ダメな大人の見本的な人生
65:イメチェン
次の日の土曜日。
美来はまたスナックに足を運んでいた。
連日のスナックだ。しかし、スナックに足を運ばなければ心の平穏が保てない。
汗だくの中を出勤。
若い子達に囲まれて仕事をして、いつ書類整理に移動させられるのだろうと気が気ではない毎日。
スナックに行きたい欲望はもはや砂漠で水を求める事と同じだ。
生存本能、的なもの。
我ながら本当にダメな大人だという自覚がしっかりとある。
現在お金を貯めているであろうハルはおそらくスナックには来ないし、もしかすると土曜日は人が多いかもしれない。
そう思いながらも、美来の身体はスナックに向かっていた。
スナックのドアを開けると、常連の斉藤と巽と藤ヶ谷がテーブル席に三人固まって座っていた。
「いらっしゃい」
いつも通りの美妙子の声。
泣きたい気持ちになる。そんなときは大体、本当に疲れているときだ。
ここにいていいんだ、と言う気持ちになって一抹の安心感を味わう。
常連の三人も「お、美来ちゃん」と言って受け入れてくれる。
そして、人生も捨てたもんじゃないなーと思うのだ。
このメンバーなら今日は酒がゆっくり飲めるな、と思ったが、カウンターには見覚えのない女の人が一人で座っていた。
フリルのついた白いノースリーブに、薄水色の丈の長いスカート。
ストレートに下した髪。
美妙子はカウンターの中から手招きをする。
美来は不思議に思いながらも、美妙子に呼ばれるままカウンターまで歩いた。
「この子、だーれだ」
美妙子はそういって、カウンターに座る女性を指さした。
美来はカウンターに座る女性の横顔を見る。
しかし、全くもってわからなかった。
昔の常連さんだろうか。
昔よく通っていた人……。そんな人いたっけ、と美来はカウンターに座る人の失礼にならない様にと必死でいろいろと考えるが、何一つとして思い浮かばなかった。
女性の方はこちらを向かずにうつむき気味でただ椅子に座っている。
気まずい時間が流れる。
お願いだからこんなリスキーな問題出すのやめてよ、と思いながら美来は「あー」とか「えーっと」とか曖昧な言葉を言い続けていた。
「実柚里ちゃんよ」
「え!? 実柚里ちゃん!?」
〝実柚里〟ってあの実柚里!? と、美来は思わず声を上げて椅子に座る女性にもう一度視線を移した。
「びっくりしたー?」
いつもの調子でそう言いながら、実柚里は美来の方を振り返った。
実柚里といえば頭とか服とかにリボンがついていて、厚底で。
黒とかピンクとか。時には白とか。
つまり地雷系! という恰好をしているのに、どうして今日はノースリーブに長めのスカートなんて履いているのか。
いつもはメイクも濃いめだが、今日は薄くて清楚だ。
すべてがいつもと違う。一つ違うだけなら脳みそも実柚里だと判断したのだろうが、何もかもがいつもと違い過ぎて、全くなれそうになかった。
「本当に別人みたいよね!」
美妙子は感心したようにそう言って、実柚里の事をまじまじと見た。
美妙子の言う通り、いつもと違って本当に別人みたいだ。
「俺はこっちの方が好みだねぇ」
斉藤は調子よく言う。
それに対して藤ヶ谷と巽が「でたでた」と言って呆れた笑いを浮かべていた。
「ええ……。実柚里ちゃん……」
美来はもういちど実柚里を見る。
やっと少しは慣れてきた、かもしれない。
確かに実柚里だ。目元とか、人形みたいなところとかは変わらない……かもしれない。
「どうしたの、急に雰囲気かわって……」
「昨日友達の家に泊まっててさ、汚しちゃったから服貸してもらったの。だからせっかくだしメイクもちょっと変えてみようかなって思って」
地雷系の服装もよく似合っていて〝実柚里〟という感じがするが、これはこれでいい。
「どう? 似合ってる?」
「似合ってるよ」
「本当によく似あってる」
美来と美妙子は頷きながらそういう。
後ろのテーブル席でも実柚里の今の姿を絶賛する斉藤の声が聞こえた。
「ま、明日には元通りだけど」
「ええー」
あっさりと言い切る実柚里に、斉藤は〝残念〟と声色に書いている様な声で言う。
実柚里の中に、皆に可愛いと言われたからまたその恰好をするという考えはないらしい。
本当にこの子は、全くぶれない。
そういう所が年下でも憧れるし何より凄いと思う。
〝自分〟という軸をしっかりと持っている所は、実柚里が最近気になっているハルによく似ていると思った。
ドアについているベルが鳴り、皆の視線がそちらに向かった。
そこには衣織がいた。
衣織を見た瞬間に、心臓がうるさく鳴り始める。どうしてスナックで衣織を見ると、嬉しい気持ちと緊張する気持ちが同居するのだろう。
