ダメな大人の見本的な人生
80:悪運が底をついた日
「ま、もう仕方ねーだろいろいろと」
ハルは全て吹っ切れたのか、リラックスした様子で伸びをするとベッドから降りて立ち上がった。
「ヤったもんはヤったし」
「その言い方まじでやめて」
「とりあえずシャワー」
気だるげに頭をかきながらベッドに背を向けて歩き出す男に、昨日の夜、底知れない魅力を感じてゾクゾクしたことも、圧倒的な大人余裕を目の当たりにしてこんな抱き方をする人間がいるのかと思ったことも、自分から恥を捨ててさらにその先を求めたくなった事も一瞬にして記憶から抹消したくなった。
酒によってお互いに頭のネジが数本外れたからなのでは。つまり、ただただ酔っていただけだったのではと美来は本気で疑っていた。
まあ、昨日酒に酔っていたことは間違いないし、今更昨日の夜をなぞって考えてみたところでもう致してしまった事実は変わらないのだからいろいろと手遅れだ。
ハルはシャワーを浴びに行ったかと思えばもう戻ってきた。
美来がそろそろ一本タバコでも吸うか、と思っていた時の事だ。しかし、ハルが帰ってきてまた無音の中でタバコを吸うのも気まずい事が確定しているので、美来はタバコを諦めてシャワーを浴びた。
水圧の調子があまりよくないシャワーを浴びながら、無駄にデカい浴槽を横目に考える。今日が休日でよかった。と、考えてから本能に近い所がいやいや、と反論し出す。もしかすると今日が平日の方がいろいろと考えなくてすんでよかったのかもしれない。そうと思うと、生まれて初めて仕事に行きたいと思った。しかし、やっぱり仕事にはいきたくないな、と冷静になっていつもの結論にたどり着く。
どんな顔で出よう。どんな顔で何を話そう。シャワーを浴びながらいろいろなことを考えていたが、美来はとうとうめんどくさくなった。
別にセックスしたくらいで、そこまで気負わなくてよくない?
ダメな大人というのは、反省ができない人間でもある。
衣織の顔が浮かぶ。もし衣織がこの事を知ったら悲しむだろうか、それとも見損なうのだろうか。実柚里が知ったらどうだろう。その先は、衣織がこの事を知ったらと考えていた時と同じ。
酒を飲んだ自分としらふの自分はまるで別人みたいだ。
なんにせよ、衣織とはハル以上に普通の顔をして会う事はできないだろう。距離を取る絶好の機会だ。
見損なえばいい。そんな軽い女だったなんて知らなかったと責めたらいい。でもやっぱり、見損なわないでほしい。
うじうじする自分に思いきり溜息を吐き捨ててからシャワールームを後にする頃にはもう、ハルとの現状が気まずいという事実は頭からすっぽ抜けていた。
ソファーに座ってテレビを見ているハルを見て、先ほどの気まずいと思った感情を他人事のように思い出す。
頭を冷やすというその場を離れる行為は本当に効果があるようだ。
「あ、コーヒーあるじゃん」
美来は電気ケトルでお湯を沸かしながら、個包装になっているドリップコーヒーをマグカップにセットした。
「ハルも飲むー?」
「俺はいいー」
「んー」
美来は一人分のコーヒーを入れると、ハルの隣に腰を下ろした。
「隣、失礼ー」
「おー」
ハルからもやはり先ほどの様な気まずさを感じない。
ハルはおそらくシャワーを浴びる前から〝やってしまったものは仕方がない〟と思っていたのだろうが、シャワーを浴びて冷静になった結果、本当の意味で納得したのだと思う。
美来はやはり自分とハルには似た所があると思っていた。
美来はコーヒーを飲んで息を吐く。
二年間飲み仲間だった男と一晩を共にしてドタバタと迎えた朝だって、コーヒーは美味しい。
「寂しさに任せてセックスなんてするもんじゃないね」
「急に重いな」
しかしハルは興味があるのかリモコンを操作するのをやめた。
「なんか虚しくならない?」
「ならない」
はっきりと言い切った後、ハルはもう一度口を開く。
「……は、嘘になるな」
今日のハルは、めずらしく素直だ。
「大人ってイヤだね」
「酒って怖いな」
二人でそういって笑い合う事ができるのだから、とりあえず関係性は破綻しなさそうで安心した。
もともとダメだと自覚があるタイプの大人同時だ。感性は近いものがある。
美来はタバコに火をつけた。
太陽の光すら一筋も入らず完全に隔離された部屋に煙を吐いて、限られた空気を汚す。
だけどきっと心の中に衣織がいなければ。ハルの場合、実柚里がいなければ。
わざわざ罪悪感を感じて心を抉られる気持ちになることもなかったのだろう。
「俺にも一本ちょうだい」
