ダメな大人の見本的な人生

54:頭の中の天使と悪魔いわく

「逃げると思った」

 あともう一歩を踏み出して、後ろでドアが閉まるはずだったのに。

 すぐに後ろから聞こえた、押し殺した何かしらの感情がある衣織の声に、美来の思考は、すぐに停止した。

「美来さんの嘘つき」

 少し不貞腐れた口調で言う今の衣織は、おそらくいつも通りの衣織。
 それにしては、いろいろな感情が含まれている気もするが。

 何もかも繊細に作り上げたような、大人の彼とは違う。
 そしてこれは、少女漫画の展開、とも少し違っている。

「何も言われてないなんて、嘘じゃん」

 衣織の言葉に何一つ返事ができなかった。
 ほんの少し期待した展開、と言えばその通り。

 しかし美来は、分かりやすくパニックになっていた。

 今回は完全に、自分の思い通りだとばかり思っていたのに、〝嘘つき〟なんて、まるで衣織が何もかもをわかっていたみたいに言うから。

 自分が判断を下したとばかり思っていたのに、衣織の思い通りだったのだろう。

 もしかして、コンビニの中に入ったのは、話をするために衣織がまいた種だったのだろうか。

 どれがどちらの過失で故意なのか。その割合はどれくらいか。
 そんな事ばかりが頭の中に浮かんでいる。

「葵さんに、なんて言われたの?」

 衣織の身体に押されて踏み入れた部屋の中。
 彼の後ろでバタンと音を立てて玄関のドアが閉まる。空気の通る音さえかすめない部屋の中で初めて、外の世界と部屋の中が完全に隔てたれたのだと、感覚で理解する。

「なんで」

 煮え切らない言葉しか思い浮かばない美来に、衣織は表情を変えずに口を開いた。

「俺、美来さんの事よく見てるって、前にもそう言ったよ」

 服にビールをこぼした時、気付かれていないと思っていた美来に、衣織は確かにそう言った。

「美来さんこそ、いつもの美来さんじゃない」

 衣織はそう言うと背を向けている美来の肩に優しく触れて、それから自分の方向へ美来を向けるように誘導する。

「美来さん。俺、そんなに頼りないかな」

 それから、美来の頬に触れた。

「美来さんの見ている俺って、まともに話一つ聞けない子ども?」

 〝子ども〟
 確かに衣織は、子どもだ。
 短絡的な所とか、突発的な所とか。
 いろんなところが、大人とは違う。

 しかし今回の事に限っては、そういう問題じゃない。

 衣織は何も悪くない事はよく変わっていた。
 しいて言うのなら、悪いのは自分の方だという事も。

 世間体が気になる。歳の差が気になる。
 だから、心の底から楽しんで一緒にはいられない。

 だけど、葵ならその全てを自分なりに解決して、側にいる事ができる。

 これは心の強さの問題と、それから、今まで作り上げてきた生活環境の問題。

 全部わかっている。
 もう勢いに任せて突き放した方がお互いに楽だという事もわかっているのに、こうやって暴いてくれたことが嬉しいなんて思っている。

 どうしてこんな気持ちになるのだろう。
 どうしてこんな風に、気持ちが揺れるのだろう。

 泣いてしまいそうになるから、そんな優しい声で問いかけをするのはやめてほしい。

「衣織くんは、何も悪くない」
「俺が聞きたいのは、そんな言葉じゃない」
「……言いたくない、何も」
「でも俺は、聞きたいよ」

 暴いてくれたことが嬉しいなんて思っていたのに、こう問い詰められると、やっぱり放っておいてくれた方がよかったと思う。

 一体だれが原因だと思って。

 言っても解決しない言葉ばかりが、次々に頭の中に浮かんでくる。

 それなのに、やっぱりまだ嬉しい。

 自分の内側から相対する感情が次から次に湧き上がってくるから、今日はまともに話ができそうにない。

「今日は帰って」
「じゃあ、いつならいい?」

 やっと吐き出した言葉に、衣織は間髪入れずに返事をする。

「せめて約束して帰らせてよ。そうじゃないと美来さん、もう俺に会ってくれないから」

 そこまでわかっているなら、どうして追いかけてきたの。

 どんなつもりで。
 まさか、顔がいいだけの女と将来を考えているとか、バカげたことを言いだすのではないか。
 しかし、〝飼ってもいい〟という衣織の様子からすれば、何もおかしなことではない訳で。

「連絡もしないくせに、都合よく予定押さえて行こうとしないで」

 いったい自分は今、何を言っているのだろう。
 思ってもいなかった、必死に現状を処理するだけの頭の中をかすりもしていなかったはずの言葉が、口から飛び出してくる。

 自分の内側にある(おり)が、ドロリと粘着質な音を響かせて出てきた瞬間だった。

 とっさに自分から出てきた言葉に後悔して、それから、これ以上一緒にいるとまずいと、本気で思った。

「……俺からの連絡、迷惑なんだと思ってた」

 言ってしまった、そう思ってすぐ、衣織は現状を確かめるようにぽつりと言う。

「お願いだから、もう帰って」
「帰れないよ」

 衣織はそう言うと美来の肩を掴んだ。

「泣きそうな美来さんおいて、帰りたくない」

 どう考えても、いままで散々女を泣かしてきた男が言う事ではない。

 わがままだ。
 子どもの衣織に向けた言葉がいくつも思い浮かぶのに、それなのに心の内側がぽっと灯る様な。

 とても人様の前では口にできないようなことを何度もしておいて。
 つまり、〝大人〟を体現したようなことをいくつもしてきたのに。

 急に優しく、甘い恋人の様にされても困る。
 困るのに、嬉しいから、さらに困るのだ。

「もしかして美来さん、俺からの連絡待ってた?」

 衣織は確認するように言う。
 しかし美来は、それに何か答えられるはずがなかった。

「待ってない」
「じゃあ俺、今、期待させられただけ?」

 その言葉に、一気に頭に血が上る。

「〝期待〟ってなに……?」

 落ち着けと、自分に言い聞かせているのに。
 身体が熱くなる。地に足をつけているのかも、分からなくなるくらい。

 いったいどの面を下げて。
 落ち着け、落ち着け。

 よくある脳内の天使と悪魔の様に。
 並行したところで、違う自分が同時にものをいう。

「遊園地に行った帰りに」

 口にし始めると止まりそうになかった。

 引き返せなくなるから、絶対に口にするなと理性はそういうのに、もっと深い心の内側が、もうどうなっても構わないから、全部吐き出してしまいたいと言っている。

 本当につらくて。
 本当につらいのに、聞いてほしくて。
 聞いてくれた後、弁解してほしくてたまらなくなる。

 そんな感情を持っている自分が、嫌い。

「コンビニの前で衣織くんと葵さんが腕を組んで歩いているのを見た」

 美来がそう言うと衣織はただ、じっと黙って聞いていた。

「どういうつもりで……。それなのに帰りたくないって……。何の気もない顔をして私の前にいられるって、何を考えてるの?」

 今の感情と、あの時の感情が、行ったり来たり交差する。
 それなのにそばにある感情は何一つ交わらないまま、まとまりのないまま、何も悪くない衣織に対する、完全な八つ当たり。

 遊園地の後にも何度も会った。旅行にだって行った。

 それなのに今更こんなことを言い出すなんて、散々衣織と一線を引いてきた〝大人〟のする事であるはずがない。
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