ダメな大人の見本的な人生

68:付き合いたてのカップルみたいな

 別に最初から女を家に送るなんてイケメンムーブをハルに期待してはいなかった。きっとハルはスナックを出るころには衣織に送ってあげてと言われたことすら忘れていただろう。
 そしてハブ酒は普通に美味しくて、自分の分を差し出したことは普通に後悔した。

 美来は結局、一人でとぼとぼと歩いて衣織といつも通る道を帰っていた。
 この交差点は、もしも漫画の展開なら衣織が立ち止まって待ってくれているのだろうなと考えた場所。結局、少女漫画みたいな展開にはならなかったが。

「こんばんは」
「うわっ!」

 そろそろ慣れたらどうだと思うのだが、ストーカー疑惑のかかっていたお兄さんに帰り道で会うと、高確率で驚いてしまう。

「ごめんなさい」

 お兄さんももう慣れたもので、困った様に笑っている。もはやわざとやっているのではないかと美来は疑い始めていた。

「こちらこそすみません。こんばんは」

 相変わらずジム帰りみたいな恰好をしている。スポーツウェアを着ている人が3割増しくらいでかっこよく見える現象は一体何なのだろう。

「最近よく会います、ね?」

 会うよね? 結構あってる頻度って事でいいよね? という確認のために、美来は少し含みを持たせて口に出した。

「そうですね。よく会いますね」

 だよね、よかった。と一瞬思ったが、別にいい事は何もない。最近は本当によくお兄さんに会う。もしかしてやっぱりストーカーなのでは……と頭をよぎったが、こんな爽やかにかつ自然に話しかけてくるストーカーなんてそうそういないだろう所に落ち着く。
 それにスポーツウェアを着ているという所がまた害が無さそうな感じを醸し出している。
 しかし、何かしら関係が進展することもない。会釈して〝こんばんは~〟で去るくらいの間柄で充分な気がするのだが。

 だが、テキトーにあしらうわけにもいかない理由が美来にはあった。
 それは、このストーカー疑惑がかかったお兄さんは、衣織に腕を引かれた時にぶちまけた缶ビールを片付けてくれたらしい。普通にいい人だ。

 恩をあだで返すことは出来ないので、話しかけられた時にはなるべく話をするようにしている。それにお兄さんはあの時衣織にほぼ無理矢理連れ去られた時の話を話題にしたりはしないので害はないと判断している。

「今日はもう帰りですか」

 しかし、なぜか隣を同じペースで歩いてくる。最近なんだかしつこい気がするのはおそらく、気のせいではないと思う。

「ええ、まあ」
「お疲れ様です」
「はい、こちらこそ」

 少ししどろもどろしながら答えるが、男は何も感じていないのか意に介さず隣を歩く。
 家を知られたくないし、もう少し遠慮してくれると嬉しいというのが正直な所。最近は少し、というか結構めんどくさくなってきていた。こんなことになるのなら、いっそ告白でもされてすっぱりと断ったほうが早いというものだ。

 しかし男には関係を進展させるという考えはないようなので、このまま平行線という事は今の所確定してしまっている。

「お仕事場所は遠いんですか?」

 なんだかプライベートに突っ込んでこられている気がして一気に身構える。そういうのはモテないよ。と言いたくなったが、余り気にしすぎると今度はストレスになりそうな気がしたので気にしない様に努めた。

 こんな時、彼氏という存在があればいい言い訳になるのに。残念ながらそんな存在はいない。
 そしてつい先ほどまでときめいていたくせに、元凶の衣織を心から恨んだ。

「それほど遠くないです」

 曖昧な言葉を返したのだから察して諦めてくれたらと思うが、多分気付かないのだろうという気もしていた。
 衣織といると全く感じない歩き慣れた夜の道が、まるで幽霊でも出てくるのではないかと思うくらい怖く感じる。

