ダメな大人の見本的な人生

52:賭け事

 絶対にちょっと一杯酒を飲んで帰ろうという雰囲気の店の中でする話ではない。
 客と客の距離が離れている事が救いだった。

 〝綺麗だと言われる事が嬉しくて、そばに置いているんですか〟
 と言われても。そもそも最初に関わってきたのは衣織の方で。

 一方的にお前が悪い、とでも言いたげな葵の様子にすっかり息を潜めていた負けず嫌いがほんの少し顔を出した。

 しかしもしかすると葵は馴れ初めを、というか関係性を含めて何も知らないのかもしれない。

「どういう意味ですか?」
「そのままの意味です」

 美来の明らかに敵意を持った一言に、葵はあっさりとした様子で返事をする。
 何を勘違いしているのか知らないが、迷惑な話だ。

「……葵さんは私から衣織くんにちょっかいをかけたとでも思っているんですか」
「いえ、まさか」

 はっきりとした口調に拍子抜けしたのは美来の方だった。
 てっきり最初から最後までお前が悪いと言われているのだとばかり思っていた。

「じゃあ……何が言いたいの?」
「きっかけは衣織くんからなのだとしても、線引きをするのは大人の務めなのではないでしょうか」

 美来は思わず押し黙った。
 全くもってその通り。
 ぐうの音も出ないというのは、まさにこの事だ。

「二人が関わりを持ち始めたのは、衣織くんの責任。だけど現状は衣織くんだけの責任ではありませんよ。あなたが衣織くんとの関りの中で〝断らない方〟を選んでいるんですから」

 葵の選ぶ言葉が、グサグサと何の遠慮もなく胸の中に刺さる。

 わかっている。
 言われなくても、そんな事。

 だけどみんながみんな、自分の責任を真正面から見つめて対処できるほど心に余裕があるわけではないじゃないかなんて、言い訳の様な言葉ばかりが頭の中に浮かんでくる。

「私はね、美来さん。衣織くんのファンなんです」

 そう言う葵は、例えばすまるくんを推す実柚里の様なテンションでは決してない。

 あくまで淡々と、現状の説明をしているだけ。
 美来にはこの淡々とした葵の感じが、イメージしている彼女と一致していた。

「衣織くんには才能がある。私は、彼が一流の男性になるところが見たい。衣織くんはそれに付き合ってくれているんです。だから衣織くんと一緒にいるのは、彼の為になることを選ぶのは、私の自己満足」

 お金があり、精神的な余裕がある。
 だから一から自分好みの男に育てる。

 それはきっと、経営者という特殊な立場からしてみても、〝普通〟ではないだろう。
 しかし葵には何の迷いもとまどいもない様子に見える。

 やはり葵には、自分に対する圧倒的な信頼と自信があるのだろうと思った。

 美来は今日葵が言った言葉の何一つ、まともに言ってのける自信がなかった。

 本当に何もかもが違う。
 わかっているから、敵わないと思うのだ。

「……でも正直、見返りを求めていないと言ったら、嘘になるかもしれない」

 少しだけ声のトーンを落として言う葵は少し俯いて、悲し気な表情をしている。

 精神的に強そうな彼女もこんな表情をするのか。
 そう思ったのは一瞬の事で、彼女のペースに巻き込まれない様に、美来はゆっくりと息を吐く。

「葵さんは、その……衣織くんの事が好きで、そばに置いているんですか」
「何の理由もないまま、誰かのそばにはいられないと思いませんか」

 葵はそう言うと、まっすぐに美来の事を見た。

「私は衣織くんとの将来も考えている。何より彼に、立派な人になってほしい。私はそれを見たい。その隣にいたい。彼が欲しいというものは何でも与えてあげたいし、何でも経験させてあげたい」