「ああ、衣織ー」
実柚里はやる気の無さそうな様子でそういう。
衣織はほんの少し眉間に皺を寄せる。そして何かを確認するように常連三人の座るテーブル席に視線を向けてから、美妙子、美来に視線を向ける。
もしかして誰かわからないのかな。それにしてもどういう顔だよ、と思った美来は笑顔を浮かべた。
衣織はどこか疑うような視線で回りを見ながら、ゆっくりと美来と実柚里の方が座るカウンターに歩いてくる。
「この子、誰だかわかってる?」
呆れた顔でそういう美来の一挙手一投足を見逃さないとでも言いたげに、衣織はじっと美来の顔を見ていた。
もしかするとまた、〝顔がいい〟とか言い出すのではないかと警戒していたが、衣織はゆっくりと美来の隣に座る実柚里に視線を移した。
「……ごめん、わかんない。誰だっけ」
平坦な衣織の口調に、スナックにいた衣織以外の全員が笑った。
衣織はきょとんとした顔をしている。
ああ、今日も顔がいい。と思う節操のない自分をどうにかしたい。
「実柚里ちゃんだよ。実柚里ちゃん!」
斉藤の声に衣織は目を見開いて、それからまじまじと実柚里を見た。
「実柚里?」
「そう、私。そんなにわかんない?」
実柚里はいたずらが成功した子どもみたいに嬉しそうに笑っている。
衣織はしばらく放心していたが、すぐにいつも通り実柚里に見せる薄い笑顔にかわった。
「わからなかった」
「〝ごめん。誰だっけ〟って……衣織くん相当遊んでるね」
「別にそんなんじゃない」
斉藤はそういって楽しそうに笑い、衣織は困り笑顔を浮かべていた。
「苦手なんだよね。普段の恰好とか、髪型とか変わると」
「美来さんが化粧変えた時はしっかりわかってたじゃん」
「美来さんは特別」
いつの間に自分が彼の中で特別になったのだろう。
そしてどうして特別なのに、葵と一緒にいる事を選ぶのだろう。
一体葵の、何がいいんだろう、
ちがう、ちがう。そういう事じゃなくて。と美来は無理矢理思考を閉ざした。
衣織はいつも通り、美来の隣に座った。
いつも通りだった隣同士が、今では久しぶりになっている。
「こんなクソ熱い日にぎゅっと詰めて座んないでよ」
「自分があっち行けば?」
そして美来を挟んでいつも通りの喧嘩が始まり、大人たちは苦笑いを浮かべていた。
美来はまたスナックに足を運んでいた。
連日のスナックだ。しかし、スナックに足を運ばなければ心の平穏が保てない。
汗だくの中を出勤。
若い子達に囲まれて仕事をして、いつ書類整理に移動させられるのだろうと気が気ではない毎日。
スナックに行きたい欲望はもはや砂漠で水を求める事と同じだ。
生存本能、的なもの。
我ながら本当にダメな大人だという自覚がしっかりとある。
現在お金を貯めているであろうハルはおそらくスナックには来ないし、もしかすると土曜日は人が多いかもしれない。
そう思いながらも、美来の身体はスナックに向かっていた。
スナックのドアを開けると、常連の斉藤と巽と藤ヶ谷がテーブル席に三人固まって座っていた。
「いらっしゃい」
いつも通りの美妙子の声。
泣きたい気持ちになる。そんなときは大体、本当に疲れているときだ。
ここにいていいんだ、と言う気持ちになって一抹の安心感を味わう。
常連の三人も「お、美来ちゃん」と言って受け入れてくれる。
そして、人生も捨てたもんじゃないなーと思うのだ。
このメンバーなら今日は酒がゆっくり飲めるな、と思ったが、カウンターには見覚えのない女の人が一人で座っていた。
フリルのついた白いノースリーブに、薄水色の丈の長いスカート。
ストレートに下した髪。
美妙子はカウンターの中から手招きをする。
美来は不思議に思いながらも、美妙子に呼ばれるままカウンターまで歩いた。
「この子、だーれだ」
美妙子はそういって、カウンターに座る女性を指さした。
美来はカウンターに座る女性の横顔を見る。
しかし、全くもってわからなかった。
昔の常連さんだろうか。
昔よく通っていた人……。そんな人いたっけ、と美来はカウンターに座る人の失礼にならない様にと必死でいろいろと考えるが、何一つとして思い浮かばなかった。
女性の方はこちらを向かずにうつむき気味でただ椅子に座っている。
気まずい時間が流れる。
お願いだからこんなリスキーな問題出すのやめてよ、と思いながら美来は「あー」とか「えーっと」とか曖昧な言葉を言い続けていた。
「実柚里ちゃんよ」
「え!? 実柚里ちゃん!?」
〝実柚里〟ってあの実柚里!? と、美来は思わず声を上げて椅子に座る女性にもう一度視線を移した。
