ダメな大人の見本的な人生
72:決着のつけ方
「めちゃくちゃ気分悪かった。お前だけ美来さんと喋って俺は喋れないし。とりあえず俺に謝って」
そこは私にではないんだ。と思ったが、まだパニックの最中では、何か言葉を発するという気にすらならなかった。
「何の話だよ。俺は別に……偶然会ってちょっと話をと思っただけで……」
ドラマかよ、と突っ込みたくなるくらい明らかに挙動不審な様子を見せるストーカー疑惑のかかった男。どこからどう見ても、明らかな黒。これほどまでわかりやすい事があるのかと思うくらい。しかし極限の精神状態になった人間はきっと、皆こんな反応をするのだろうとどこか他人事のようにも考えていた。
衣織は単体のストーカー行為だけではなく、ストーカーのストーカーまでこなしていたらしい。そんな衣織はさっさとしろよ、とでも言いたげな様子で男に向かって手を差し出す。男のスマホの中に何かがあることは確信しているらしい。
「待ち伏せしてて、俺がいないタイミングを狙って話しかけてたんでしょ。わかってるんだよ見てたんだから。証拠もちゃんとある。ほら、早く出して。本当なら今、久しぶりに美来さんとイチャイチャできる時間なんだから」
衣織にストーカー男が逆上するという考えはないらしい。
ストーカー同士でわかりあえる何かがあるのだろうか。それにしても自分がイチャイチャしたいからさっさとしろと言える衣織はやはり、メンタルが強いと思う。
男は逃げられないと思ったのか、決まりが悪そうな顔をしてから舌打ちをすると、衣織にスマホを手渡した。
衣織はすぐさまスマホを見て、画面をスクロールする。
「……めっちゃあるじゃん。むかつく」
覗き見たストーカー男のスマホには、遠くからズームをして撮られたであろう写真が山ほど入っていた。
顔がまともに写っているものなんてほとんどない。ストーカーをしたいと思うほど誰かに夢中になった事のない美来は、男のスマホに入っている山のような写真たちが何を目的として撮られたものなのかわからなかった。
衣織は写真を削除し始める。
「あの……衣織くん」
美来はやっとのことで控えめに声を出した。
長い事無口な緊張状態にあったからか、ほんの少し声がかすれている。
「警察に、行くならさ……」
「うん」
衣織は男のスマホから視線を逸らさないまま口を開く。
そうはいってみたものの、別にストーカー男を警察に突き出すと美来の中で決まっているわけではなかった。
ストーカー男はまさか自分が警察に突き出されるとは思っていなかったのか、ぎょっとした顔で美来と衣織を見ていた。
「……写真削除しちゃったらまずいんじゃないの?」
「それよりも今、男のスマホに美来さんの写真があるって言う事実が無理」
どんな育ち方をしたら目の前の18歳の男の子の思考回路になるのか、美来には到底わからなかった。
遠慮なくどんどんと消える写真たちをみて、男は身を震わせた。
「俺は!! お前より先に美来さんの事見てたんだよ!!」
男の声が、大して広くもない道に響く。
美来は男が口を開いた瞬間に肩をびくりと浮かせたが、衣織は相変わらず少しも男のスマホから視線をそらさない。
「お前は後から来たんだろ!! それなのに、美来さんと一緒に……!! あーもう!!」
「八つ当たりじゃん。自分が陰からこそこそ見てるだけの意気地なしだっただけだよ。俺はもう美来さんを一目見た時からどんな手を使っても関係を持つって誓ってたから。気合が足りないんだよ」
気付いたら自分のストーカーとストーカーが集まって談義の場が開かれていた。
平々凡々な人生でよかったのに。
別に不特定多数の人からモテなくていいし、すれ違う人に一目ぼれなんてされなくていい。
ただ、たった一人に愛されればそれで、よかったのに。
顔がいいのはめんどくさいと、美来は心底思った。
「よし、終わり。……で、美来さん、こいつどうする? 俺は普通に死刑だと思うんだけど」
写真を消去し終わった衣織は男にスマホを投げた。
