ダメな大人の見本的な人生

55:なにもかも想定外

「見てたんだ」

 衣織に焦っている様子はなく、ただ平たん。いつも通りだった。

 美来は衣織に返事をしなかった。
 口を開けば、衣織を否定する言葉ばかりが口をついて出ると分かっていたから。

 残った理性で、自分が衣織にそんな口がきける立場ではない事を、順序を追って言い聞かせている。

 無言を肯定と受け取ったのか。衣織はゆっくりと、溜息とはまた違った息を吐き切る。

「美来さんの言う通り。遊園地の後、葵さんと会ってた」

 衣織はまた、平たんな口調で言う。

「それが悪いことだって、今言われるまで少しも思ってなかった。美来さんが気にするなんて事も、少しも考えなかった」

 美来は思わず押し黙った。
 そこまではっきりと言われてしまうと、次になんと返事をしたらいいのかもわからない。

「だから、ごめんなさい」

 衣織はしっかりと丁寧に、美来に向かって頭を下げた。

 きっと気にしないのだろうと思わせていたのは他の誰でもない自分だという事に、美来はもう気付いていた。

 それくらい衣織の事をテキトーに扱ってきたのは、他の誰でもない。

「でも、今もわからない」

 顔を上げながら言う衣織の言葉の本質は、大して頭の中に入ってきてはいなかった。

 女関係は何でも彼の手中なのだとばかり思っていたが、彼にもわからない事があるのだと。美来は衣織がこれから言い出す事を予測する事もなく、他人事のように考えていた。

「どうして美来さんは、葵さんと俺が腕を組んで歩いていたことを気にするの?」

 麻痺した脳みそが見せていた単調な世界から、急降下。

 心臓がうるさく跳ね続けて、変な汗が背中をしめらせる。

 おそらく脳みそは、今までの衣織とのやりとりで、彼が曲がった解釈をし続けた事実をいいことに、気を抜いていたのだと思う。

「別に、気にしてないから」
「気にしてないなら、わざわざ聞くはずないよ」

 衣織の断定する言い方に、これ以上言い逃れできないと、退路が断たれた気がして。

「ねえ、どういう事?」

 衣織は何の嫌味もなく、かといって詰め寄る様子もなく。美来にそう問いかける。

「少しくらいは、期待していいって事?」

 少しの期待。
 衣織の言う〝期待〟とは、一体どんなことを言うのだろう。

 誰かと結婚しない事? それとも、自分と結婚する事? もしくはこの関係が続くこと? あるいは自分と付き合う事?

 何一つ想像がつかない。
 彼が一体、顔が好きなだけの女に何を望んでいるのか。少なくともその前提条件の上では、何一つ。

「衣織くんの言う期待って、なんなの?」
「美来さんと一緒にいる事」
「衣織くんにとって私は顔がいいだけの女で、退屈な時間を埋めるための一つなんでしょ?」
「違うよ」

