ダメな大人の見本的な人生

77: 圧倒的勝利

【おごってやる集合】

 ハルから連絡が来たのは、衣織と幸せな朝を過ごした次の週の土曜日の事だった。

 メッセージの送受信者のアイコンが相違するというバグが発生しているのだろうと思った。

 しかしアプリをバックグラウンドから消し去ってみても、スマートフォン自体の電源を入れ直してみても、ハルから【おごってやる集合】と来ているメッセージの内容は変わらなかった。

 そしてそこでやっと、何事だ、信じられない。という気持ちが湧いてくる。
 約二年間ハルという男と関わっていたが、食事に誘われた事なんて、ましてやご馳走してくれるだなんて一度たりともなかった。

 パチンコで勝ったのだろうか。いやしかし、ハルという男はパチンコで勝ったところで自分の金を他人の為に使う事ができるような出来た人間ではない。
 一体どうしたというのか。もしかしたら誰かに罰ゲームをやらされているのだろうか。それとも本当に信じられないくらいの金が入ったから、こいつにご馳走してやるかと思ったのだろうか。

 しかしいつまでもくよくよしていても状況は一転しない。もしかすると痺れを切らしたハルがやっぱりなし、と言い出す予感もしていた。

【行く。どこ?】

 簡潔に返すと一分と経たずに既読が付いて、すぐに住所が送られてくる。
 インターネットで調べると、そこは普通の居酒屋だった。どうやら本当にご馳走してくれる気でいるらしい。美来は【すぐいく】と返事をしてから、ウキウキで準備をして家を出ると、居酒屋に向かった。

「おせーよ」

 ハルはすでに居酒屋の前で待っていた。店の看板のすぐそばにしゃがみこんで。いい大人が道端にしゃがみこむなんて。もう少しだけ人の目というのを気にした方がいいと思う。
 しかし、何度でも言うが羨ましい限りだ。〝他人なんてどうでもいい、自分は自分が全て〟と胸を張って言える能力を持って生まれてきたかった。

「……本当にご馳走してくれるの?」
「おー。なんでも好きなの頼めよ」
「なんで? なんでご馳走してくれるの?」
「パチンコで大勝ちしたから、臨時収入入ったんだよ」

 やっぱりね、そんな事だろうと思った。と思ったが、今ハルの機嫌を損ねて酒にありつけなくなっては困る美来は心の中で思うだけにしておいた。しかし、パチンコで勝った金を〝臨時収入〟と呼ぶのはやめてほしい。

 ハルは上機嫌な様子だ。わかりやすい性格をしている。

「好きなもの頼んでいいの?」
「おー頼め頼め」

 美来はメニューに視線を移す。どこの店とも大して変わらない居酒屋のメニューだが、〝ローストビーフ〟の文字を見つけて金額を見て、それから顔を上げた。

「ローストビーフはー……ダメ?」
「好きなもの頼んでいいって言ってんだろ」

 美来は思わず笑顔になる。
 そして何をしても大して上りはしないハルという男の株が急上昇した。

 ハルはやはり上機嫌だ。

「じゃあローストビーフとー……あとはー」

 しかし美来の思考は、ちょっと待てよと動きを止める。それからあまりにいつものハルと違い過ぎて、疑いにかかっていた。

 大丈夫かコイツ。後から、うっそ~お前の奢りな~とか、とち狂ったことを言い出さないだろうか。
 美来は心配していたが、この男を疑い始めたらきりがないので何もかもをいったん忘れて食事を楽しむ方向にシフトした。

 次々に食事と酒が運ばれてくる。
 あっという間にテーブルは食事で埋まり、空っぽになった皿が廊下側に並んだ。
 ある程度腹を満たした後は、酒ばかりを飲んでいた。

「ハルもたまにはいいとこあるじゃーん」
「あったりめーだろお前。俺だって大勝ちした時くらいはして返すくらいの度量は持って生まれてきてんだよ」
「そっかー。大勝ちしたときにして返す度量を見せてもらうのに、二年かかったんだねー」
「ま、そういう事になるなー」

 適度に酔っぱらった二人は、へらへらと笑いながらまた酒を飲む。

「よおーし。美来。次の店行くぞ」
「おー」

 調子のいい返事をして、ハルに続いて二件目の店へと移動する。
 次にハルが選んだのは古い店だった。ガラガラとなる引き戸を開けると、コの字型のカウンターに座る数人の客と、真ん中にいる夫婦と思われる男女がこちらを見た。どうやら焼き鳥などを焼いて出してくれる店らしい。昭和の雰囲気があり、味のある店だった。

「おう、ハルくん。こりゃまた随分別嬪な子連れてるね~」
「顔はいいもんなー?」

 ハルは美来を見ながら茶化すように言う。

「なんの取り柄もないよりマシでしょ」

 とうとういつも通りの言葉を吐いてしまったが、ハルはいつも通りさらりと受け流してカウンターに座った。

「なんでもいいんだろ?」
「うん。おまかせー」

 隣に座った美来の返事を聞いたハルは、メニューも見ずに注文をし始める。
 一杯目のビールと一緒にすぐに焼き鳥が来た。

 まずビールに口をつけて、それからまだ熱い焼き鳥を頬張って、それからまたビールに口をつける。
 幸せ過ぎて昇天。外は寒いが、ビールは絶対に冷たい方がいいに決まっている。

「そーいえばさ、ハル」
「んー」
「実柚里ちゃんとデートしたの?」
「ああ。した」
「どうだった?」
「別にフツーだけど」

 〝別にフツー〟ほど曖昧なものは無いんだよ。どんな感じだったのかって聞いているんだから答えろよ。と思ったが、ご馳走してもらっている立場なので強く出るのはやめようと美来は酒でグラグラの理性で耐え忍んだ。

 しかし、隣に座るハルという男は他人にご馳走される立場でも無遠慮であるという事を思い出した美来は、やっぱり耐える事をやめようと思った。

「フツーってなによ。楽しかったとか楽しくなかったとか、いろいろあるでしょ」
「楽しかったよ」

 そう言うとハルは焼き鳥をほおばってビールで流し込んだ。そしてタンと音を立ててジョッキをテーブルに置く。

「で、もう会わないって言ってきた。それでおしまい」

 ハルのあっさりした言葉に、美来は心臓を掴まれた錯覚に陥っていた。ハルは本当に実柚里と距離を置くつもりなのだという事が嫌でもわかって。

 一週間前、衣織との関係に浸ってないものねだりをするだけの自分とは大違い。

「ハルって、本当に大人だね」

 そう言うとハルはまたビールに口をつけた。

「この話終わりな。奢ってやってんだから、付き合えよ」

 ハルはきっと、ハルなりに傷ついたのだろう。
 自分も相手が好きで、相手も自分が好きで。だけど自分の求める自由を選んで。それでいて相手の幸せを願った。

 今だけは、ハルを一人の大人として本当に尊敬する。

 美来はハルの頭をわしゃわしゃとして撫でた。

「付き合うに決まってるじゃん。失恋万歳」

 ハルは美来の手をうっとおしそうに払いのけるが、本気で嫌だと思っている訳ではない事はそこそこの付き合いでわかっていた。

「それやめろ」

 美来の手を払いのけたハルは、またビールを飲む。

 ハルはきっと何食わぬ顔で決断したフリをして、実柚里に言ったのだろう。
 それがどれだけ辛いものか、美来にはよく分かっていた。

 次は自分の番で、つまりハルの痛みは他人事ではない。他人事ではないことが分かっているけど、今は他人の為だと思って酒を煽り、できるだけ脳みその機能を下げる。
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