ダメな大人の見本的な人生

78:大人というものの定義

 酔っ払いというのは本当にろくなことを考えない。

 焼き鳥という酒のつまみの代名詞を片手にビールを飲み散らかした酔っ払い美来とハルが次にする事を話し合って出した結論は〝風を浴びる〟だった。

 店から出てしばらく歩き、公園の石畳を歩く。時々自動販売機があるありきたりな並木道で、ベンチが間を開けて等間隔で並べられている。
 朝にも夕方にも運動熱心な大人が精を出していそうな、そしてどこにでもありそうな公園の道。

「あー冷たい風が気持ちい~」

 11月。秋だか冬だかよく分からない季節。しかし、風と空気が冷たい事は確かだった。
 美来は並木道の正面から迫る風を、腕を広げて迎え入れた。

「やめとけよお前。アホに見えるぞ」

 そう言うハルの目ははたから見ればほぼ閉じている。ほとんど感覚で歩いていているのだろう。フラフラとおぼつかない。

 冷静ならいい大人が何をしているのだろうと思うところだが、酔った美来はこれも大人の楽しみだと胸を張りたい気持ちでいた。
 誰に早く帰ってこいと言われることもない。大人としての責任をしっかりと負っているからこそできる楽しみ方。そう考えると大人も案外悪くないと思う。しかし、本当に考えなければいけない事は完全に度外視している。大人になると、大切な物事を見て見ぬふりをするのが不必要に上手になる。

「ねーハル~」
「ああ~?」
「なんかさあ、大人ってこんなもんなんだなーって思わない?」
「って言うと?」
「なんて言うかさあー……自然に〝大人〟になるって思ってたって事。……もっとちゃんと自立しててー、何でもテキパキこなしてー、自分の気持ちの整理をしっかりとつけられる立派な人に、〝大人〟って呼ばれる人に、普通に生活していたらなれるんだと思ってたの」
「確かになー。ま、難しく考えてもわかんねーんだから、ある程度年齢いきゃ大人は大人って事でよくね。それに衣織や実柚里の年齢のガキからしたら、お前も俺も文句なしの大人だろ」

 確かに。衣織や実柚里の年齢からすればハルもそれから自分もどれだけ何もできなかろうと大人になるのだ。
 気持ちがついて行かないのは、きっと大人の方だけ。

「え、なにお前。もしかして衣織に気持ち持っていかれてもう手遅れ?」
「その言い方」
「別にいーんじゃねーの? 付き合えばさあ」
「他人事だと思って!」
「ちげーよ。そんなモンだろ。周り見てみろよ。結婚してずーっと異性として好きなんて夢物語だろ。長く一緒にいりゃ家族になるし、どうせ形はかわるんだよ。年齢とかで悩むのはどうせ最初だけだって」
「……じゃあどうしてハルは、実柚里ちゃんとさよならするの?」

 酔っていなければ、もう少し知的な言い方が出来たと思う。ただ、酔った頭でタイミングを逃さずに今すぐ聞きたいことを聞こうとすると、幼稚園児レベルの語彙力しかなかっただけ。

「適性がないから。……って、これ前にも言わなかったか?」

 ハルは話が長くなると思ったのか、歩くことをやめてベンチに腰を下ろした。美来はベンチに座るハルの前で立ち止まる。

「俺は誰かを意図的に幸せになんてできねーの。お前もわかってんだろ」

 確かにハルは誰かを幸せにしようと思って行動ができるような人間ではないだろう。約二年関わっていて、よく分かっている事だった。

「たまに会って、しょーもない話して、深く干渉しないままお互いの人生に帰ってく。今のままで、このまんまで充分なんだよ」

 充分、というにはハルの表情はさえない。形を持たない何かが、心の隙間から出てこない様に蓋をすることに慣れているのかもしれない。

 大げさなことを言うなら、きっとハルは自分自身の持っている素質に殺されかけているのだと思った。この広い世界で実柚里という気の合う子を見つけたのに、自由に一人で生きていきたいと思う自分の素質が、実柚里を拒絶する。
 まるで年齢を気にして、一歩を踏み出せない自分みたいに。

 ハルがまさか、物事をここまで深く考えているなんて知らなかった。自分と同じことを感じていて実柚里に別れを告げたのなら、ハルはきっと今、悲しくてたまらないだろう。

「なんか私……泣きたくなる」
「ええー。勘弁しろよめんどくさい」

 ハルは心底めんどくさそうに言う。
 熱い何かが腹の奥底から喉を通って込み上げてきて後はもう目から零れ落ちるだけだったのに、無駄に冷静なハルを見て、まるで逆再生しているみたいに熱い気持ちは喉元から腹の奥深くにすっと引っ込んでいく。