 美来の言葉に、衣織は焦りもせずはっきりと否定する。

 あまりにも当然のように言うから、また身を引く気持ちになったのは美来の方だった。

「美来さんは本当に、自分が俺の中で〝退屈な時間を埋める為の一つ〟って思ってるの?」

 衣織はやはり何の感情もない様子で、淡々と美来にそう問いかける。
 怖いくらい、冷静。

 いつも笑顔を浮かべている衣織とは、雰囲気が違っていた。

「違うなら、何なの?」

 ややこしくなると分かっているのに。
 自分にとっていい事は一つもないって、分かっているのに。

 それなのに止まらない

 本当に勘弁してほしいと思った。
 どうしたらいいのだろう。
 どうしたら余計なことを言わないで済むのだろう。

「俺は、美来さんが好きだよ」

 自分で自分を制御できなかった末路がこれだと、明確な言葉ではなく鋭い感覚で思う。

 あまりにも直球に、衣織が言うから。
 息も言葉も、喉元で詰まって、吐き出すことも吸い込むことさえもできない。

 一体この子は何を言い出すのだろう。
 以前にも思った。もしかすると若い子の〝好き〟というのは、価値が薄いものなのかもしれないと。

 そうでなければ、話が分からなくなってくる。

「……顔が、って事でしょ?」
「顔も好きだよ。大好き」

 やはり衣織は、淡々とそう言う。
 しかしその口調にはどこか、噛みしめる様な感情があって。

「だけど、そうじゃない」
「俺は、美来さんと将来を考えたいくらい、好きって事」

 自分で聞いておいて、後悔した。
 だから言わなければよかったのに、と頭の内側で、無責任な悪魔がそういう。

「でも、俺の〝好き〟が、美来さんにとって迷惑なのもわかってるよ」

 衣織は淡々と、傷ついている様子も何もなく。

「だから俺は、美来さんと一緒にいられるだけでいいって、今は本気でそう思ってる。将来とか、そういうのはいらないから、美来さんと一緒にいたい。……連絡だってそうだよ。美来さんからまともに返事が返ってきた事ないから、あんまりしつこく連絡すると、嫌われるって、この関係が終わるんだろうって思って。俺なりに考えた」

 衣織にも誰かから〝嫌われるかもしれない〟と言った繊細な感情が働くのかと、他人事の様に心のどこかで考える。

 どうしてここまで素直に口にすることができるのだろう。

「美来さん、俺。何もかも望んでいる訳じゃないよ」

 衣織が暗い感情の一切にフタをして、少し明るい声を選んでいる事は、何となくわかった。

「一緒にいたいって、ダメな事?」

 それからほんの少し切羽詰まった声で、衣織が言うから。

「これって、子どものわがままなの?」

 自分が何もかもを口にさせておいて、責任一つとれない無責任な人間であることを悔いて、それから恥じた。

 放心状態の中、とんでもない事をしてしまった自覚だけが、ぽつりと胸の中にある。

「迷惑なら迷惑って、はっきりそう言ったらいいよ」

 〝迷惑〟。
 確かに最初は迷惑だった。迷惑で迷惑で仕方がなかった。

 当然だ。十代の男の価値と、三十間近の女の価値を一緒にしていて、お付き合いを阻害するなんて、迷惑行為も甚だしい。

 それなのにいつの間にか、一緒にいる事が楽しくなった。
 忘れていたことを思い出させてくれて、ありのままでいる事を許してくれる衣織の側にいる事が、心地よかった。

「俺、まだあきらめてないから」

 衣織はそう言うと、ゆっくりと息を吐いた。

「これからも美来さんに彼氏ができるのは嫌だし、結婚するなんて、論外だから」
「私に、そんな価値はないよ」
「そんな価値があるかどうかは、美来さんじゃなくて、俺が決めるんだよ」

 衣織はあっさりとそう言ってのける。
 それが嬉しくて。
 それなのに、答えてあげられない事が、複雑で。

 気まずさのない沈黙が続いた後、衣織はゆっくりと美来の事を引き寄せて、それから抱きしめた。

「……付き合うとか結婚とか、そんな名前のある関係じゃなくてもいいから。俺の事、男としてみてよ、美来さん」

 胸が締め付けられる思いがする。

 衣織はいつも、他の人とは違うと思っていた。
 だけど今、衣織を自分と同じ人間として見て考えてみると、きっと、勇気が必要だっただろうと思う。

 途方もない勇気が必要だったに違いない。
 それなのに、はっきりと自分の気持ちを口にしてくれる。

 自分とは、大違いで。

 だからその気持ちに応えたいと思う。
 だけどやっぱり、世間体が邪魔をして、決断することが出来ない。

 ――衣織くんに言ってみたらどうですか。〝葵さんとの関係を持つのはもうやめて〟って

 頭の中で葵がそういうから。
 本当に勘弁してほしい。

「ねえ、衣織くん」

 関係って一体、どんな関係なんだろう。

 もしも。葵との関係が切れて、私だけを見てくれるなら、とりあえず〝付き合う〟とか、そんな名前のある関係になってもいいのかも。

「葵さんと関係を持つのは、もうやめて」

 彼女の言った言葉を頭の中でなぞりながら、衣織に言う。

 衣織はどんな返事をするのだろう。 
 その返答は、何となく想像がつく気がして。

「ごめん、美来さん」

 衣織の放った一言は

「できない」

 巡っていたどんな想像とも、違う言葉。
< 56 / 103 >

この作品をシェア

pagetop