ダメな大人の見本的な人生

56:そそのかして

 幸も不幸もない、ただただ平坦な心の内側。
 じめじめした低い所で凪いでいるみたいに。

 本当に想定外の事があった時には頭が真っ白になるというが、これか。と、意識の外側でぼんやりとそんなことを思った。

 先ほどまでひっきりなしに連鎖して生まれていた感情が、ピタリと止まっている。
 だから、心の内側に何か新しい感情を持ってはいなかった。

「俺はあの場所でやっと、息ができたから」

 衣織は真剣な様子でそういう。

 〝あの場所〟というのは、葵の側、というわけではなく葵の会社の事を言っているのだろうか。

 だから関係を持つことをやめられない。

 それだけ言うのなら、自分とではなくて葵と一緒になる決心をした方が絶対に事はうまくいく。

 それなのにどうして、衣織はわざわざ〝好きだ〟というのか。
 もしかすると期待させられたのは自分の方なのではないか。
 また、自惚れていただけなのではないか。

 しかしさっき衣織は〝好き〟と言ったわけで。

 受け入れてほしかったのだろうな、という所に落ち着く。
 葵との関係があるままで、文字通り〝一緒にいたい〟という事。

 やっぱり、衣織は子どもだ。
 そんなわがままが、言葉一つで通ると思っている。

 そして彼のする要求は、とても子どもらしくない。

 〝複雑な環境や心境を考慮した結果、割り切って名前のない関係になろう〟だなんて、大人でもなかなか言えないだろう。

「美来さん?」

 ぼそりと一言。
 しかし、心配そうに声を潜める衣織の声で、美来ははっと我に返った。

 まもなく、頬から顎にかけての違和感。ほんの少しのくすぐったさ。
 しかしそれは、すぐに体温になじむ。

 美来はまさかと思い頬に手を当ててみた。

 指先には水滴がついて。つまり自分は今、涙を流しているという事で。

 涙を流している事に対しては、冷静だった。

 どうして泣いているんだろう。
 どこの部分が自分の感情に触れたのだろう。

 美来はいたって冷静に、現状の把握に努めていた。
 自分がどうしてここまで冷静なのか、自分の事だというのに、美来には全くわからない。

 衣織は上質なスーツの袖口で、美来の頬を撫でる。
 しかし美来は手で優しく衣織を制した。

「化粧、つくから」
「いいから」

 衣織はそう言うと、美来の頬を撫でる。

「美来さん、傷ついたの?」

 傷ついたのだろうか。
 一般的に言うなら、そうなのだろう。
 嬉しくて泣いている訳ではないなら、悲しくて泣いているのだ。

 もしかして、今は自覚のない悲しみは後からやってくるとか。
 年を取ってからの筋肉痛みたいに。
 後から傷ついたことを自覚する、とか。

 もしそうなら、凄く嫌だ。
 傷つくならいっそ今傷ついて、目の前の元凶にしっかりと言う事を言ってスッキリしてから終わりにしたい。

「俺の事で、泣いてるの?」
「このタイミングで泣くって事は、衣織くんの事以外、ありえないんじゃないかな」

 美来はいたって冷静に、自分の気持ちを整理するために口に出す。

 そうなのだ。衣織の事以外はありえない。
 わかっているから、わからないのだ。

 どうして今、泣いているのか。

 衣織との将来がない事を悲しく思ったから?
 それとも、葵より自分が選ばれると高を括っていたのに、違ったから?
 もしくは葵より自分を選んでほしかったから?

