助かった、と思った。

 葵はメニュー表を開くと、あらかじめ決めていたのではないかと思うくらいすぐに注文を始める。

 まさに即断即決。
 この場所には何度も来ていて慣れているのかもしれない。


「ありがとうございます」
「いえいえ」

 ウェイターがその場を去った後、お礼を言った美来に対して笑顔の葵が黙ったことによって、二人の間には沈黙が走る。

 その沈黙が痛いと思っているのはおそらく自分だけなのだろうという事が美来にはわかっていた。

「美来さんは本当に綺麗な方ですね」

 葵の言葉に美来は水を飲もうと思っていた手を止めて思わず背筋を伸ばした。
 それがどういう意味で言っているのか、わからないから。

 ただ知らない女性に手放しでほめられる感覚は、まるで中身を探られているみたいで。

「いえ……そんな、」
「衣織くんの言う通り」

 はっきりと言い切る様な口調に、美来は思わず押し黙った。

 やはり今日誘ってきたのは衣織が関係する話なのか。
 そう思った美来は黙って葵の次の言葉を待っていた。

「それだけお美しいと、引く手あまただったでしょう」

 頼むから無意識でも〝だった〟なんて過去形にするのはやめてくれよ。
 自分だって三十くらいから女の価値が揺らぐ感覚が分かるでしょ? と思った美来だったが、葵は何も言わない美来を気にすることもなく手元の水を一口口に含んだ。

「どうして衣織くんと?」

 肝心なところを綺麗に隠して葵は言う。

 葵は自分と衣織との関係をどこまで知っているのだろうか。
 もしかすると、何も知らない、とか。

 しかしもし自分が葵の立場だったとして、何も聞かされていなかったとしても最低限の勘は働く。
 それが女という生き物だ。

 自分が見込んで育てようと思った男の事なら尚の事だ。

 付き合ったり、結婚したり。そんな関係ではない。
 それなのに葵は、二人の関係から比べると行きずりと言っても過言ではない女が気になるらしい。

「なりゆきです」
「綺麗だと言われることが嬉しくて、そばに置いているんですか」

 美来の言葉にかぶせる様に、葵は言う。
 これは波乱の幕開けだと思った。
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