ダメな大人の見本的な人生
59:社会不適合者の集い
ハルが実柚里に惚れる事件があってから二週間がたった。
その間、スナックは平和だった。
相変わらず衣織はスナックには顔を出さないし、実柚里も珍しく来なかった。
つまりスナックにはもともとの雰囲気。
大人のだけの空気が漂っている。
「最近二人とも見ないね。特に衣織くんの方は」
「衣織くんはもう何か月も見てないわね」
カウンター越しに話す斉藤と美妙子はそう言った後、カウンターの少し離れた所に座る美来に視線を移した。
「美来ちゃん、衣織くん元気にしてる?」
美妙子はどこか心配そうな口調で言う。
すっかりスナックに馴染み、もはや常連になっている衣織と実柚里は、二人がいない時にもよく話題に出てくる。
「最近全然会ってないよ。連絡もとってないし」
「衣織くんに彼女でも出来たとか」
美妙子の言葉に返事をした後、すかさず斉藤は言う。
それに大きく感情が揺れるより先に、確かにその可能性もあるのか、と美来は冷静に考えていた。
会うのが気まずいから会わないのだとばかり思っていたが、単純に考えて、もう飽きたとかいう理由もあり得るのだ。
彼女を作るなんて、衣織からしたらおそらく朝飯前だろう。
そうなった場合、つまり距離を取ろうとしているのは自分ではなくて衣織だったという事になる。
葵はおそらく、基本的には上司と部下として関わっているのだろうから、いや、おそらく一言では言い表せない関係ではあるだろうが、衣織の行動を縛る様なことはしないはずだ。
「いやだな、美来ちゃん、冗談だよ」
斉藤にそう言われて、美来は我に返った。
「違うよ、斉藤さん。別にそんなんじゃなくて」
「わかるよ。寂しいよね。今までいい感じだったのに」
いい感じ、だったのだろうか。
「私達、いい感じだった?」
「おお、そりゃもういい感じだったよ。ね、美妙子さん」
「そうねぇ。だって衣織くん、美来ちゃんの事大好きだったじゃない」
まあ、確かに。
衣織は自分の〝顔〟が大好きだったのだ。
しかし、顔だけではないというから。
そして葵との関係を切る事はできないというから、こんな中途半端にぶら下がった状態になっているだけで。
衣織は結論が微妙なこの状態のまま、シャットアウトするつもりなのだろうか。
そっちがその気なら望むところだ、と強気になるのに、心の奥底ではやはり寂しいような。
ドアが開いて、ベルの音がする。
すぐにハルは、美来の隣に腰を下ろした。
「おお、ハルくん。今日はどうだった?」
「スって、すっからかんだわ」
斉藤も美妙子も美来も笑いを漏らした。
一体今日の彼は数あるギャンブル癖の中から何に手を出したのだろう。
本当にこの男は、学ぶという事をしないのだろうか。
そしてハルが来た事によって場は一気に、常連だけのムードになる。
現実世界で疲れを蓄えて、蓄えすぎて首すら動かなくなった人間たちばかりの雰囲気に。
息がしやすい。
ハルは本当にダメな大人だと思うが、自分も同じ部類の人間なのだという事を美来は常々、そして重々承知していた。
安心した気持ちになると同時に、また一つ、落ち着いて行く。
ハルはそこにいるだけで、精神安定剤のような役割を果たす。
本人に言うときっと、俺の事どんな使い方してんだ、というのだろうが。
「実柚里ちゃんは一緒じゃないの?」
「一緒じゃねーよ」
斉藤は先ほどの話の延長のつもりなのだろう。そう問いかけるが、ハルはいたっていつもの様子で答える。
本当に全く、いつものハルと変わらない。
しかしハルの心の中には今、実柚里がいるのだろうと思うと、なんだかハルの知らない一面を覗き見ているような気持ちになる。
それはなんだか見てはいけないものを見ている気もするし、単純に行末が気になる気もする。
しかし周りがどれだけはやし立てようが、このまま何も起こらなかろうが、大きな変革期を迎えようが、おそらくハルは何事もなかったかのように淡々と生活をするのだ。
自分から実柚里に気持ちを伝える、なんて事もハルはしないだろう。
ちゃらんぽらんとしているくせに、しっかりと自分という存在が整備されていて、自分自身の中で歯止めを利かせる事ができる。
ハルは大人だ。自分よりずっと。
それに引き換え自分は……と、比較して悲しい気持ちになるから、やっぱり同じ状況になるのは勘弁してほしかった気持ちになり、少しハルに腹が立った。
本当にこうしていると、あの日にハルが実柚里にときめいたことなんて全くなかったみたいだ。
「衣織くん、元気にしてるのかしらね」
「本当にね……」
美妙子の言葉に、美来はぼそりと返す。
完全に同意する。衣織は元気なのだろうか。
最後にあった時から一か月と少したったが、一向に連絡はない。
いっそ連絡してみた方がいいのかもしれないが、一体何を話せばいいのか、見当もつかない。