「びっくりしたー?」
いつもの調子でそう言いながら、実柚里は美来の方を振り返った。
実柚里といえば頭とか服とかにリボンがついていて、厚底で。
黒とかピンクとか。時には白とか。
つまり地雷系! という恰好をしているのに、どうして今日はノースリーブに長めのスカートなんて履いているのか。
いつもはメイクも濃いめだが、今日は薄くて清楚だ。
すべてがいつもと違う。一つ違うだけなら脳みそも実柚里だと判断したのだろうが、何もかもがいつもと違い過ぎて、全くなれそうになかった。
「本当に別人みたいよね!」
美妙子は感心したようにそう言って、実柚里の事をまじまじと見た。
美妙子の言う通り、いつもと違って本当に別人みたいだ。
「俺はこっちの方が好みだねぇ」
斉藤は調子よく言う。
それに対して藤ヶ谷と巽が「でたでた」と言って呆れた笑いを浮かべていた。
「ええ……。実柚里ちゃん……」
美来はもういちど実柚里を見る。
やっと少しは慣れてきた、かもしれない。
確かに実柚里だ。目元とか、人形みたいなところとかは変わらない……かもしれない。
「どうしたの、急に雰囲気かわって……」
「昨日友達の家に泊まっててさ、汚しちゃったから服貸してもらったの。だからせっかくだしメイクもちょっと変えてみようかなって思って」
地雷系の服装もよく似合っていて〝実柚里〟という感じがするが、これはこれでいい。
「どう? 似合ってる?」
「似合ってるよ」
「本当によく似あってる」
美来と美妙子は頷きながらそういう。
後ろのテーブル席でも実柚里の今の姿を絶賛する斉藤の声が聞こえた。
「ま、明日には元通りだけど」
「ええー」
あっさりと言い切る実柚里に、斉藤は〝残念〟と声色に書いている様な声で言う。
実柚里の中に、皆に可愛いと言われたからまたその恰好をするという考えはないらしい。
本当にこの子は、全くぶれない。
そういう所が年下でも憧れるし何より凄いと思う。
〝自分〟という軸をしっかりと持っている所は、実柚里が最近気になっているハルによく似ていると思った。
ドアについているベルが鳴り、皆の視線がそちらに向かった。
そこには衣織がいた。
衣織を見た瞬間に、心臓がうるさく鳴り始める。どうしてスナックで衣織を見ると、嬉しい気持ちと緊張する気持ちが同居するのだろう。
「ああ、衣織ー」
実柚里はやる気の無さそうな様子でそういう。
衣織はほんの少し眉間に皺を寄せる。そして何かを確認するように常連三人の座るテーブル席に視線を向けてから、美妙子、美来に視線を向ける。
もしかして誰かわからないのかな。それにしてもどういう顔だよ、と思った美来は笑顔を浮かべた。
衣織はどこか疑うような視線で回りを見ながら、ゆっくりと美来と実柚里の方が座るカウンターに歩いてくる。
「この子、誰だかわかってる?」
呆れた顔でそういう美来の一挙手一投足を見逃さないとでも言いたげに、衣織はじっと美来の顔を見ていた。
もしかするとまた、〝顔がいい〟とか言い出すのではないかと警戒していたが、衣織はゆっくりと美来の隣に座る実柚里に視線を移した。
「……ごめん、わかんない。誰だっけ」
平坦な衣織の口調に、スナックにいた衣織以外の全員が笑った。
衣織はきょとんとした顔をしている。
ああ、今日も顔がいい。と思う節操のない自分をどうにかしたい。
「実柚里ちゃんだよ。実柚里ちゃん!」
斉藤の声に衣織は目を見開いて、それからまじまじと実柚里を見た。
「実柚里?」
「そう、私。そんなにわかんない?」
実柚里はいたずらが成功した子どもみたいに嬉しそうに笑っている。
衣織はしばらく放心していたが、すぐにいつも通り実柚里に見せる薄い笑顔にかわった。
「わからなかった」
「〝ごめん。誰だっけ〟って……衣織くん相当遊んでるね」
「別にそんなんじゃない」
斉藤はそういって楽しそうに笑い、衣織は困り笑顔を浮かべていた。
「苦手なんだよね。普段の恰好とか、髪型とか変わると」
「美来さんが化粧変えた時はしっかりわかってたじゃん」
「美来さんは特別」
いつの間に自分が彼の中で特別になったのだろう。
そしてどうして特別なのに、葵と一緒にいる事を選ぶのだろう。
一体葵の、何がいいんだろう、
ちがう、ちがう。そういう事じゃなくて。と美来は無理矢理思考を閉ざした。
衣織はいつも通り、美来の隣に座った。
いつも通りだった隣同士が、今では久しぶりになっている。
「こんなクソ熱い日にぎゅっと詰めて座んないでよ」
「自分があっち行けば?」
そして美来を挟んでいつも通りの喧嘩が始まり、大人たちは苦笑いを浮かべていた。