二年間隣で酒を飲んでいて、ハルがタバコを吸っている所を知らない。
「どーぞー」
テキトーな口調で言うと、ハルは慣れた様子でタバコを取り出して火をつける。
おそらく、ハルは喫煙者だ。もしかすると禁煙に成功した元喫煙者かもしれないが。
ハルのどことなく暗くて気だるげな雰囲気に、タバコはよく似あう。
涼しい顔をしてタバコをふかすハルは、自らを堕としているのかもしれない。
堕ちると決めたらどこまでも堕ちて行く。そして底を打ってから初めてゆっくりと上がる準備をする。
なんの気のない、涼しい顔をして。
お互いに想う人がいて、その人と近づけない理由がある。だから、他の異性と身体を重ねる。
極めて、自虐的。
大人というのは本当にろくなものではなくて。大人になってから時々、自分の手綱を手放してしまいたくなる衝動に駆られる。ちょうど、昨日の夜みたいに。
「そろそろ帰る?」
「だな」
垂れ流したテレビを見て同じタイミングで軽く笑い合ったり、タバコを吸ったり。しばらくゆっくりした後、部屋を出る事に決めた。
ホテルから帰る朝が、こんなに淀んで見えたことはない。
ハルが悪いという話ではない。
ただ、これからの人生でこんな朝はもういらないと思った。
「じゃーな」
「うん」
もしもハルと関係を持ったのがホテルではなく自分の部屋だったら、もう少し気分は違ったのかもしれない。
ホテルから帰る間にできる事なんて考え事くらいしかなくて。
じゃあ何を考えるって、先ほどまでの一番色の濃い出来事に決まっていて。
だからきっと、自分の弱さや汚さを自分自身に焼き付けているから、不快で不快で堪らないのだと思う。
朝、というにはもう遅い時間が、行き過ぎた怠惰を叩きつけるみたいに自覚させる。
家に帰ったらまず、もう一度シャワーを浴びよう。その間に頭の整理をして、衣織に〝もう会わない〟と連絡をしよう。
どんな言葉にしよう。どんな言葉が返ってくるだろう。そう考えるだけで気分が荒んでいく。
せめて何か一つくらい楽しみがあってもいいと思う。しかし人生はなんだか、苦しい事ばかりだ。
昼から酒を飲みたい気分。アルコールで頭をぼかして、脳みその機能を意図的に下げたい。
きっとアルコール中毒とはこんな形でなっていくのだろうと思った。
もうすぐ家。
多分心臓は、一瞬だけ本当に止まったと思う。
自分の部屋のドアには衣織が寄り掛かって座り込んでいた。
立ち止まる美来に気付いたのか、衣織は気だるげに力を抜いていた頭を持ち上げて、読めない顔で美来を見た。それからまた視線を下ろして、ゆっくりと立ち上がる。
衣織は美来に向き合うように立つと、怖いくらい綺麗な顔で笑った。
「おはよう」
朝というには、もう遅い。
ハルは全て吹っ切れたのか、リラックスした様子で伸びをするとベッドから降りて立ち上がった。
「ヤったもんはヤったし」
「その言い方まじでやめて」
「とりあえずシャワー」
気だるげに頭をかきながらベッドに背を向けて歩き出す男に、昨日の夜、底知れない魅力を感じてゾクゾクしたことも、圧倒的な大人余裕を目の当たりにしてこんな抱き方をする人間がいるのかと思ったことも、自分から恥を捨ててさらにその先を求めたくなった事も一瞬にして記憶から抹消したくなった。
酒によってお互いに頭のネジが数本外れたからなのでは。つまり、ただただ酔っていただけだったのではと美来は本気で疑っていた。
まあ、昨日酒に酔っていたことは間違いないし、今更昨日の夜をなぞって考えてみたところでもう致してしまった事実は変わらないのだからいろいろと手遅れだ。
ハルはシャワーを浴びに行ったかと思えばもう戻ってきた。
美来がそろそろ一本タバコでも吸うか、と思っていた時の事だ。しかし、ハルが帰ってきてまた無音の中でタバコを吸うのも気まずい事が確定しているので、美来はタバコを諦めてシャワーを浴びた。
水圧の調子があまりよくないシャワーを浴びながら、無駄にデカい浴槽を横目に考える。今日が休日でよかった。と、考えてから本能に近い所がいやいや、と反論し出す。もしかすると今日が平日の方がいろいろと考えなくてすんでよかったのかもしれない。そうと思うと、生まれて初めて仕事に行きたいと思った。しかし、やっぱり仕事にはいきたくないな、と冷静になっていつもの結論にたどり着く。
どんな顔で出よう。どんな顔で何を話そう。シャワーを浴びながらいろいろなことを考えていたが、美来はとうとうめんどくさくなった。
別にセックスしたくらいで、そこまで気負わなくてよくない?