 葵からは真摯な思いが伝わってくる。
 伝わってくるから、どうしていいのかわからなかった。

「どうですか、美来さん」

 凛とした声で言うから、てっきりまた真っ直ぐな目で見つめられているとばかり思っていたのに。

「美来さんの思いと私の想いは、一緒ですか」

 葵は悲痛な表情を浮かべていた。

 美来はどんな返事をしたらいいのか、全く分からなかった。

 衣織の成長を願っていて、そのためなら自分の持っているもの全てを差し出して。それでいて、将来を見ている。

 葵と自分の気持ちが一緒だとは、到底思えない。
 浮ついた考えで遊ぶ関係とは、雲泥の差があることは明らかだった。

「だけど結局私は、衣織くんを縛りたくない。自由でいてほしいと思っています。人間はストレスのある窮屈な環境では、本当の力を発揮できない」

 葵がそう言い終わってすぐ、食事が運ばれてくる。
 種類の違う生ハムを詰め合わせた美味しそうなオードブル。
 クラッカーにクリームチーズ、たまごとブロッコリーのサラダ。その他いくつか。

 これだけ重い話をした後に食事。
 美味しそうだとは思うが、全く食事をしようという気にはならない。

「もしも美来さんが衣織くんとの関係に白黒つける材料が欲しいなら――」

 美来はテーブルに並んだ食事から、再び葵に視線を移した。

「――衣織くんに言ってみたらどうですか。〝葵さんとの関係を持つのはもうやめて〟って」

 美来は思わず目を見開いた。

 どういう意味で、葵は言っているのか。
 美来には皆目見当もつかなかった。

 しかし葵には勝算があると、自分が選ばれるに決まっているとでも言いたげな様子だった。

「何でここに、美来さんがいるの?」

 聞きなれた声に、美来はゆっくりと視線を移した。

 衣織はこの前とは違った、質のいいスーツを身にまとっている。

 衣織は葵の側にいる時、どんな笑い方をするのだろう。
 どんな気持ちになるのだろう。
 葵の側にいる時も、彼は自分の事を思い出してくれるのだろうか。

 そんなことばかりを考えている。

 衣織は葵に視線を向けていた。
 どこか少し、怒っているようにも見える。

 どうして衣織がここに。

 しかしそう思っているのは、美来だけの様子で。
 どうやら葵は、ここに衣織が来ることを知っていたみたいだ。

「二人で食事でもしようかと思って」
「どうして二人で食事をする必要があるの?」
「興味があったから」

 淡々という衣織に、淡々と返事をする葵。

「衣織くん。食事のあとは、美来さんを家まで送ってあげてね」

 そう言いながら立ち上がると、葵は衣織の横を通って席を立った。

 まだ一口も料理に口をつけていないまま。

 衣織は葵の事を視線で追っている。
 なんだかいつもよりも、はっきりとした印象がある。

 大人びた雰囲気。
 スーツだからだろうか。
 それとも単純に、葵に対する衣織の態度が、いつもとは違う様子を見せているのだろうか。

 葵が去った後、当然二人の間には沈黙が走る。

 衣織はゆっくりと息を吐き切ると、葵が座っていた場所に腰を下ろした。

「何もされてない?」

 衣織にそう言われて、美来は弾かれたように顔を上げた。

 衣織は心配そうに少し眉を潜めている。
 それなのに、凛とした強さがあった。

 その様子に、胸がときめいたことは事実。

 本当に、心配されているみたいで。

 まるで、守られているみたいで。

 こんな年下の子どもに、一体何を。

「別に、なにも」
「そっか。よかった」

 衣織はゆっくりと肩の力を抜き、息を吐き捨てて背もたれに深く沈んだ。

「葵さんに呼ばれてきたの?」
「そう」

 出会ってから一度も、葵がスマホを触っている様子はなかった。
 やはり、待ち伏せをしていたのか。

 ――衣織くんに言ってみたらどうですか。〝葵さんとの関係を持つのはもうやめて〟って

 その言葉を植え付けるためにだけに待ち伏せしていたのなら、葵の計画は大成功だ。
 もし衣織にそう言ったら、彼は何というのだろう。

 距離をとろうとしていたというのに、頭の中ではもう、そんな事ばかりを考えている。

「とりあえず食べよ」

 衣織はそういうと、運ばれてきた食事に口をつけた。
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