ダメな大人の見本的な人生

53:純愛の展開

 食べよう、と言って口をつける割に、衣織は別にお腹がすいている様子でも、味を楽しんでいる様子でもない。

 事務的なまでに淡々と、テーブルに並んでいる食事に口をつけていた。

 頼んでおいて口をつけずに帰るのもお店に申し訳ない。
 そんなに量はないが、一人で食べるとお腹がいっぱいになってしまう絶妙な量。

 だから美来も衣織と同様に食事に口をつけた。

 味は文句なしに美味しい。
 酒に合うように付けられた濃いめの味付けにリラックススイッチが入ったのか。それとも、お腹にものを入れたからなのか。
 どっと襲ってきた疲れがほんの少しだけ気がゆるむ感覚がする。

 美来は衣織を盗み見た。
 彼は美来の方を見る事もなく、淡々と食事を進めている。

 さっきまで心配してくれた様子は、まるでなかったみたい。
 はっと我に返って、気の狂ったことを考えていたことに恐怖した。

 どうしてこんなことを考えているんだろう。
 徐々に距離を取ろうと思った相手に。

 美来は食欲のないまま、しかし全くお腹に入らない訳ではなかったので、衣織同様に淡々と食事を口に運んでいった。

 ――衣織くんに言ってみたらどうですか。〝葵さんとの関係を持つのはもうやめて〟って

 その言葉が何度も何度もよぎるから、勘弁してほしい。

 もしも、もしもそう言った場合、衣織はどんな反応をするのだろう。

 その時、葵を選んだら……。

 しかし自分を選んだとして。
 その責任を取る度胸は自分にはないんだから、選んでもらったって困るという話なのだ。

 聞いても誰一人得をしない質問。
 それなのに気になって仕方がない。

 だけど、本当に距離を取るつもりなら、賭けてみる価値のある質問だ。

 だからそもそも、聞く勇気を持てない事が問題な訳で。

 衣織の人生に対して責任はとれない。
 葵という女性がいるんだから、彼女に任せていればきっと彼は一流の男性になれる。

 きっといつか、葵の隣がよく似あう様な人に。

 しかし頭の中で葵の隣にいる衣織を描くのは、悔しい気持ちがして。
 渡したくないなんて、バカげたことを思っている。

 しかしこれは恋愛感情ではないと、美来は自分自身に言い聞かせ続けた。

 これは親が手のかかる子どもを見守る感覚に近しいものに決まっているのだ。
 恋愛感情じゃない。
 そんなはずはない。

 それなのに、それだけではスッキリとしない気持ちに、今すぐ名前と返事が欲しい。

「美来さん、大丈夫?」

 衣織にそう聞かれてはっと我に返った美来は、いつの間にか自分が深く考えている事を自覚した。

「うん。別に」
「食欲がないなら、無理しないで」

 どこか心配そうな衣織の顔。
 彼の雰囲気はやはりいつもとは少し違う。

 まともな大人のような。

 いつもの衣織とは違う。
 時々見せる〝大人びた様子〟とも、違っている。

 まるで繊細に、細部まで作り込んでいるのではないかと思うくらい、大人。
 衣織があまりにも、いつもとは違う様子だから。

「衣織くん、無理してる?」

 そう言うと衣織はほんの少しだけ目を見開いた。

 当たり、なのだろうか。
 基本的につかみどころのない衣織の、深い部分に触れている気がして。

 しかし衣織は、驚いた表情から落ち着きを取り戻した様子で返事をした。

「……なんで?」
「だって、いつもと違うから」

 美来がそう言うと、衣織は少し安心したように笑った。
 やっぱり表情が、いつもよりも大人びているから。

 まるで本当に何のしがらみもなく、対等になった気がしてしまう。

「そうかな。俺、違う? ……少し、気を張ってたのかも。美来さんに何かあったんじゃないかって思ったから」

 顔だけが好きな女に、ここまで心配をしてくれる。

 美来は衣織を見ながら、明らかに複雑になった気持ちを抱えていた。
 これから距離を取っていこうと思っていたのに、頭の中には衣織がいて。

