ダメな大人の見本的な人生
81:甘い地獄
きっと目の前の彼は昨日の夜の二人の出来事を知っているという、直感。
美来は自分に落ち着けと言い聞かせた。変に勘繰ってしまっているのかもしれない。普通に考えて、衣織が昨日の夜の事を知っているはずがないじゃないか。そうなれば考えるだけ無駄で、まったく不必要な事だ。
逆に不審に思われるかもしれない。
「どうしたの、こんな朝から」
普通にしていよう。そう思った美来は、平然を装って言いながら鍵穴に鍵を差し込もうとする。それはようやく何度目かで成功する。
「美来さんに会いたいなーって思って」
いつも通りに感じる衣織の顔を見る事はできなかった。
「寒かったでしょ? とりあえず上がってコーヒーでも飲んだら?」
自分がいつも通りに衣織に接することができているのか考えられるほど、頭が回っている訳ではなかった。
張り詰めている意識の外側で、おそらく今の言葉は普通ではないと、ほんの少しの違和感がそう言った。
衣織は何も答えない。今の言葉は警戒心を煽っただろうか。
脳みそは無意識に、解決策を模索し始める。
どうすれば何事もなく帰ってもらえるだろうか。帰ってもらうには、部屋に上がるかなんて聞かない方がよかったのでは。
しかしその時にはもう鍵がガチャリと音を立てていた。
「衣織くん、いつからいるの?」
美来はドアを開いて中に入り、靴を脱いだ。
「いつからでしょう?」
まるでクイズ番組の質問のように、衣織はやはりいつも通りの口調で答える。
衣織は内側から鍵をかけると靴を脱ぐ。
「わからないから聞いてるんだよ」
美来は衣織より先に廊下を歩いた。
一足遅れて、自分の後ろから足音が聞こえて、衣織も廊下を歩いている事を認識する。
「それじゃあクイズにならないじゃん」
リビングはカーテンで閉め切られていてほのかに暗い。美来はそんな事に意識を向ける余裕もなく電気をつけないまま、ダイニングテーブルにバッグを置いた。
とりあえず、今を乗り切る方法を――
「昨日、ふたりがホテルに入って行ってから」
心臓は跳ねる暇もなかったのか。それとも、衝撃にまぎれて跳ねたことに気付かなかっただけか。
衣織は美来の顔を引っ掴むと、乱暴に口づけた。
どちらかがぶつかったバッグは床に落ち、中身が散乱する。
経験したことのない口付けだった。
何が起こったのか理解する間もなく、苦しくて。脳みその機能が全部、生きる事だけに執着して、呼吸をしろと急かしてくる。
あるとするなら、焦り。死ぬかもしれないという焦り。
身体が内側から火照るみたいに熱くなる。
「待って、」
「次は俺と遊んでよ」
無理矢理抑えつけられたソファーの上で見上げた衣織は、まるで何の感情もないみたいな顔をして。言葉はセリフを言っているのかと思うくらい、平坦で。自分のポケットに入ったスマホが鳴っている事にさえ気をやらない。
あの優しい衣織が、別人みたいだ。明確な悪意があってズタズタに傷つけてやろう、という故意的な何かが今の衣織にはあった。
服の中に入り込む衣織の手は、身震いするほど冷たい。
一晩中、ホテルに入っていったのは間違いできっと帰ってくるという可能性に賭けていたのだろうか。
どれだけ寒かっただろう。どれだけ寂しかっただろう。
彼にこんなことをさせてしまったのは自分なのだと自覚する。大切にしたかったはずのこの子を傷つけてしまったのだと思った。
「待って、……できない」
かすれた声は、恐怖ではない。
傷つけてしまったことに対する後悔と、これから自分自身を傷つけようとしている衣織に対する底のない罪悪感。
「大丈夫。できないことないよ。脱いで挿れるだけなんだから」
綺麗な笑顔だけを表面に出して、衣織は言う。
「ずっと隣で飲んでるだけだったハルさんとできるんだもん。何回もヤってる俺とできないはずないよ」