いや、距離をとろうとしているのだから、連絡を取っていい訳がなくて。
しかし、社会人で一か月会わないなんて普通だ。
いつもいつも会っていたから、きっと距離感がバグを起こしているのだと思う。
最後にこのスナックで衣織の姿を見たのはいつだっただろう。
もうあまり、思い出せない。
ああ、そうだ。実柚里が持ってきたジャムをつけたトーストを食べた時だ。
あの時衣織は、最後の一つを半分にしてくれたのだった。
嬉しかったな。
ぽつりと温かい感情が心の中に灯ろうとするから、美来は感情が結論を出すより前に、タバコに火をつけた。
ハルは積み上げられた灰皿から、ひとつを差し出してくれる。
「ありがと」
「ん」
美来は短く言うハルを盗み見た。
本当に何も変わらない。
もしかするとあの夜の実柚里へ芽生えた気持ちも、ああ勘違いだったわ。と言いだしそうなくらい。
ハルはどんな気持ちでいるんだろう。
おそらく実柚里は、ハルの事を気に入っているのだろうが、それは恋愛感情ではないかもしれない。
美来は煙を吐き出すふりをして、区切りのため息をついた。
スナックで気を紛らわせるのが好きだったはずなのに、衣織が見せてくれた明るい世界が忘れられない。
たくさんの楽しい事が心の中にあって、消えてくれない。
叶うならまた、二人で楽しい事をたくさんしたいし、新しい景色が見たいと思っている。
そしていつか、あんなこともあったねと思い出を話すことができたら。
そこまで考えて美来は我に返った。
怖い怖い。
結婚じゃん。
今ちゃんと〝結婚したい〟の理由を辿ってた。
衣織と結婚という単語だけは、お願いだから結びつかないでほしい。
衣織とこれからも関りを持つという事は、必然的に葵がセットという事だ。
嫌に決まっている。
そんな無意味な三角関係。
「おいお前、聞いてんの?」
「ごめん、全然聞いてなかった」
美来はハルに言われて我に返ってすぐ、反射的に返事をした。
「実柚里が花火いつにするか決めろって言ってんぞ」
そういってハルはスマホの画面を見せる。
気軽に連絡が取れるって、いいな。
そんなバカげたことを思うから、本当に勘弁してほしい。
「いつでもいいよ、別に」
「じゃあ明日」
「明日!? 急すぎない?」
「いつでもいいってお前が言ったんだろ」
ハルはめんどくせ、という態度を余すことなく出す。
そして結局、花火は明日に決まった。
その間、スナックは平和だった。
相変わらず衣織はスナックには顔を出さないし、実柚里も珍しく来なかった。
つまりスナックにはもともとの雰囲気。
大人のだけの空気が漂っている。
「最近二人とも見ないね。特に衣織くんの方は」
「衣織くんはもう何か月も見てないわね」
カウンター越しに話す斉藤と美妙子はそう言った後、カウンターの少し離れた所に座る美来に視線を移した。
「美来ちゃん、衣織くん元気にしてる?」
美妙子はどこか心配そうな口調で言う。
すっかりスナックに馴染み、もはや常連になっている衣織と実柚里は、二人がいない時にもよく話題に出てくる。
「最近全然会ってないよ。連絡もとってないし」
「衣織くんに彼女でも出来たとか」
美妙子の言葉に返事をした後、すかさず斉藤は言う。
それに大きく感情が揺れるより先に、確かにその可能性もあるのか、と美来は冷静に考えていた。
会うのが気まずいから会わないのだとばかり思っていたが、単純に考えて、もう飽きたとかいう理由もあり得るのだ。
彼女を作るなんて、衣織からしたらおそらく朝飯前だろう。
そうなった場合、つまり距離を取ろうとしているのは自分ではなくて衣織だったという事になる。
葵はおそらく、基本的には上司と部下として関わっているのだろうから、いや、おそらく一言では言い表せない関係ではあるだろうが、衣織の行動を縛る様なことはしないはずだ。
「いやだな、美来ちゃん、冗談だよ」
斉藤にそう言われて、美来は我に返った。
「違うよ、斉藤さん。別にそんなんじゃなくて」
「わかるよ。寂しいよね。今までいい感じだったのに」
いい感じ、だったのだろうか。
「私達、いい感じだった?」
「おお、そりゃもういい感じだったよ。ね、美妙子さん」
「そうねぇ。だって衣織くん、美来ちゃんの事大好きだったじゃない」
まあ、確かに。
衣織は自分の〝顔〟が大好きだったのだ。
しかし、顔だけではないというから。
そして葵との関係を切る事はできないというから、こんな中途半端にぶら下がった状態になっているだけで。
衣織は結論が微妙なこの状態のまま、シャットアウトするつもりなのだろうか。
そっちがその気なら望むところだ、と強気になるのに、心の奥底ではやはり寂しいような。
ドアが開いて、ベルの音がする。