ダメな大人というのは、反省ができない人間でもある。
衣織の顔が浮かぶ。もし衣織がこの事を知ったら悲しむだろうか、それとも見損なうのだろうか。実柚里が知ったらどうだろう。その先は、衣織がこの事を知ったらと考えていた時と同じ。
酒を飲んだ自分としらふの自分はまるで別人みたいだ。
なんにせよ、衣織とはハル以上に普通の顔をして会う事はできないだろう。距離を取る絶好の機会だ。
見損なえばいい。そんな軽い女だったなんて知らなかったと責めたらいい。でもやっぱり、見損なわないでほしい。
うじうじする自分に思いきり溜息を吐き捨ててからシャワールームを後にする頃にはもう、ハルとの現状が気まずいという事実は頭からすっぽ抜けていた。
ソファーに座ってテレビを見ているハルを見て、先ほどの気まずいと思った感情を他人事のように思い出す。
頭を冷やすというその場を離れる行為は本当に効果があるようだ。
「あ、コーヒーあるじゃん」
美来は電気ケトルでお湯を沸かしながら、個包装になっているドリップコーヒーをマグカップにセットした。
「ハルも飲むー?」
「俺はいいー」
「んー」
美来は一人分のコーヒーを入れると、ハルの隣に腰を下ろした。
「隣、失礼ー」
「おー」
ハルからもやはり先ほどの様な気まずさを感じない。
ハルはおそらくシャワーを浴びる前から〝やってしまったものは仕方がない〟と思っていたのだろうが、シャワーを浴びて冷静になった結果、本当の意味で納得したのだと思う。
美来はやはり自分とハルには似た所があると思っていた。
美来はコーヒーを飲んで息を吐く。
二年間飲み仲間だった男と一晩を共にしてドタバタと迎えた朝だって、コーヒーは美味しい。
「寂しさに任せてセックスなんてするもんじゃないね」
「急に重いな」
しかしハルは興味があるのかリモコンを操作するのをやめた。
「なんか虚しくならない?」
「ならない」
はっきりと言い切った後、ハルはもう一度口を開く。
「……は、嘘になるな」
今日のハルは、めずらしく素直だ。
「大人ってイヤだね」
「酒って怖いな」
二人でそういって笑い合う事ができるのだから、とりあえず関係性は破綻しなさそうで安心した。
もともとダメだと自覚があるタイプの大人同時だ。感性は近いものがある。
美来はタバコに火をつけた。
太陽の光すら一筋も入らず完全に隔離された部屋に煙を吐いて、限られた空気を汚す。
だけどきっと心の中に衣織がいなければ。ハルの場合、実柚里がいなければ。
わざわざ罪悪感を感じて心を抉られる気持ちになることもなかったのだろう。
「俺にも一本ちょうだい」
二年間隣で酒を飲んでいて、ハルがタバコを吸っている所を知らない。
「どーぞー」
テキトーな口調で言うと、ハルは慣れた様子でタバコを取り出して火をつける。
おそらく、ハルは喫煙者だ。もしかすると禁煙に成功した元喫煙者かもしれないが。
ハルのどことなく暗くて気だるげな雰囲気に、タバコはよく似あう。
涼しい顔をしてタバコをふかすハルは、自らを堕としているのかもしれない。
堕ちると決めたらどこまでも堕ちて行く。そして底を打ってから初めてゆっくりと上がる準備をする。
なんの気のない、涼しい顔をして。
お互いに想う人がいて、その人と近づけない理由がある。だから、他の異性と身体を重ねる。
極めて、自虐的。
大人というのは本当にろくなものではなくて。大人になってから時々、自分の手綱を手放してしまいたくなる衝動に駆られる。ちょうど、昨日の夜みたいに。
「そろそろ帰る?」
「だな」
垂れ流したテレビを見て同じタイミングで軽く笑い合ったり、タバコを吸ったり。しばらくゆっくりした後、部屋を出る事に決めた。
ホテルから帰る朝が、こんなに淀んで見えたことはない。
ハルが悪いという話ではない。
ただ、これからの人生でこんな朝はもういらないと思った。
「じゃーな」
「うん」
もしもハルと関係を持ったのがホテルではなく自分の部屋だったら、もう少し気分は違ったのかもしれない。
ホテルから帰る間にできる事なんて考え事くらいしかなくて。
じゃあ何を考えるって、先ほどまでの一番色の濃い出来事に決まっていて。
だからきっと、自分の弱さや汚さを自分自身に焼き付けているから、不快で不快で堪らないのだと思う。
朝、というにはもう遅い時間が、行き過ぎた怠惰を叩きつけるみたいに自覚させる。
家に帰ったらまず、もう一度シャワーを浴びよう。その間に頭の整理をして、衣織に〝もう会わない〟と連絡をしよう。
どんな言葉にしよう。どんな言葉が返ってくるだろう。そう考えるだけで気分が荒んでいく。
せめて何か一つくらい楽しみがあってもいいと思う。しかし人生はなんだか、苦しい事ばかりだ。
昼から酒を飲みたい気分。アルコールで頭をぼかして、脳みその機能を意図的に下げたい。
きっとアルコール中毒とはこんな形でなっていくのだろうと思った。
もうすぐ家。
多分心臓は、一瞬だけ本当に止まったと思う。
自分の部屋のドアには衣織が寄り掛かって座り込んでいた。
立ち止まる美来に気付いたのか、衣織は気だるげに力を抜いていた頭を持ち上げて、読めない顔で美来を見た。それからまた視線を下ろして、ゆっくりと立ち上がる。
衣織は美来に向き合うように立つと、怖いくらい綺麗な顔で笑った。
「おはよう」
朝というには、もう遅い。