まるで、傷つける言葉をあえて選んでいるみたいに。
「美来さんは何もしなくていいよ」
衣織はそう言うと、美来に顔を寄せた。
「俺が勝手にヤってるから」
やはりハルは正しかったのだと思った。
深い傷を負わせる前に引き離したハルは、やっぱり正しかった。
日が傾いていることは、西日が部屋に入り込もうとする様子でわかった。
ほとんど無理矢理、寝室に移動させられたことは覚えている。
美来は慣れ親しんだベッドの感覚に身をゆだねる。今朝のホテルとは違う感覚。
横になっているだけなのに身体の節々は痛いし、言葉にできないところも痛い。
長いと思っていた時間は、思い返してみると短くて。しかし密度を考えれば吐き気がするほど長かった。
丸まって横たわっている背中側に、衣織の気配を感じる。しかし、どんな顔をすればいいのかわからなかったから、寝たふりをする事にした。
衣織が家の前で待っているなんて。まさかホテルに入るところを見ているなんて。
衣織は一晩、どんな気持ちで――
先ほど考えた事と全く同じことを頭の中でなぞる。
美来は冷静になって考えていた。部屋の前で待っていた衣織を前にした自分は、やっぱり普通ではなかった。別れという結末に到着するまでの道順を考える余裕が全くなかった。衣織の顔を見るまで、何を言って別れを切り出そうかと考えていたのに、焦ってその場しのぎだけに考えをシフトさせていた。
人間は土壇場で本性を現すと言うが、これが自分の本質なのかもしれない。
本当に面倒な性質を持って生まれてきたものだ。
もうなんだか、生きる事すらも面倒になってくる。
「美来さん、起きてるでしょ」
後ろ側から静かに問いかける衣織に、バレた、と素直に思った。
「……起きてる」
観念してそう言うと、ベッドが少しきしんでシーツが擦れる音がした。
「こっち向いて」
「イヤだ」
ごく自然に言った〝イヤだ〟はいつも通りの戯れと、それから先ほどの甘い地獄の名残。
痛い事も苦しい事もたくさんされたし、イヤだと泣いて拒絶したことも笑顔で流された。
だけど〝こっち向いて〟という衣織の声は、いつも通り、優しかった。体中が骨の髄まで優しい衣織を思い出して、泣きそうになるくらい。
衣織は美来の肩を掴むと、無理矢理反転させた。
そして美来が文句を言う間も、顔を見る時間も与えずに抱きしめる。
「それでもいいよ」
抑えた衣織の声は、ほんの少しだけ震えていた。
何が怖くて、何が言いたくなくて、この子の声は震えているのだろう。
衣織の言う〝それでも〟が、美来にはわからなかった。
「ハルさんとの関係があってもいいよ」
美来は思わず目を見開いて、そして視線を迷わせた。
「それでもいいから、一緒にいようよ」
衣織の〝傷〟を目の当たりにした気がした。
彼の悲痛な気持ちを痛いくらいに感じる。そして本当の意味で、自分がとんでもない事をしでかした事に気が付き、〝責任〟という言葉が、頭の中を蠢く。
「美来さん」
そういって肩に顔を埋める衣織を、心の底から愛しいと思った。
そしてハルの取った行動の意味を理解できた。こんな風に悲しい顔をさせるから、ハルは最初から期待をさせる暇もなく実柚里を引き離したのだろう。
だけどどうせもう、手遅れなら。
「シよ、衣織くん」
もうほとんど残っていない性欲を一滴残らず吐き出したい訳ではない。ただ思い出の最後には。本当の本当に最後には、あの人に求められて優しく抱いたのだという未来での許しを、衣織にあげようとおもった。
いや、もしかするとそれはただの方便かもしれない。最後の最後くらいは素直に衣織に、愛されたいのかもしれない。
きっとこれが終われば、衣織はすぐに帰る。
今朝から今もずっと、衣織のスマートフォンが鳴っているから。
これで最後。
だから
「今度は、優しくしてね」