 全部がそうである気がするのに、そうであっては困る。
 困る。本当に、困るのだろうか。

 困っていたら普通、こんなタイミングで涙を流すのだろうか。

「俺、頭おかしくなってるかも」

 教えてあげるね。
 君はもともと、決してまともな部類ではないよ。
 という言葉が喉元まで出かかるあたりが、まだ自分が精神的に元気なのだという証拠だ。

 衣織はそう言うと、美来の事を抱きしめた。

「今、なんか嬉しい」

 今のどこに嬉しい要素があったのだろう。
 もし泣いている女を見てドS心をくすぐられて嬉しいのなら、もういろいろと手遅れだと思う。

「泣かせたくないって思ってたのに、俺が美来さんを傷つけて、美来さんが泣いてて。美来さんの気持ちを動かしたんだって思うと、すごい嬉しい」

 衣織の中でどうやら自分は、痛みも快楽も感じないお人形の様な冷たい人間らしい。

 相変わらず意味が分からない。
 しかし、意味が分からなくしているのは他の誰でもない自分なのだろうという意識が、確かに美来の中にあった。

 衣織に何一つ感情が動かされていないフリを、ずっとしてきたんだから。

 自分が感情を動かしたから嬉しい。
 それが例え、傷つけたからだとしても。

 まあ、理解できなくもない。
 しかしやはり、衣織は相当ひねくれていて、歪んでいると思った。

「殴っていいよ、俺の事」

 衣織は少し体を離して、美来の顔を覗き込みながら言う。

 しかし美来は、衣織の頭のおかしさで、いつもの調子を取り戻しつつあった。

 何一つ解決していないのに。
 何ならさらに問題が増えただけなのに、またいつもの悪い癖が出る。

 このままでいいや、の先延ばし。

 だってお互いの望むところが違う限り、どうせ二人の関係には終着点がない。

 他の女性に飼われていて、その環境になじんでいる男と。
 年下の男は結婚対象外の女。

 最初から、交わる余地も、余白もなかった。

 別にもう、それでいいような気がして。

 以前、不倫をする二番目の女の気持ちがわかる様な気がしたが、今となってはよく分からない。

 本当の二番目になるのは嫌。

 だけど別に、どちらかが勝つことも負ける事もない関係なら。

 美来は衣織の頬に手を伸ばした。

 殴られると思ったのか、衣織はほんの少し強めに目を瞑る。

 美来は背伸びをしてから、衣織にキスをする。

 衣織は目を見開いている。

 どうやら本当に驚いているらしい。
 この子も女関係で想定外なことがあるのだと、意識の外側で何となく考えている。

「そのスーツ、似合ってないよ」

 嘘。本当は凄く似合っている。

 衣織の目の色が変わった。
 きっと何となく、言葉の意味が伝わったのだと思う。

「……みんなが褒めてくれるから似合ってるんだと思ってたんだけど」

 衣織は落ち着きを取り戻したのか、それとも女からの明確な意図を察したのか。

「美来さんが似合ってないって思うなら、脱ぐね」

 上質なスーツを脱いで放った。

 さすがにそれは皺になると思った美来は、衣織の投げたスーツに視線を向けるが、彼はすぐに美来の顔を自分の方向に引き戻した。

「服脱いでする事なんて一つしか思い浮かばないんだけど」

 本当に利口な子だと思う。
 これ以上の話し合いは無意味だと理解していて。

「誘われてるって認識であってるよね」

 そそのかされている事を理解したうえで、誘いに乗る。

 ただ、ここまで女の意図を読み取れる衣織は凄いと思うし、止まり木とはいえ、こんなただれた関係性を展開しようとしている自分も、容認しようとしている衣織もまともじゃない。

 挑発的な態度に刺激された衣織がみせる、いつもより脅迫的な雰囲気が下腹部を疼かせるから、やっぱり手遅れなのはお互い様。

「痛かった?」

 衣織が完璧な雰囲気を作ってくれるから。

「痛かった」

 それに合うように、淡々と返事をする。

「じゃあ、お互いのつけた傷、舐めあって忘れよう」

 お互いに深く根を張っているのだから、〝忘れる〟なんてできるはずもないのに。

 互いに見栄を張って〝忘れる〟事ができるつもりを演じて、手始めに舌でも絡めてみる。
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