 ああ、無理矢理でもハルに送ってもらえばよかった。ハルに送ってもらえば話しかけてこなかったかもしれない。最初の方こそ一目ぼれだと思っていたが、話を進展させる気も無さそうで。一体何が目的なのだろう。もしよく会うから普通に世間話がしたいだけなら、嫌な顔をするのもなんだか申し訳ないし、という気持ちになっている。

 溜息を吐きたい気持ちをぐっとこらえた頃、電話の音が響いた。
 どちらの電話かわからなかったが、ストーカー疑惑のかかっているお兄さんが取り出したスマートフォンの画面には何も映っていなかったので、美来は自分のスマートフォンを取り出す。

 そこには〝衣織〟の文字。
 すぐに安心とか喜びとかそんなものが襲い掛かってきて、美来は何を考えるよりも先にスマホを操作して電話を耳に当てた。

「もしもし」

 浮かれているのが分かるくらい明るい自らの声に意識を向ける余裕が今はない。

「ちゃんとハルさんに送ってもらった?」

 開口一番に衣織がそういうから、心配してくれている事が身に染みて。だけど直接会えない事がほんの少し寂しい。さっきまで彼氏が出来ない元凶だと思っていた気持ちは、どこに隠れてしまったのだろう。

「ううん。送ってもらってないよ。一人」
「今?」
「うん」
「歩いて帰ってるの?」
「そうそう」

 美来はそう言いながら、ストーカー疑惑のかかっているお兄さんに会釈をして、家までの道を歩いた。先ほどまで怖いと思っていた夜が嘘みたいだ。今はもう、何も怖くない。

「一人は危ないよ」
「別に大丈夫だよ。今まで何かあった事なんてないもん」
「今まではなくても、これからは分からないじゃん」
「考えすぎだと思うけど」

 今の衣織はどこかリラックスした様子で、落ち着いた口調をしている気がする。

「衣織くん、何してるの?」

 不思議だ。いつもなら強がって聞けない事が、電話口だと素直に聞くことが出来る。

「仕事ー」

 衣織は間延びした声で言う。
 まるで彼氏と彼女みたいなやりとり。これが直接的なやり取りなら、何の言葉も出てこなかった確信が美来にはあった。しかし電話口でなら素直になれる。
 この浮いた気持ちはまるで、中学生とか高校生の頃の付き合いたてのやり取りみたいで。

「お疲れ様」
「うん」

 それから衣織は何も喋らなくなった。しかし沈黙は別に痛くもなんともない。それもまた不思議だ。一緒にいるときは沈黙が痛かったのに。直接姿は見えないけれど確かに繋がっている、という感じがいいのだろうか。

「仕事、いいの?」
「美来さんが帰り着くまで、ちょっと休憩」
「いつまで仕事するの?」
「あと少し。そしたら今日はもう帰ろうかな」
「忙しいんだね」
「しばらくね」

 電話口の衣織と、まるで同等に話をしている。普通通り分別のある大人を相手にしているみたいに。それがなんだか急に堪らなく愛しく感じるのは、酒を飲んで情緒が不安定になってしまっているのかもしれない。
 だからか、あっという間に家に帰りついてしまった。

「帰り着いた」
「家の中に入った?」
「もう入るよ」
「入ったら教えて」

 大げさだな、と思いながらやっぱりそれが嬉しいのはどうかしている。
 そして葵の顔が浮かんで、どうしようもなくなる。

「入ったよ」
「鍵、ちゃんとかけて」

 美来は鍵を内側から捻ってかける。聞きなれているのに、よく聞くと複雑な音がした。

「かけた」
「うん。じゃあ俺、行くね」

 優しくて余裕がある風に聞こえる衣織の声に、感情が大きく揺れるから勘弁してほしい。
 わがままを言ったら衣織は会いに来てくれるのだろうか。そんなことが頭をよぎるから、本当にダメな大人だ。

「ありがとう衣織くん。バイバイ」
「うん。また」

 また一歩後退。
 白黒はっきりとつける事が、怖くなる。
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