男はそれを間一髪のところでキャッチする。
衣織の言葉を聞いた男の顔は、強がってはいるがおびえている。
美来はこれまでの経験を頭の中でなぞった。
もしかするとまた、知らないところで思わせぶりな態度を取っていたのかもしれない。
ストーカー男は今日以外はある程度の距離をきちんと保っていたし、迷惑をかけてやろうという感じもしない。
「……これからもう、こんなことしないなら」
美来がそう言うと、男は顔をそらして決まりが悪そうな表情をする。
「二度と俺と美来さんの前に顔見せないなら、警察には言わないって。気に入らないけど」
何度でも言うが、お前もストーカーだからな? という言葉を美来は必死で飲み込む。
どうしてこの子の頭の中で〝自分は特別なストーカー〟になっているのだろう。そして何より、本当に彼の思惑通り、特別になっているところ辺りがむかつく。
「……わかったよ」
ストーカー男はそういって、悔しそうな顔をする。
本当に好きでいてくれたのだろうな、という気持ちもあれば、傷ついているのかもしれないとも思う。
だから美来は心の中で、もしも、もしも気付かないうちに思わせぶりな態度を取っていたのならごめんなさいと、呟くようにぽつりと思った。
逆上しないところから見ても自分が悪い事をしている自覚はあったのだろう。
そしてもしかすると、不純なストーカー行為をやめなければと思っていたのかもしれない。
「次美来さんに話しかけたら、警察に突き出すからー」
背中を向けて去る男に、衣織は追い打ちをかける様に言う。
「わかってるよ!!」
男はいら立った様子を隠さずに衣織に返事をした。
もし、不純だと分かっていてストーカー行為をやめなければと男が思っていたのなら、今回の事は救いになったかもしれないと美来は思っていた。
もしそうなら、男の気持ちが何となくわかる。
勢いをつけなければやめられない事が案外ある。例えば衣織との関係みたいな。
男の背中は完全に見えなくなった。
「だから一人じゃ危ないって言ったのに」
つい今まで何ともなかった感情が、衣織の一言に反響して暴れ出す。
安心したからか、それとも衣織に会えたことが嬉しかったのか。泣き出してしまいたい様な、おぼろげな形の感情が胸の内にある。
「一緒に帰ろ」
衣織が手を差し出す。いい加減にダメだと分かっているのに、その手を握ってしまう。
衣織が先を歩いてほんの少し手を引っ張るから、美来はそれに釣られて歩きだした。
先ほどまで饒舌に喋っていた衣織が、何も喋らなくなる。
美来は俯いたまま、口を開いた。
「……だからこの前、ハルに送ってって頼んでくれたの?」
「うん、そう」
「……仕事、忙しいんじゃなかったの?」
「仕事は忙しいよ。でも、美来さんの方が大事」
泣きそうになる気持ちを抑えてする質問に、衣織はぽつりと答えてくれる。
仕事が忙しいのに、合間を縫ってわざわざストーカーから見張ってくれていたのだろうか。
好きだな、と改めて思うと、何かが心の内側で脈を打つ。ダメだダメだと言い聞かせる。
それはまるで除草剤を撒きながら、過剰に栄養剤を撒かれているみたいに。
アパートすぐ近くで立ち止まった衣織に釣られて、美来も立ち止まった。
ゆっくりとこちらを振り返った衣織は、美来を抱きしめた。
こんな所で。そう思うのに、彼の背中に手を回しているのだから、本当に救いようがないと思う。
「あー」
何だか身に染みるみたいな声を出して。
「すき」
そういうから。一気に気持ちが持って行かれてしまう。
さみしい、と言えば衣織は側に居てくれるのだと思う。
「でも、もう帰るよね」
しかし、固い意志を持たなければいけない事は分かっていて。
こくりと頷いてから、自分がちゃんと大人としての最低限の役割を果たしていることに安どする。
「衣織くん」
「んー」
「ありがとう」
衣織は優しい顔をして笑って、額に一つ、押し付けるみたいな口付けを落とす。
「どうしたしまして」