すぐにハルは、美来の隣に腰を下ろした。
「おお、ハルくん。今日はどうだった?」
「スって、すっからかんだわ」
斉藤も美妙子も美来も笑いを漏らした。
一体今日の彼は数あるギャンブル癖の中から何に手を出したのだろう。
本当にこの男は、学ぶという事をしないのだろうか。
そしてハルが来た事によって場は一気に、常連だけのムードになる。
現実世界で疲れを蓄えて、蓄えすぎて首すら動かなくなった人間たちばかりの雰囲気に。
息がしやすい。
ハルは本当にダメな大人だと思うが、自分も同じ部類の人間なのだという事を美来は常々、そして重々承知していた。
安心した気持ちになると同時に、また一つ、落ち着いて行く。
ハルはそこにいるだけで、精神安定剤のような役割を果たす。
本人に言うときっと、俺の事どんな使い方してんだ、というのだろうが。
「実柚里ちゃんは一緒じゃないの?」
「一緒じゃねーよ」
斉藤は先ほどの話の延長のつもりなのだろう。そう問いかけるが、ハルはいたっていつもの様子で答える。
本当に全く、いつものハルと変わらない。
しかしハルの心の中には今、実柚里がいるのだろうと思うと、なんだかハルの知らない一面を覗き見ているような気持ちになる。
それはなんだか見てはいけないものを見ている気もするし、単純に行末が気になる気もする。
しかし周りがどれだけはやし立てようが、このまま何も起こらなかろうが、大きな変革期を迎えようが、おそらくハルは何事もなかったかのように淡々と生活をするのだ。
自分から実柚里に気持ちを伝える、なんて事もハルはしないだろう。
ちゃらんぽらんとしているくせに、しっかりと自分という存在が整備されていて、自分自身の中で歯止めを利かせる事ができる。
ハルは大人だ。自分よりずっと。
それに引き換え自分は……と、比較して悲しい気持ちになるから、やっぱり同じ状況になるのは勘弁してほしかった気持ちになり、少しハルに腹が立った。
本当にこうしていると、あの日にハルが実柚里にときめいたことなんて全くなかったみたいだ。
「衣織くん、元気にしてるのかしらね」
「本当にね……」
美妙子の言葉に、美来はぼそりと返す。
完全に同意する。衣織は元気なのだろうか。
最後にあった時から一か月と少したったが、一向に連絡はない。
いっそ連絡してみた方がいいのかもしれないが、一体何を話せばいいのか、見当もつかない。
いや、距離をとろうとしているのだから、連絡を取っていい訳がなくて。
しかし、社会人で一か月会わないなんて普通だ。
いつもいつも会っていたから、きっと距離感がバグを起こしているのだと思う。
最後にこのスナックで衣織の姿を見たのはいつだっただろう。
もうあまり、思い出せない。
ああ、そうだ。実柚里が持ってきたジャムをつけたトーストを食べた時だ。
あの時衣織は、最後の一つを半分にしてくれたのだった。
嬉しかったな。
ぽつりと温かい感情が心の中に灯ろうとするから、美来は感情が結論を出すより前に、タバコに火をつけた。
ハルは積み上げられた灰皿から、ひとつを差し出してくれる。
「ありがと」
「ん」
美来は短く言うハルを盗み見た。
本当に何も変わらない。
もしかするとあの夜の実柚里へ芽生えた気持ちも、ああ勘違いだったわ。と言いだしそうなくらい。
ハルはどんな気持ちでいるんだろう。
おそらく実柚里は、ハルの事を気に入っているのだろうが、それは恋愛感情ではないかもしれない。
美来は煙を吐き出すふりをして、区切りのため息をついた。
スナックで気を紛らわせるのが好きだったはずなのに、衣織が見せてくれた明るい世界が忘れられない。
たくさんの楽しい事が心の中にあって、消えてくれない。
叶うならまた、二人で楽しい事をたくさんしたいし、新しい景色が見たいと思っている。
そしていつか、あんなこともあったねと思い出を話すことができたら。
そこまで考えて美来は我に返った。
怖い怖い。
結婚じゃん。
今ちゃんと〝結婚したい〟の理由を辿ってた。
衣織と結婚という単語だけは、お願いだから結びつかないでほしい。
衣織とこれからも関りを持つという事は、必然的に葵がセットという事だ。
嫌に決まっている。
そんな無意味な三角関係。
「おいお前、聞いてんの?」
「ごめん、全然聞いてなかった」
美来はハルに言われて我に返ってすぐ、反射的に返事をした。
「実柚里が花火いつにするか決めろって言ってんぞ」
そういってハルはスマホの画面を見せる。
気軽に連絡が取れるって、いいな。
そんなバカげたことを思うから、本当に勘弁してほしい。
「いつでもいいよ、別に」
「じゃあ明日」
「明日!? 急すぎない?」
「いつでもいいってお前が言ったんだろ」
ハルはめんどくせ、という態度を余すことなく出す。
そして結局、花火は明日に決まった。