ダメな大人の見本的な人生

75:酩酊

 やめた方がいいと理性は言うのに、本能に近い部分が制してくる。
 ブレーキとアクセルを同時に踏んでいるような、錯覚。

 答える暇も、考える暇も、酸素を取り込む暇も与えずに舌を絡めてくるのはやめてほしい。

「ちょっと、まって」
「やだ」
「コーヒーは?」
「あと」

 人間というのは本当に厄介だ。身勝手といえる性急な態度が、自分が今この瞬間に誰かに必要とされているという幻想を植え付ける。自分という存在価値のバロメーター。他人の尺度にゆだねた不確か極まりない指針。

「私が家の中に入れたのは」
「うん」
「何か話があると思ったからで……」
「うん、あるよ。美来さん、今日も可愛い」

 そういう事じゃないと分かっていて言っているのだろうという確信。確信があるとわかっているのにそれでも押し切ろうとする傲慢さ。わかっているのに、どうしてこうも魅力的に写るのか。

「ダメ、だって、せっかく……」

 そこまで言って、美来は言葉をつぐんだ。
 言葉は選ばないといけない。
 せっかくの先に続く言葉はきっと、彼を傷つける。

「〝せっかく、距離をおいたのに〟?」

 冷たいと感じるくらい冷静で、ぽつりと響くくらい単調で、煙のようにすぐに消え失せた声。
 美来は思わず押し黙った。言いたかったことを言葉を選ばずに言うのなら、衣織の言う通りの言葉になるから。

 瞬時に衣織を傷つけない適切な言葉を思いつかなかった事を後悔した。しかし、おそらく絶好調でフル回転していようが結末は変わらなかったと思う。

 衣織が傷ついただろうと予想すると、自分の胸も痛む現実。

 酔っている。そうに違いないと思った。そうでなければまさか、衣織と年齢が離れていなければ話はもっと単純だったのに……なんて、考えても仕方がない事を本気で思ったりしなかっただろうから。

 見慣れた大して広くもないリビングが、いつもよりずっと広く感じる。一瞬でも手を放したらもう、二度と会えなくなるのではないかと錯覚するくらい。

 〝しよ〟という言葉に対する返事なんて突き詰めれば二択に決まっている。

 しかし〝イエス〟というのは頭のいい回答であるはずがない。傷つくと分かり切っているのに近付くことを自虐的と言わずに何というのか。
 〝ノー〟ならきっと、途方もなく広い世界でポツリと一人取り残された様な夜を過ごす。

 結局、どっちもどっち。本当はそうじゃない。また短絡的な思考が働いている。そう分かっているのに

「期待、しない?」

 誰かに委ねようとする。本当に大人として終わっている。
 真っ当な大人なら、ハルの様な選択をするのだ。相手の将来の為に距離を取って、関わってしまって縮まった距離の責任をしっかりと自分で取る。

()()()、しない」

 衣織の言葉が嘘だと分かっているのに。

 酒は言い訳。酔いがなくてもきっと、次から次に言い訳は出てくる。
 衣織と夜を過ごしたいという事実に絡みついて、覆い隠すくらいには。

「しないから、もういい?」

 この状況で切羽詰まった様子を押し殺している所がまたエロいんだよなと考えているあたりが救いようがない。

 だからもう、どう考えても似合っていない制服は、さっさと脱いでしまいたかった。





「おはよう」

 相変わらず完璧な角度での〝おはよう〟に浸る余裕もなく、義務感が美来をまどろみから一瞬にして叩き出した。

「今何時!?」

 美来は飛び起きて枕元置いている時計にかじりついた。
 起きていたならどうして起こしてくれなかったの、という絶望が喉元で次に控えている。

「まだ6時前だよ」

 衣織の言う通り、手元の時計は5時42分。

「なんだ……6時前か……」

 美来は時計から視線を逸らしてベッドに沈み込む、つもりだった。

「捕まえた」
「うわ……!」

 いつの間にか腕枕の位置に待機していた衣織が、美来がベッドに沈んだ途端に自分の方へと引き寄せた。
 身体が一瞬で衣織の腕の中に納まる。
 衣織は美来の首筋に顔を埋めて強く強く抱きしめた。

「ちょっと……!」
「まだ時間あるでしょ? どうする? もう一回する?」

 できるわけがない。仕事の前になんて絶対にできない。どんな体力お化けだと思われているんだ。
 しかし、なんとなく本気ではないのだろうなと思った美来は結構気長に構えていた。が、旅館の時にも急にスイッチが入った事を思い出したので美来はなるべく衣織を刺激しないように引き離す方向にシフトした。

「シャワー、行こうかな時間も時間だし」
「まだ早いでしょ?」
「そうだけど。たまには早いのもいいかなって」
「え~」

 くすぐったいから、首元で話すのはやめてほしい。
 そして連鎖して昨日の夜の事がよぎってドキドキしている。

「美来さんの心臓、ドキドキしてる」

 的を得た言葉に、今度は心臓がねじれた様な、強く掴まれた様な音を立てて、変な汗がにじんだ。

「昨日の事思い出してる? それとも、これからの事?」

 仕事なんだから絶対に無理だと思っていたのに、いつの間にか思考が書き換わっている。

 本当にこの子は女をときめかせる天才だと思う。
 今の衣織があるのは、今まで遊び相手になってきたお姉さまたちの汗と涙の結晶なのだと思うと本当にいろいろとありがとうございますと言わなければいけないのかもしれない。

「ダメだって!!!」

 美来はくるりと身を返してベッドの下にしゃがみこんだ。

「あっ、逃げられたー」

 衣織は平坦な口調で言って笑う。
 どうして30間近の大人に余裕がなくて18の子どもに余裕があるんだろう。

「美来さん、何時に出るの?」
「七時半、くらい」
「じゃあまだゆっくりできるね」

 衣織はもう切り替えが済んだらしい。
 いつも通りの彼に戻っている。これはチャンスと言えばチャンスで。今のうちにさっさとシャワーを浴びてしまおうと思い、ゆっくりと立ち上がった。

 ベッドに寝転んでいる衣織は、ぼんやりと天井を眺めている。考え事をしている様子だ。もしかすると彼の中で、今日最後にすると決めてきている、とか。でも昨日の様子では別れを切り出す態度ではなかったし。

 いろいろな妄想が頭の中に浮かぶ。
 しかし別れを告げる気でいるのかもしれないと思うと、〝どうしたの?〟という簡単な言葉さえ言えなくなる。
 もし本当に言われてしまったら取り返しがつかないなんて、バカな考えが頭に浮かんでいるから。

「コーヒー、淹れよっか?」
「うん」

 控えめに声をかけると、衣織はぼんやりとした表情が嘘だったかのようににこりと笑顔を作って美来の方を向いた。そして衣織は美来とばっちりと目が合うとほんの少し目を見開いて、それから小さく笑った。

「もしかしてずっと見てた?」
「うん……。でも、少しだけだよ」
「声かけてよ。ぼーっとしてた。恥ずかしい」

 そういう衣織は困った顔をしている。
 可愛い。そして同時に愛しいと思うのだから、救いようがない。

 これほど感情に振り回される関係も、感情が邪魔だと思う関係も、金輪際ないだろう。

 人間の感情をコントロールできるような機械が発明されて、この人とは一線を引く、と決めたら全く感情が動かないという仕組みが出来たらいいのになんて、非現実的なことを考えている。
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