ダメな大人の見本的な人生

76:朝

 美来は玄関に放り投げていたバッグからタバコの箱を取り出してキッチンに向かった。そのすぐ後ろをリビングから軽々と椅子を持ってきた衣織が付いてくる。
 当然のようにキッチンに椅子を運び入れる衣織に美来は思わず笑って、電気ケトルに水を入れてスイッチを押す。そして、これからの展開に気付かないフリをしてタバコに火をつけた。

 そして衣織は想像通り、椅子を美来と冷蔵庫の隙間に置いてまず自分が座った後、美来の腹部に腕を伸ばして引き寄せて、優しく自分の膝の上に誘導する。
 何の抵抗もなく、衣織の膝の上に腰を下ろした。

 時間の流れが目に見えるようだとすら思う。この感覚は、平日の朝とは思えない。
 まるで休日の午後。午前中に一仕事終えていて、まだ時間があるからこれから何をするか、という余裕がある土曜日の午後のような。

 平日、仕事の前にこんなにゆっくりとした気持ちでタバコを吸うのは初めてかもしない。

 美来は換気扇に吸い込まれていくタバコの煙をぼんやりと見ながら、この満ち足りた時間について考えを巡らせていた。
 こんな朝にはきっと、熱いコーヒーとバターをたっぷりとつけた厚切りのトーストが似合う。

 別に苦痛な仕事が無くなるわけでも、仕事の時間が短くなるわけでもない。
 いつもと違う事は、早起きをしたことと、衣織が黙って後ろにいること。本当にただそれだけ。

 なにか考え事をしているのか、ちらりと盗み見た衣織は、先ほどのベッドの上で見せた表情と同じ顔でぼんやりとしていた。
 きっと彼なりに何か思う所があるのだろうとわかっているから、あえて触れない。それでも今は、将来とか不安とかそんなものを度外視して、幸せだという事実だけでこの朝を埋めたい。

 タバコを吸い終わり立ち上がろうとすると、衣織の腕にはそれを制するように少しだけ力が込められた。しかしその力はすぐに緩まって、美来は立ち上がることを許される。

「先にシャワー浴びてきてもいい?」
「うん。いってらっしゃい」

 軽くシャワーを浴びている間に考えるのも、リビングで待っているであろう衣織の事。
 そしてさっさと浴室から出て下着と服を身に着けてからリビングに向かう最中で、髪の水分をタオルにしみこませた。その足でキッチンに向かい、マグカップを二つ取り出してコーヒーの粉を入れた。

「どれくらいの量入れるの?」
「テキトー。……これくらいかな」

 リビングからキッチンに移動した衣織は、美来の肩に顎を乗せて前のめりになって手元を覗き込んだ。
 負担にならないようにという配慮がわかるくらい、ほんの少し預けられた体重を、愛しいと思う。

「それくらいかー」
「……どうしたの、急に」
「いつか美来さんに淹れてあげたいって思うから」

 昨日、期待しないという約束で行為におよんだ気がするが、衣織はあの時は口から出まかせを言ったという事実の一切を隠すつもりがないらしい。

 平日の朝、それぞれ仕事に行く前に二人で一杯のコーヒーをゆっくりと飲む。仕事をして帰ればまた、二人で楽しく話ができる。
 それは一体、どれだけ幸せかと思っている時点で救いようがない。

 だけどきっと衣織も同じことを思っているのだろう。

「危ないよ」

 そう言いながら美来は電気ケトルからマグカップにお湯を注ぐ。それから、そういえば以前衣織に牛乳と砂糖を入れてほしいと言われたことを思い出して、一つのマグカップにはお湯を途中で入れるのをやめて、砂糖と牛乳を混ぜた。

「覚えててくれたの?」

 この問いかけは衣織の中で返事が必要ない問いかけだったらしい。美来が返事をするより前に、衣織は美来の頬に後ろから口付けを落とす。

「嬉しい」

 本当にこの子は女をときめかせる天才だ。そしてまた、自分が幸せの渦中にいる事を認識させられる。こんな多幸感を平日仕事の前に味わってしまっていいのだろうかと思うくらい。

 衣織は二人分のマグカップを持つとソファーの前のローテーブルに移動した。

「衣織くん、お腹すかない?」
「全然。美来さんは?」
「私も」

 昨日の夜の食事が残っているのか、全くお腹が空かない。それはどうやら衣織も同じらしい。
 二人でソファーに腰を下ろして温かいコーヒーに口をつける。温かい感覚が喉元を通って、重力には従わずに、ゆっくりと下っていく。

