ダメな大人の見本的な人生
58:惚れた腫れた
実柚里に追いついた美来は、必死になって肩を浮かせながら息を整えた。
それにひきかえ、実柚里は全く疲れていない様子だ。
こんな状況に出くわすと、いつもタバコをやめようかなと思う。そしてこれが若さと喫煙者の差かと思うのにタバコを吸う事はやめない。
本当にどうしてタバコなんて吸い始めてしまったんだと、自分自身を呪った。
商店街を歩くハルを、実柚里はまるで尾行調査の様に細道に身を潜めて見ていた。
「ねえ、さすがにやめとこうよ、実柚里ちゃん」
大人として止めるべきだろうと思うのだが、実柚里という子が一度決めたことに素直に他人のいう事を聞く子だとは到底思えない。
「美来さんは帰っておいていいよ。私が勝手にやってる事だから」
やっぱり、という言葉を飲み込む代わりに、溜息として吐き出した。
「心配なの。もしかするとハルさん、その人にお金返してもらえないと生活できないのかも」
それは完全なるハルの自業自得だよ。という気がするが、確かに自分の貸したお金なのだからそれで生活ができないのはハルが可哀想な気がする。
しかし、そういう責任も全て自分で取るから大人なのだ。
いつまでも誰かが守ってくれるわけではない。
「でもさー、ハルなんだから放っておいたら自分でなんとかするよ」
「でもハルさん、面倒見いいじゃん」
全然話が通じない。
どうして〝でも〟に〝でも〟で返ってくるんだろう。
どうして実柚里はそこまでハルの事を心配しているのかは知らないが、実柚里から見る今日のハルはよほど変だったらしい。
もしかすると実柚里はハルの事が好きで、よく見ているからいろいろな所に気付く、とか。
美来がそんなことを考えているすきに、実柚里はハルを追いかけてさっさと先を歩く。
ああ見えてハルはしっかりしているんだから大丈夫だろう。
だからもう帰ろうかと思い立ったが、ここまでついてきたのだからと思い直し、美来はもう一度明確な溜息を吐き捨てて実柚里の後を追った。
商店街から出て20分も歩けば、明かりが灯っているのに薄暗い、下町の雰囲気がある場所に到着した。
古い家ばかりが並ぶ街。手入れのされていない集合住宅に、久しく見ていなかった長屋。
全体的な雰囲気が、夜をよりディープなものにしている。
こんなところに住んでいる人は、一体どんな人なのだろうと思いながら、美来は警戒しつつ実柚里の後を追った。
物陰に身を潜めている実柚里の視線の先を辿ると、長屋を縦に二つ重ねた様な二階建ての古いアパートの階段を上るハルがいた。
雨風を直に受けるであろう階段の塗装はほとんど剥げていて、離れた所からでもハルが登ってきしむ音が聞こえてくる。
ハルは一室の前で立ち止まった。
部屋に電気はついているから、おそらくお金を貸している人は家にいるのだろう。
ハルが呼び鈴に触れた。
なぜか、こちらまで緊張する。
音が部屋の中に直接響いて、外側にも漏れた。
しかし、シン、と辺りは静まり返る。
どこからか、テレビの音やテーブルにコップを強く音が聞こえている。
ハルはもう一度呼び鈴を鳴らすが、誰も出てこない。
次にハルは、控えめにドアをノックした。
この響き方では、壁なんてあってない様なものだろう。
そう思いながら行末を見守っていたが、やはり誰も出てこない。
「……いないのかな? 電気はついてるけど」
「電気ついてるんだから、いないはずないよ」
美来の言葉に、実柚里はどこか固い口調でそういう。緊張している様子にも見えた。
ハルは最後にもう一度だけ呼び鈴を鳴らしたが、出てくる気配がない事を悟り、踵を返した。
その途端、実柚里は物陰から飛び出した。
美来が声を出す間もなく実柚里は走る。それから厚底の靴で、何の遠慮もなく塗装のはげた階段を上がっていく。
「お前、なにやってんの?」