衣織の背中を見て、こんな時くらい押し切ってくれたらいいのになんて、バカげたことが考えるより先に頭に浮かぶ。
そこは私にではないんだ。と思ったが、まだパニックの最中では、何か言葉を発するという気にすらならなかった。
「何の話だよ。俺は別に……偶然会ってちょっと話をと思っただけで……」
ドラマかよ、と突っ込みたくなるくらい明らかに挙動不審な様子を見せるストーカー疑惑のかかった男。どこからどう見ても、明らかな黒。これほどまでわかりやすい事があるのかと思うくらい。しかし極限の精神状態になった人間はきっと、皆こんな反応をするのだろうとどこか他人事のようにも考えていた。
衣織は単体のストーカー行為だけではなく、ストーカーのストーカーまでこなしていたらしい。そんな衣織はさっさとしろよ、とでも言いたげな様子で男に向かって手を差し出す。男のスマホの中に何かがあることは確信しているらしい。
「待ち伏せしてて、俺がいないタイミングを狙って話しかけてたんでしょ。わかってるんだよ見てたんだから。証拠もちゃんとある。ほら、早く出して。本当なら今、久しぶりに美来さんとイチャイチャできる時間なんだから」
衣織にストーカー男が逆上するという考えはないらしい。
ストーカー同士でわかりあえる何かがあるのだろうか。それにしても自分がイチャイチャしたいからさっさとしろと言える衣織はやはり、メンタルが強いと思う。
男は逃げられないと思ったのか、決まりが悪そうな顔をしてから舌打ちをすると、衣織にスマホを手渡した。
衣織はすぐさまスマホを見て、画面をスクロールする。
「……めっちゃあるじゃん。むかつく」
覗き見たストーカー男のスマホには、遠くからズームをして撮られたであろう写真が山ほど入っていた。
顔がまともに写っているものなんてほとんどない。ストーカーをしたいと思うほど誰かに夢中になった事のない美来は、男のスマホに入っている山のような写真たちが何を目的として撮られたものなのかわからなかった。
衣織は写真を削除し始める。
「あの……衣織くん」
美来はやっとのことで控えめに声を出した。
長い事無口な緊張状態にあったからか、ほんの少し声がかすれている。
「警察に、行くならさ……」
「うん」
衣織は男のスマホから視線を逸らさないまま口を開く。
そうはいってみたものの、別にストーカー男を警察に突き出すと美来の中で決まっているわけではなかった。
ストーカー男はまさか自分が警察に突き出されるとは思っていなかったのか、ぎょっとした顔で美来と衣織を見ていた。
「……写真削除しちゃったらまずいんじゃないの?」
「それよりも今、男のスマホに美来さんの写真があるって言う事実が無理」
どんな育ち方をしたら目の前の18歳の男の子の思考回路になるのか、美来には到底わからなかった。
遠慮なくどんどんと消える写真たちをみて、男は身を震わせた。
「俺は!! お前より先に美来さんの事見てたんだよ!!」
男の声が、大して広くもない道に響く。
美来は男が口を開いた瞬間に肩をびくりと浮かせたが、衣織は相変わらず少しも男のスマホから視線をそらさない。
「お前は後から来たんだろ!! それなのに、美来さんと一緒に……!! あーもう!!」
「八つ当たりじゃん。自分が陰からこそこそ見てるだけの意気地なしだっただけだよ。俺はもう美来さんを一目見た時からどんな手を使っても関係を持つって誓ってたから。気合が足りないんだよ」
気付いたら自分のストーカーとストーカーが集まって談義の場が開かれていた。
平々凡々な人生でよかったのに。
別に不特定多数の人からモテなくていいし、すれ違う人に一目ぼれなんてされなくていい。
ただ、たった一人に愛されればそれで、よかったのに。
顔がいいのはめんどくさいと、美来は心底思った。
「よし、終わり。……で、美来さん、こいつどうする? 俺は普通に死刑だと思うんだけど」
写真を消去し終わった衣織は男にスマホを投げた。
男はそれを間一髪のところでキャッチする。