まるでこれからの続く日常のありふれた一ページの真ん中みたいに、ありきたりな言葉を選んだ。
美来は自分に落ち着けと言い聞かせた。変に勘繰ってしまっているのかもしれない。普通に考えて、衣織が昨日の夜の事を知っているはずがないじゃないか。そうなれば考えるだけ無駄で、まったく不必要な事だ。
逆に不審に思われるかもしれない。
「どうしたの、こんな朝から」
普通にしていよう。そう思った美来は、平然を装って言いながら鍵穴に鍵を差し込もうとする。それはようやく何度目かで成功する。
「美来さんに会いたいなーって思って」
いつも通りに感じる衣織の顔を見る事はできなかった。
「寒かったでしょ? とりあえず上がってコーヒーでも飲んだら?」
自分がいつも通りに衣織に接することができているのか考えられるほど、頭が回っている訳ではなかった。
張り詰めている意識の外側で、おそらく今の言葉は普通ではないと、ほんの少しの違和感がそう言った。
衣織は何も答えない。今の言葉は警戒心を煽っただろうか。
脳みそは無意識に、解決策を模索し始める。
どうすれば何事もなく帰ってもらえるだろうか。帰ってもらうには、部屋に上がるかなんて聞かない方がよかったのでは。
しかしその時にはもう鍵がガチャリと音を立てていた。
「衣織くん、いつからいるの?」
美来はドアを開いて中に入り、靴を脱いだ。
「いつからでしょう?」
まるでクイズ番組の質問のように、衣織はやはりいつも通りの口調で答える。
衣織は内側から鍵をかけると靴を脱ぐ。
「わからないから聞いてるんだよ」
美来は衣織より先に廊下を歩いた。
一足遅れて、自分の後ろから足音が聞こえて、衣織も廊下を歩いている事を認識する。
「それじゃあクイズにならないじゃん」
リビングはカーテンで閉め切られていてほのかに暗い。美来はそんな事に意識を向ける余裕もなく電気をつけないまま、ダイニングテーブルにバッグを置いた。
とりあえず、今を乗り切る方法を――
「昨日、ふたりがホテルに入って行ってから」
心臓は跳ねる暇もなかったのか。それとも、衝撃にまぎれて跳ねたことに気付かなかっただけか。
衣織は美来の顔を引っ掴むと、乱暴に口づけた。
どちらかがぶつかったバッグは床に落ち、中身が散乱する。
経験したことのない口付けだった。
何が起こったのか理解する間もなく、苦しくて。脳みその機能が全部、生きる事だけに執着して、呼吸をしろと急かしてくる。
あるとするなら、焦り。死ぬかもしれないという焦り。
身体が内側から火照るみたいに熱くなる。
「待って、」
「次は俺と遊んでよ」
無理矢理抑えつけられたソファーの上で見上げた衣織は、まるで何の感情もないみたいな顔をして。言葉はセリフを言っているのかと思うくらい、平坦で。自分のポケットに入ったスマホが鳴っている事にさえ気をやらない。
あの優しい衣織が、別人みたいだ。明確な悪意があってズタズタに傷つけてやろう、という故意的な何かが今の衣織にはあった。
服の中に入り込む衣織の手は、身震いするほど冷たい。
一晩中、ホテルに入っていったのは間違いできっと帰ってくるという可能性に賭けていたのだろうか。
どれだけ寒かっただろう。どれだけ寂しかっただろう。
彼にこんなことをさせてしまったのは自分なのだと自覚する。大切にしたかったはずのこの子を傷つけてしまったのだと思った。
「待って、……できない」
かすれた声は、恐怖ではない。
傷つけてしまったことに対する後悔と、これから自分自身を傷つけようとしている衣織に対する底のない罪悪感。
「大丈夫。できないことないよ。脱いで挿れるだけなんだから」
綺麗な笑顔だけを表面に出して、衣織は言う。
「ずっと隣で飲んでるだけだったハルさんとできるんだもん。何回もヤってる俺とできないはずないよ」
まるで、傷つける言葉をあえて選んでいるみたいに。