「居留守使ってるに決まってんじゃん」
ハルは心底驚いた様子で階段を上がる実柚里を視界にとらえていた。
ハルの隣を通り過ぎた実柚里は、先ほどハルが控えめに叩いたドアを無遠慮に叩いた。
「電気ついてんのに居留守すんな。バレバレなんだよ」
実柚里はそう言うと、次は連続して何度も呼び鈴を鳴らした。
「おい、実柚里」
ハルはそう言うと実柚里の肩を強くつかんだ。
「近所迷惑だ。もういいって別に」
「いい訳ないじゃん」
ハルの手を振り払った実柚里は、彼の言葉をバサリと切る。
「いい訳ない。こっちがイラつくんだわ。なんで貸したハルさんが悪いみたいになるの?」
「いや、悪いとかそういうのじゃなくて。都合ってもんがあんだろ」
「貸したものは返すって、小学生でもわかる常識でしょ。ハルさんがそんなんだから、コイツ調子に乗るんだよ」
実柚里はそう言うと、もう一度強くドアを叩き始めた。
「もういーって」
「ハルさん、勘違いしているよ」
「俺が何の勘違いしてんだよ」
「そういうの、優しさじゃないと思う。その友達、かなんか知らないけどさ。大切だと思うなら、ハルさんがちゃんと教えてあげないといけないんじゃない? 絶対この人、前にも今と同じ事やって友達なくしてるよ」
見かねた美来が階段を上がるとハルは足音に気付いて振り返り、それから頭を抱えて「何でお前まで」とため息をついた。
その時、実柚里が叩き続けていたドアがガチャリと音を立てた。
ゆっくりとドアを開けたのは、ガタイのいい坊主頭の男だった。
第一印象は怖い、だったが、視線を彷徨わせている様子が、気弱そうに見える。
「居留守つかってんじゃねーよ」
ひるみそうになる美来とは対照的に、実柚里は一切遠慮なくそう言うと、片手を差し出した。
「ハルさんに貸してるお金、今すぐ返して」
女子どもにも関係なく手を出すような男だったらどうするんだと思った美来は、すぐに警察を呼べるようにバッグの中でスマホを掴んだ。
「……すみません」
坊主頭の男はそう言う。しかし、財布を出す素振りはなかった。
「今お金返すと、明日生活できなくて……」
「ハルさんに借りた分のお金は、今あるの?」
「ある」
「明日のお金があれば、返すのね?」
「そりゃ、あれば返すよ」
それから男が少し黙っている間、実柚里はスマホを操作した。
「返したくなくて返さない訳じゃないんだし」
「だったら、働けばいいじゃん」
実柚里はそう言うと、スマホの画面を操作して男に見せた。
「こことかどう? 日雇いの仕事。だから明日の帰りにはお金、手に入るでしょ。評判もいいし」
男は驚いた顔をして実柚里が目の前に出すスマホの画面を見ている。
「いいの? だめなの?」
「ああ、いい。いいよ、そこで」
「いつまでも決断しないで、くよくよ悩んで行動しないから逆に動けなくなるんだよ。……で、名前は?」
「ああ、名前は……」
実柚里はテキパキと必要情報を男から聞いて入力し、あっさりと必要事項を伝えた。
「バックレたりするのなしにしてよね。私に連絡が行くんだから」
実柚里は手のかかるの友達を相手にしているみたいに、少しめんどくさそうに言った。
少し離れた所から見ていた美来とハルは、唖然とする他なかった。
なんて度胸がある子なんだ。
ハルも同じことを思ったのか、隣で一度だけ乾いた笑いを漏らした。
「男前すぎんだろ」
「あんな可愛い顔してね」
返事がないハルを不思議に思って、美来はハルの顔を見る。
彼は頭を抱えていた。
まさか、と思った。
「まじ?」
『知らないよ、ハル。実柚里ちゃんの事好きになっちゃって、私の気持ちわかるようになった時、話し相手になってあげないからね』
そうなるかもしれないと確かに居酒屋では言ったが。
「俺の事、ぶん殴ってくんね?」
そういって顔を上げるハルを、美来は何の遠慮もなく叩いた。
「目、覚めた?」