衣織の言葉を聞いた男の顔は、強がってはいるがおびえている。
美来はこれまでの経験を頭の中でなぞった。
もしかするとまた、知らないところで思わせぶりな態度を取っていたのかもしれない。
ストーカー男は今日以外はある程度の距離をきちんと保っていたし、迷惑をかけてやろうという感じもしない。
「……これからもう、こんなことしないなら」
美来がそう言うと、男は顔をそらして決まりが悪そうな表情をする。
「二度と俺と美来さんの前に顔見せないなら、警察には言わないって。気に入らないけど」
何度でも言うが、お前もストーカーだからな? という言葉を美来は必死で飲み込む。
どうしてこの子の頭の中で〝自分は特別なストーカー〟になっているのだろう。そして何より、本当に彼の思惑通り、特別になっているところ辺りがむかつく。
「……わかったよ」
ストーカー男はそういって、悔しそうな顔をする。
本当に好きでいてくれたのだろうな、という気持ちもあれば、傷ついているのかもしれないとも思う。
だから美来は心の中で、もしも、もしも気付かないうちに思わせぶりな態度を取っていたのならごめんなさいと、呟くようにぽつりと思った。
逆上しないところから見ても自分が悪い事をしている自覚はあったのだろう。
そしてもしかすると、不純なストーカー行為をやめなければと思っていたのかもしれない。
「次美来さんに話しかけたら、警察に突き出すからー」
背中を向けて去る男に、衣織は追い打ちをかける様に言う。
「わかってるよ!!」
男はいら立った様子を隠さずに衣織に返事をした。
もし、不純だと分かっていてストーカー行為をやめなければと男が思っていたのなら、今回の事は救いになったかもしれないと美来は思っていた。
もしそうなら、男の気持ちが何となくわかる。
勢いをつけなければやめられない事が案外ある。例えば衣織との関係みたいな。
男の背中は完全に見えなくなった。
「だから一人じゃ危ないって言ったのに」
つい今まで何ともなかった感情が、衣織の一言に反響して暴れ出す。
安心したからか、それとも衣織に会えたことが嬉しかったのか。泣き出してしまいたい様な、おぼろげな形の感情が胸の内にある。
「一緒に帰ろ」
衣織が手を差し出す。いい加減にダメだと分かっているのに、その手を握ってしまう。
衣織が先を歩いてほんの少し手を引っ張るから、美来はそれに釣られて歩きだした。
先ほどまで饒舌に喋っていた衣織が、何も喋らなくなる。
美来は俯いたまま、口を開いた。
「……だからこの前、ハルに送ってって頼んでくれたの?」
「うん、そう」
「……仕事、忙しいんじゃなかったの?」
「仕事は忙しいよ。でも、美来さんの方が大事」
泣きそうになる気持ちを抑えてする質問に、衣織はぽつりと答えてくれる。
仕事が忙しいのに、合間を縫ってわざわざストーカーから見張ってくれていたのだろうか。
好きだな、と改めて思うと、何かが心の内側で脈を打つ。ダメだダメだと言い聞かせる。
それはまるで除草剤を撒きながら、過剰に栄養剤を撒かれているみたいに。
アパートすぐ近くで立ち止まった衣織に釣られて、美来も立ち止まった。
ゆっくりとこちらを振り返った衣織は、美来を抱きしめた。
こんな所で。そう思うのに、彼の背中に手を回しているのだから、本当に救いようがないと思う。
「あー」
何だか身に染みるみたいな声を出して。
「すき」
そういうから。一気に気持ちが持って行かれてしまう。
さみしい、と言えば衣織は側に居てくれるのだと思う。
「でも、もう帰るよね」
しかし、固い意志を持たなければいけない事は分かっていて。
こくりと頷いてから、自分がちゃんと大人としての最低限の役割を果たしていることに安どする。
「衣織くん」
「んー」
「ありがとう」
衣織は優しい顔をして笑って、額に一つ、押し付けるみたいな口付けを落とす。
「どうしたしまして」
衣織の背中を見て、こんな時くらい押し切ってくれたらいいのになんて、バカげたことが考えるより先に頭に浮かぶ。