「美来さんは何もしなくていいよ」
衣織はそう言うと、美来に顔を寄せた。
「俺が勝手にヤってるから」
やはりハルは正しかったのだと思った。
深い傷を負わせる前に引き離したハルは、やっぱり正しかった。
日が傾いていることは、西日が部屋に入り込もうとする様子でわかった。
ほとんど無理矢理、寝室に移動させられたことは覚えている。
美来は慣れ親しんだベッドの感覚に身をゆだねる。今朝のホテルとは違う感覚。
横になっているだけなのに身体の節々は痛いし、言葉にできないところも痛い。
長いと思っていた時間は、思い返してみると短くて。しかし密度を考えれば吐き気がするほど長かった。
丸まって横たわっている背中側に、衣織の気配を感じる。しかし、どんな顔をすればいいのかわからなかったから、寝たふりをする事にした。
衣織が家の前で待っているなんて。まさかホテルに入るところを見ているなんて。
衣織は一晩、どんな気持ちで――
先ほど考えた事と全く同じことを頭の中でなぞる。
美来は冷静になって考えていた。部屋の前で待っていた衣織を前にした自分は、やっぱり普通ではなかった。別れという結末に到着するまでの道順を考える余裕が全くなかった。衣織の顔を見るまで、何を言って別れを切り出そうかと考えていたのに、焦ってその場しのぎだけに考えをシフトさせていた。
人間は土壇場で本性を現すと言うが、これが自分の本質なのかもしれない。
本当に面倒な性質を持って生まれてきたものだ。
もうなんだか、生きる事すらも面倒になってくる。
「美来さん、起きてるでしょ」
後ろ側から静かに問いかける衣織に、バレた、と素直に思った。
「……起きてる」
観念してそう言うと、ベッドが少しきしんでシーツが擦れる音がした。
「こっち向いて」
「イヤだ」
ごく自然に言った〝イヤだ〟はいつも通りの戯れと、それから先ほどの甘い地獄の名残。
痛い事も苦しい事もたくさんされたし、イヤだと泣いて拒絶したことも笑顔で流された。
だけど〝こっち向いて〟という衣織の声は、いつも通り、優しかった。体中が骨の髄まで優しい衣織を思い出して、泣きそうになるくらい。
衣織は美来の肩を掴むと、無理矢理反転させた。
そして美来が文句を言う間も、顔を見る時間も与えずに抱きしめる。
「それでもいいよ」
抑えた衣織の声は、ほんの少しだけ震えていた。
何が怖くて、何が言いたくなくて、この子の声は震えているのだろう。
衣織の言う〝それでも〟が、美来にはわからなかった。
「ハルさんとの関係があってもいいよ」
美来は思わず目を見開いて、そして視線を迷わせた。
「それでもいいから、一緒にいようよ」
衣織の〝傷〟を目の当たりにした気がした。
彼の悲痛な気持ちを痛いくらいに感じる。そして本当の意味で、自分がとんでもない事をしでかした事に気が付き、〝責任〟という言葉が、頭の中を蠢く。
「美来さん」
そういって肩に顔を埋める衣織を、心の底から愛しいと思った。
そしてハルの取った行動の意味を理解できた。こんな風に悲しい顔をさせるから、ハルは最初から期待をさせる暇もなく実柚里を引き離したのだろう。
だけどどうせもう、手遅れなら。
「シよ、衣織くん」
もうほとんど残っていない性欲を一滴残らず吐き出したい訳ではない。ただ思い出の最後には。本当の本当に最後には、あの人に求められて優しく抱いたのだという未来での許しを、衣織にあげようとおもった。
いや、もしかするとそれはただの方便かもしれない。最後の最後くらいは素直に衣織に、愛されたいのかもしれない。
きっとこれが終われば、衣織はすぐに帰る。
今朝から今もずっと、衣織のスマートフォンが鳴っているから。
これで最後。
だから
「今度は、優しくしてね」
まるでこれからの続く日常のありふれた一ページの真ん中みたいに、ありきたりな言葉を選んだ。