「……全然覚めねー」
ようこそ、こちら側の世界へ。
それにひきかえ、実柚里は全く疲れていない様子だ。
こんな状況に出くわすと、いつもタバコをやめようかなと思う。そしてこれが若さと喫煙者の差かと思うのにタバコを吸う事はやめない。
本当にどうしてタバコなんて吸い始めてしまったんだと、自分自身を呪った。
商店街を歩くハルを、実柚里はまるで尾行調査の様に細道に身を潜めて見ていた。
「ねえ、さすがにやめとこうよ、実柚里ちゃん」
大人として止めるべきだろうと思うのだが、実柚里という子が一度決めたことに素直に他人のいう事を聞く子だとは到底思えない。
「美来さんは帰っておいていいよ。私が勝手にやってる事だから」
やっぱり、という言葉を飲み込む代わりに、溜息として吐き出した。
「心配なの。もしかするとハルさん、その人にお金返してもらえないと生活できないのかも」
それは完全なるハルの自業自得だよ。という気がするが、確かに自分の貸したお金なのだからそれで生活ができないのはハルが可哀想な気がする。
しかし、そういう責任も全て自分で取るから大人なのだ。
いつまでも誰かが守ってくれるわけではない。
「でもさー、ハルなんだから放っておいたら自分でなんとかするよ」
「でもハルさん、面倒見いいじゃん」
全然話が通じない。
どうして〝でも〟に〝でも〟で返ってくるんだろう。
どうして実柚里はそこまでハルの事を心配しているのかは知らないが、実柚里から見る今日のハルはよほど変だったらしい。
もしかすると実柚里はハルの事が好きで、よく見ているからいろいろな所に気付く、とか。
美来がそんなことを考えているすきに、実柚里はハルを追いかけてさっさと先を歩く。
ああ見えてハルはしっかりしているんだから大丈夫だろう。
だからもう帰ろうかと思い立ったが、ここまでついてきたのだからと思い直し、美来はもう一度明確な溜息を吐き捨てて実柚里の後を追った。
商店街から出て20分も歩けば、明かりが灯っているのに薄暗い、下町の雰囲気がある場所に到着した。
古い家ばかりが並ぶ街。手入れのされていない集合住宅に、久しく見ていなかった長屋。
全体的な雰囲気が、夜をよりディープなものにしている。
こんなところに住んでいる人は、一体どんな人なのだろうと思いながら、美来は警戒しつつ実柚里の後を追った。
物陰に身を潜めている実柚里の視線の先を辿ると、長屋を縦に二つ重ねた様な二階建ての古いアパートの階段を上るハルがいた。
雨風を直に受けるであろう階段の塗装はほとんど剥げていて、離れた所からでもハルが登ってきしむ音が聞こえてくる。
ハルは一室の前で立ち止まった。
部屋に電気はついているから、おそらくお金を貸している人は家にいるのだろう。
ハルが呼び鈴に触れた。
なぜか、こちらまで緊張する。
音が部屋の中に直接響いて、外側にも漏れた。
しかし、シン、と辺りは静まり返る。
どこからか、テレビの音やテーブルにコップを強く音が聞こえている。
ハルはもう一度呼び鈴を鳴らすが、誰も出てこない。
次にハルは、控えめにドアをノックした。
この響き方では、壁なんてあってない様なものだろう。
そう思いながら行末を見守っていたが、やはり誰も出てこない。
「……いないのかな? 電気はついてるけど」
「電気ついてるんだから、いないはずないよ」
美来の言葉に、実柚里はどこか固い口調でそういう。緊張している様子にも見えた。
ハルは最後にもう一度だけ呼び鈴を鳴らしたが、出てくる気配がない事を悟り、踵を返した。
その途端、実柚里は物陰から飛び出した。
美来が声を出す間もなく実柚里は走る。それから厚底の靴で、何の遠慮もなく塗装のはげた階段を上がっていく。
「お前、なにやってんの?」
「居留守使ってるに決まってんじゃん」