「あー、しあわせ」

 思わず頷いてしまいそうになる。恋愛経験は少ない方ではない。しかし今まで経験したどんな朝とも、どんな瞬間とも違う。
 幸せというのは日常に潜んでいて、不明確なそれをしっかりと自分のものにしている様な、そんな錯覚。

「衣織くんは今日、何するの?」
「とりあえず午前中講義受けて、午後は会社に行く」
「大変だね」
「お互い様だね」

 衣織は柔らかい笑顔を向ける。

 これを幸せと言わずに何というのか。こんな時間がずっと続いていけばいいのに。二人でいる幸せの確約があればきっと、苦痛な仕事すら頑張れるのだろう。そんな希望を求めて、人はきっと結婚するのだ。

「美来さんそろそろ準備しなきゃ」

 いつの間にか時間は6時半を過ぎている。

「うん。もう少し」

 衣織がせっかく側にいるのに、たらたらと準備をして時間を無駄にしたくないとすら思っている。きっと今、過去最高の効率で身支度を終えられる気がする。

 気を抜けば一緒にいられたらどれだけ幸せかと考えてしまう。
 だけどそれは衣織の幸せにはならないのだ。葵の側にいる方がいいに決まっている。そして実際に葵の側で仕事をすることを望んでいるのだ。
 それだけではない。もしかすると衣織の彼女になるという事は、世間体が気になる自分の幸せにすらならないかもしれない。

 30手前になってそんなギャンブルみたいな恋愛はやめておきたい。

 だからもし、自分が衣織と同じくらいの年齢だったら。何も考えずに衣織の側にいて、彼女として堂々とできていたかもしれない。
 もう少し若かったら、遊びだと割り切って幸せに浸っていられたかもしれない。

「美来さん、暗い顔してるー」

 衣織はそういって美来の頬を人差し指でつついた。

「暗い顔も可愛いけどね」

 そういってごまかすから思わず笑ってしまう。本当は笑っていられる余裕なんてほとんどない。きっと衣織もそうなのだろうという確信が美来にはあった。

 どこかで線を引かなければいけない事は嫌と言うほどわかっている。わかっているのに、もう距離をおいているのだから少しくらいならと都合のいい言い訳をして、先延ばしにしている。その結果がこれなのだ。

「とりあえず化粧しようかな」
「見てていい?」
「いやだよ、恥ずかしい」
「もっと恥ずかしいところ見てるから、大丈夫」

 どうして朝っぱらから最上級の笑顔で、そんなにさらりとド下ネタを混ぜてこられるのだろう。

 しかしたらたらしている暇はないので、テキパキと化粧をする。仕事モードの化粧なんて15分あれば充分だ。衣織は約15分の間、飽きる事なく美来が化粧をする様子を見ていた。

 美来が化粧を終えると、衣織は「いつもの美来さんだ」となぜか安心した様に呟いてシャワーを浴びに行った。
 彼の行動が予想できないのは今に始まった事ではないので大して気にもならないまま、美来は寝室で服を選んだ。多少綺麗に見えるようにはするが、服を選ぶことに気分の高まりを感じない美来は基本的にめんどうという感情を抱えたまま服を選ぶが、今日は久しぶりにこれを着てみよう、と前向きな気持ちになる。

 寝室で服を着替えてリビングに出ると、シャワーを終えた衣織が二つ分のマグカップを洗ってくれている所だった。衣織は美来に気付いて顔を上げると、ニコリと笑う。

「そのスカート初めて見た。似合ってるね」

 そして完璧な言葉をかけてくれるのだ。なんだかいつもこちらばかりがいい思いをしていることが申し訳なくなってくるくらい。

「ありがとう、マグカップも」
「うん。どういたしまして」

 しゃがみ込んでしばらく自分の世界に閉じこもって幸せを噛みしめたいくらいの幸福感。
 衣織の返事を聞き終えてから、美来は仕事用のバッグの中身を確認する。それから洗面所で軽く髪を巻いた。

 そうして美来が家を出る準備を終える頃には、衣織も準備を済ませていた。
 しっかりと身なりを整えた衣織を見て、もうお別れか、という気持ちになる。

「じゃあね、美来さん。気を付けて」
「うん。衣織くんもね」

 道の途中でそう言い合って別れる。衣織の背中はあっという間に見えなくなった。

 随分と時間に余裕のある朝だった。
 純粋な幸せを感じた朝。

 しかし美来は、きっと人生が交わらないと分かっている衣織と迎えた平日の朝だったから特別だったのだと言い聞かせて、会社に向かった。
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