「結婚適正ナシ男。滅びたらいいのに」
「自分の顔面に振り回されるお前にだけは言われたくない」

 グーの根も出ないとはまさにこの事で、美来はむっとしたまま先ほどの零れ落ちかけた涙を指先で拭った。
 その様子を見たハルは眉を潜めて身を乗り出し、太ももに腕を預けて前のめりになって美来の顔を覗き込んだ。

「え、お前マジで泣いてんの?」

 いや、こんなものはくしゃみと一緒に少しだけ出た鼻水みたいなもので。と品性のかけらもない例えが頭の中に浮かんだが、酔った頭でそれ以上に適切な言葉が浮かばなかった。

「よーしよしよしよし」

 ほんの少し無言を決め込んでいる間、なぜかハルは大きな動物を愛でるみたいな言い方をして、美来の頭を撫でた。

 私は今何をされているのだろうと思いながらも、やはり寂しい夜には、そして特に寒い夜には人肌が恋しくなるもので。

「なんか……思ったより悪くないね」
「……まあ、悪くはねーな」

 ぼそりと感想を述べる美来に、ハルもぼそりという。
 理性を保っているギリギリで酔っているからできる事なのだという自覚が美来にはあって、同時におそらくハルにもその認識があるのだろうと美来は思っていた。

「甘えることなんてないし甘やかしといてもらお」

 美来はそういってハルの隣に腰を下ろした。

「しゃーねーな。甘やかすこともねーから、甘やかしといてやるよ」

 そういってハルは隣に座った頭を撫でる。
 不覚にもハルがいい男に見えるのは明らかに酔っているからで、衣織がちらついて仕方ないのはきっと、共通の知り合いだからだと思う。
 大人同士の関係に、そんなものは一切関係ないのだが。

 ハルは頭を撫でる事に飽きたのか、両腕をベンチの背の上の部分に預けた。肩を組まれている、と言えばそうとも言えるこの状況。それなのに。

「この状況でもハルに惚れる未来が浮かばないって……ハルの才能なのか私の才能なのか」
「バカだなお前。女は飢えてる時に頼った男に弱ェんだよ」
「それ、本当なのかな?」
「試してみる?」

 何の気も様子のハル。しかし、きっとハルも寂しいのだろうと思った。
 きっと、似た者同士。そして人間というのは、孤独に耐えられるようには作られていないのだと思う。

「いや、おい黙んな。乗って来いよ」

 〝乗って来いよ〟その言葉をそのままの意味で受け取って、頭が一切働いていないままハルを跨いで、正面で向き合う様に座った。

 お望み通りのはずなのに、ハルはベンチの背の上に両肘を預けたままきょとんとした顔をしていて。それから、息を漏らして笑った。

「誰が膝の上に乗れって言ったよ。話に乗ってこいって事。ツッコめよって事だよ」
「ああ、なーんだ。そういう事。私バカみたいじゃん」

 美来はそういって降りようとするが、ハルの手が腰に回った。
 どうやらバカなのは、お互い様らしい。

「きらいじゃないんじゃん」
「わかってねーな。好きなんだよ」
「大人だねー」
「汚いほうのな」

 そう言うとハルは美来の顔に手を添えた。

「マジで綺麗な顔してんな」
「いいよ別に、そういう前戯」
「お前さー。人の純粋な褒め言葉〝前戯〟とか言うなよ」

 呆れたように笑うハルに唇を寄せてみる。
 ハルは背もたれに体重を預けたまま、少しだけ顎を上げた。

 〝大人〟という縛りを用いた男女の関係性において、おそらく絶対的な友情は成立しない。
 どちらかが少しでも魅了的な要素を含んでいる場合、その方程式はゆっくりと確実に破綻する。ちょうど、こんな風に。

「お互いさ、好きになったのが、〝大人〟ならよかったのにね。そしたらきっと悩むことはなかったと思うし。全部全部〝自己責任〟で片付けて、好き勝手にできたのに」
「こんな風に?」
「そう。こんな風に」

 唇を重ねると、ハルは美来の後頭部に片手を添えて引き寄せた。

 衣織とは全く違う色の安心感。ここから先、惚れた腫れたも、過去も未来も、全部全部、自己責任。相手を思いやる優しさなんて、周りの人間への配慮なんて、互いに少しも持ってはいない。
 大人とはそういうものだ。誰にも制限されない代わりに自分の行動の責任の全てを自分で取る事を、大人という。

 美来という女は二年間その気がなかった男にでさえ何の抵抗もなくキスができるし、ハルという男は二年間その気がなかった女にでさえ何の抵抗もなくキスができる。
 偶然二人とも、まともではない部類の大人だっただけ。

「お前も汚いほうの大人だな」

 ハルはそう言うと、離れようとする美来の後頭部に添えた手に力を入れて、もう一度引き寄せる。

「俺と一緒」

 大人相応の落ち着きを含んだ目を伏せた笑みはきっと、〝女〟にしか見せないのだろう。
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