ハルは心底驚いた様子で階段を上がる実柚里を視界にとらえていた。
ハルの隣を通り過ぎた実柚里は、先ほどハルが控えめに叩いたドアを無遠慮に叩いた。
「電気ついてんのに居留守すんな。バレバレなんだよ」
実柚里はそう言うと、次は連続して何度も呼び鈴を鳴らした。
「おい、実柚里」
ハルはそう言うと実柚里の肩を強くつかんだ。
「近所迷惑だ。もういいって別に」
「いい訳ないじゃん」
ハルの手を振り払った実柚里は、彼の言葉をバサリと切る。
「いい訳ない。こっちがイラつくんだわ。なんで貸したハルさんが悪いみたいになるの?」
「いや、悪いとかそういうのじゃなくて。都合ってもんがあんだろ」
「貸したものは返すって、小学生でもわかる常識でしょ。ハルさんがそんなんだから、コイツ調子に乗るんだよ」
実柚里はそう言うと、もう一度強くドアを叩き始めた。
「もういーって」
「ハルさん、勘違いしているよ」
「俺が何の勘違いしてんだよ」
「そういうの、優しさじゃないと思う。その友達、かなんか知らないけどさ。大切だと思うなら、ハルさんがちゃんと教えてあげないといけないんじゃない? 絶対この人、前にも今と同じ事やって友達なくしてるよ」
見かねた美来が階段を上がるとハルは足音に気付いて振り返り、それから頭を抱えて「何でお前まで」とため息をついた。
その時、実柚里が叩き続けていたドアがガチャリと音を立てた。
ゆっくりとドアを開けたのは、ガタイのいい坊主頭の男だった。
第一印象は怖い、だったが、視線を彷徨わせている様子が、気弱そうに見える。
「居留守つかってんじゃねーよ」
ひるみそうになる美来とは対照的に、実柚里は一切遠慮なくそう言うと、片手を差し出した。
「ハルさんに貸してるお金、今すぐ返して」
女子どもにも関係なく手を出すような男だったらどうするんだと思った美来は、すぐに警察を呼べるようにバッグの中でスマホを掴んだ。
「……すみません」
坊主頭の男はそう言う。しかし、財布を出す素振りはなかった。
「今お金返すと、明日生活できなくて……」
「ハルさんに借りた分のお金は、今あるの?」
「ある」
「明日のお金があれば、返すのね?」
「そりゃ、あれば返すよ」
それから男が少し黙っている間、実柚里はスマホを操作した。
「返したくなくて返さない訳じゃないんだし」
「だったら、働けばいいじゃん」
実柚里はそう言うと、スマホの画面を操作して男に見せた。
「こことかどう? 日雇いの仕事。だから明日の帰りにはお金、手に入るでしょ。評判もいいし」
男は驚いた顔をして実柚里が目の前に出すスマホの画面を見ている。
「いいの? だめなの?」
「ああ、いい。いいよ、そこで」
「いつまでも決断しないで、くよくよ悩んで行動しないから逆に動けなくなるんだよ。……で、名前は?」
「ああ、名前は……」
実柚里はテキパキと必要情報を男から聞いて入力し、あっさりと必要事項を伝えた。
「バックレたりするのなしにしてよね。私に連絡が行くんだから」
実柚里は手のかかるの友達を相手にしているみたいに、少しめんどくさそうに言った。
少し離れた所から見ていた美来とハルは、唖然とする他なかった。
なんて度胸がある子なんだ。
ハルも同じことを思ったのか、隣で一度だけ乾いた笑いを漏らした。
「男前すぎんだろ」
「あんな可愛い顔してね」
返事がないハルを不思議に思って、美来はハルの顔を見る。
彼は頭を抱えていた。
まさか、と思った。
「まじ?」
『知らないよ、ハル。実柚里ちゃんの事好きになっちゃって、私の気持ちわかるようになった時、話し相手になってあげないからね』
そうなるかもしれないと確かに居酒屋では言ったが。
「俺の事、ぶん殴ってくんね?」
そういって顔を上げるハルを、美来は何の遠慮もなく叩いた。
「目、覚めた?」
「……全然覚めねー」
ようこそ、こちら側の世界へ。