ダメな大人の見本的な人生

66:行きも戻りもしない関係

 もしかすると〝どれだけ関係が曖昧だろうが家まで送り届ける〟というのは衣織のポリシーなのかもしれない。

 さっさと切り上げて帰った実柚里がいなくなったスナックで、衣織としばらく二人で話をしていた。
 取り留めもない、他愛のない話。

 曖昧な関係でもこんな事が出来るのは、大人だからだと思う。

 そしてある程度の時間になって帰るという美来に、衣織は「送らせて」と言った。

 そんな帰り道は二人で歩き慣れていたはずの道で。
 最近では一人で歩くことが当たり前になった帰り道だ。

 場所と記憶というのは、深く紐付くらしい。
 つまり、このまま二人の距離が離れたのだとして、辛い思いをするのは自分の方だという事だ。

 衣織と歩いた道を一人で歩き、そして何度も思い出す。
 それはもしかすると、同棲していた部屋に一人でぽつりと取り残される様な感覚に似ているのかもしれない。

 それだけで寂しいと思うのだから、取り返しがつかないくらい衣織の事が好きなのだろうと思う。
 だけど身動きが取れない。

 そんなことを考えている自分が、いや。 
 今となっては、このグレーのままでいたくて。白でも黒でもはっきりしてしまったら困るとすら思っている。

 自分の理想とは程遠い現実。
 本当ならもう、彼氏の一人でも見つけて結婚の話をしているはずだったのに。

 ああ、はっきりした女になりたい。
 そしてまともな大人になりたい。

「美来さん」
「……うん、なに?」
「俺、いろいろ考えたんだけどさ」

 考え事をしていて少し気が逸れていたが、ぎりぎりの所で反応して衣織を見た。
 相変わらず、顔がいい。

「俺が大人になるまで待っててくれない?」

 急に何を言い出すかと思えば。

 大体、大人っていくつよ。

 30を手前にしてもまだ〝大人〟というものになり切れていないというのに。
 衣織はいったい、いつまで待たせるつもりなのだろう。

「……そんなに待てないよ」

 美来はポツリと返事をする。

 そんなに待てるはずがない。

「衣織くんと30手前の女の時間の価値は一緒じゃないんだよ」
「うん。わかってる」

 衣織は呟く。
 わかってないよ。何もわかってない。

「わかってないよ」

 なるべく冷静でいる様に努める。
 そして今ならそれが出来る確信が美来にはあった。

 衣織とこれ以上距離が開くのが嫌だから、という自己中心的な理由から。

「どれだけ綺麗な顔も、年を取れば崩れていくんだよ」

 何の気もないような様子で、美来は言う。
 しかし、心臓はうるさくなっていた。

 容姿が劣化するという事実を目の当たりにした衣織は、どうするのだろう。
 もしかすると、ああそうか、と納得して距離を取るのだろうか。

 だってこの子の判断基準の一番は、顔なんだから。

「……考えたこともなかったな」

 衣織は平坦な口調で。思ったことをそのまま口にしている様に言う。

 沈黙に耐えきれる自信のない美来は、ほんの少しの間の後ですぐに口を開く。

「年取らないなんて、ありえないじゃん」

 本当に自分はダメな大人だと思う。
 美妙子の話を聞いて、あれだけ〝察して〟はわがままだと思っていたのに、今思っている事の全てを察してほしいと思っている。

 本当にどこまで行っても、他人任せ。

「うん。でも俺は、美来さんに待っててほしいなって思ってる」

 答えになってないよ。
 そうはいっても、顔が劣化するって程度が知れてるでしょ。なんて幻想を彼は持っているんじゃないか。

「衣織くんは、私の顔が好きなんだよね?」

 言いたいことをはっきりと言ったらいいのにと、心の中の自分が少し呆れて言う。
 〝私と一緒にいたいって言うけど、私の顔がどんどん崩れてくって事は分かってる?〟って。
 だけど意気地がなくて聞くことが出来ないから、話をもう一度、元に戻してみる。

「うん。だけど顔だけじゃないって、前にそう言った」

 言ったけど、それとこれとは違うじゃん。
 顔は劣化する。 
 だから不安な訳で。

 いや、不安ってなんだ。 
 自分の言葉ではっきり言わないと、きっと何も解決しないのに。

 だけど距離を詰めるという事は、衣織と一緒にいたいと思う自分を肯定するという事な訳で。

「美来さんまだ、結婚したいって思う?」

 結婚したい、そう言われれば答えはイエス。

 しかし、衣織と関わって〝結婚〟という行為の本当の意味を知ってしまった。

 結婚は絶対に、焦ってするものではないという事だけは分かった。

 一緒にいる幸せを知ってしまった今だからわかる事。
 結婚をするにあたって大切なのはきっと相性とかそういうもので、戦略的な考えを持ち込むとろくな事にならない。

「……わかんなく、なったかも」

 美来は諦めを声に出して、ため息交じりで答える。

 結婚を諦めきることが出来るのなら、気は楽なのかもしれない。きっと今よりずっと、気楽に考えられる。

「俺さ、昔からずっと早く大人になりたかったんだ」

 衣織はいつも通りの様子で。それからゆっくりと、息を吐いた。

「でも大人になるって、待つしかないからさ。〝年下〟ってアドバンテージを上手く利用しようって思ってた」

 またこの子の裏側が見えた。
 天然でやっているのだろうかと思うときもあれば、やっぱり計算しつくされた結果なのだろうとも思う。
 本当に衣織という男は、どうしてこうあるのだろう。

 そしておそらくもう、自分の裏側を包み隠す気は彼にはないのだろう。

「だけど今ね、本気で年齢がもっと〝大人〟だったらよかったのに、って思ってる」

 衣織はそう言うと少し困った様に美来を見た。

「もしそうだったら、美来さんはきっと俺と一緒にいてくれるのにって」

 衣織の切実な言葉に、明らかに胸が痛んでいる。選んであげられない自分に嫌気がさしている。

 葵に会って、それから追いかけてきてくれた夜にもし、衣織が葵との関係を切ると言っていたら、一緒にいる選択をしたのだろうか。

 自分の事だというのに、今となっては分からない。
 世間体を含めて、やっぱり年齢の差が気になってしまうから。

 そして当然、葵の事もそうだ。
 衣織の気持ちにこたえてあげられない事が悲しいという気持ちが、哀れみの気持ちなのか恋愛感情なのかすら、もう分からない。

 しかしもう、結婚の為だけに合コンをしたり誰かとデートをしたりすることに疲れ果てていることも事実。

 衣織と出会って、いろいろな所に行って、きっとこの人以上に合う人なんていないのだろうと思っているから。

 何もかもが中途半端にぶら下がっていて、身動きが取れない。

 あっという間にアパートについてしまった。
 結論が出ない事が最初からわかっていたのはきっと、お互い様。

 衣織は少し身を屈めて、ゆっくりと顔を近づける。
 そして抵抗しない事を確認してから、軽く触れるだけの口付けを落とす。

 たったそれだけで満たされる気持ちになって、葵の所に返したくなくなるのだから、本当にどうしようもない。

 衣織には葵のような女性がお似合いだと思っていた気持ちは、一体どこに隠れてしまったのか。

「またね」

 その〝また〟は一体いつ訪れるのか。
 美来は小さく頷いて、それから衣織の背に小さく手を振った。
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