 頭の中から出て行ってくれそうな予感がしないから。

「私は平気だよ」

 美来がそう言うと、衣織は曖昧な笑顔を浮かべた。

「葵さんに、何言われたの?」
「別に、何も」

 本気で騙すつもりで言う美来を、衣織はじっと見ていた。

「衣織くん、来るの早かったから」

 美来が付け足すと、衣織は「そっか」と返事をする。

 もしかすると何かあった事を見透かして気を使ったのかもしれないし、本当に何も気づかないままなのかもしれない。

 よく知る衣織だったら、彼が今何を思っているのかあらかた想像がついたのかもしれない。

 しかし今の衣織が本当はどう感じているのか、一つも理解できないどころか、想像を働かせる事すらできなかった。

 二人は会話を楽しむこともせず、食事をとり終えるとさっさと外に出た。

 段々とぬるくなってきた夜の風が、これから来る季節を告げ去っていく。

「一人で帰れるよ」
「家まで送る」

 これは今までの衣織と同じ反応だ。
 衣織なら絶対に家まで送ってくれると分かっていた。

 でも今は、
 〝葵さんに言われたから?〟
 そんな意地悪な言葉が喉元まで出かかって、すぐ消えた。

 何の意味もない。
 そんなことを言ったって。
 何の意味もないのに。

 葵よりも自分が上にいたらいいのになんて、汚い事を考えている。

 自分に何一つメリットがないこんな感情を、やり場のない感情を、一体どうすればいい。

「ありがとう」

 美来は返事をした後で、今日の自分が相当疲れている事を知った。

 今日はこれ以上、刺激になるようなものを頭の中に入れたくない。

 疲れてしまうから。
 感情がいろんなところに大きく揺れて。

 結婚するつもりのない相手を、幸せにできないと分かっている相手に、いちいち翻弄されることが。

「ねえ、美来さん。今度また、どこかにでかけようよ」

 いつもより、ずっと落ち着いた口調。
 もしかすると衣織はもうそんな気がない事を知っていて言っているのかもしれないし、今はただ疲れているだけなのかもしれない。

「うん。そうだね」

 それに差し障りのない返事をする。

 正直、取り繕う余裕もない。
 こればかりは、衣織が何も気付いていなければいいのにと祈った。

「ちょっと待ってて」

 衣織はそういってコンビニの中に入っていった。

 美来はそれを視線で追った後、なぜかプツリと糸が切れたみたいに思った。

 もう今日、この瞬間で、終わりにしよう。
 今ならきっと後腐れなく終わらせることができるはずだ。

 美来はコンビニから足早に去った。

 最低だという事は、自覚済み。
 何も言わずに去るなんて、本当にどうかしていると思う。

 だけどそれ以上に、今のまとまった感情を殺せないと思った。

 追いつかれないようにしないと。
 そう思えば思う程、美来の足は速くなる。

 今なら、まとまった感情を昇華できる。今日失敗してしまったらもう、勇気が出ないかもしれない。

 きっと衣織は勘付く。
 彼は追いかけてくるかもしれない。
 いや、もしかすると決心を察して追いかけてこないかもしれない。

 何か言われることがあれば、その時に言えばいい。
 もう関わるのはやめにしよう、って。

 私よりもっといい人がいると心から思う日が来るなんて思ってもいなかった。

 どう考えても、葵といる方が衣織には未来がある。

 そう思うと鼻の先をツンと刺す痛みが来て。覚えのある痛みは、涙を連れてこようとする。

 姑息な自分に嫌気がさしながらも、こうするしかなかったと言い訳をしながら、美来は自分の部屋のドアを開けた。

 いつか読んだ純愛の少女漫画に出てくる男の子はこんな時、息を切らしながら走ってきてくれて、ヒロインを問いただして誤解を解いていた。

 まさかそんな、幼稚な展開を期待しているなんて、本当に最近、どうかしている。
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