ダメな大人の見本的な人生
82:幻滅させたい
週の真ん中。
美来はスナックみさのカウンターでいつも通り酒を飲んでいた。テーブル席でいつも通りの様子の常連客達が、楽しそうに話をしている様子を聞き流しながら。
ドアのベルが鳴る。振り返って確認する事すらも億劫で、美来はビールを口に含んだ。
隣に座った誰かをちらりと確認すると、やっぱりハルだった。美来は何事もなかったように視線を正面の酒が飾ってある棚に戻して、またビールを飲む。何も喋らない二人の間にある沈黙は、さして痛くもない。この前のホテルに比べたら可愛いくらいだと思った。
そして衣織も実柚里も来なくなったスナックはまた、大人だけの休息場と化していた。
「あの後、衣織と話した?」
ハルはカウンターに肘をつくと、気だるげな様子で問いかける。
「話したよ。私たちがホテルに入っていくところ見てたんだって。あの後教えてもらったの」
美来がそう言うと、ハルは鼻で笑った。
「衣織らしさ全開だな。じゃあなに。俺、殺されるって事?」
「確かに。そういうことになるんじゃない?」
「助けてくれよ」
「ごめんなさい、さようなら。あの夜の事は忘れないから」
あの夜をネタとして昇華することができるのだから、二人の関係はこれから先もおそらくなんの問題もない。
美来の言葉を聞くとハルは「色気がねーんだよな」と言って笑った。
「で? 私はもう喋ったけど」
美来はハルも何かあった事を確信していた。そうでなければわざわざ衣織との事なんて興味のない話題を引っ張っては来ないだろうから。
「実柚里に泣かれた」
想定内と言えば想定内。しかし、実柚里が泣いているところはどうやっても想像ができなかった。
「実柚里が衣織を問い詰めて、で、衣織が自分が見たことを話したらしい」
ハルは「衣織の事責めんなよ」と添える程度、でも優しさを滲ませて言う。
わかっている。責めるなんてお門違いだ。これは自分たちのまいた種なんだから。誰を責める権利もない。
「最後に会いたいって言うから行ったんだよ」
「……なんて言われたの?」
「『それでハルさんは幸せになれるの?』って」
〝幸せになれるの〟か。
随分と漠然としている。
幸せなんて、漠然としたものなのだ。幸せに形なんてない。
たった一つ何かあったくらいで、幸せと実感できるものではないんだから。
子どもだ。問い詰められて言ってしまう衣織も。本人にわざわざ問い詰めようとする実柚里も。大人はまず、そんなことはしない。
だけど、その子どもらしさに何度も救われてきた。
何度も心を穏やかにしてもらって、大人になって忘れていた感覚を取り戻させてもらった。
思えばあれは紛れもなく、幸せだった。
この瞬間だけを楽しんでいた。本当に、幸せだったのだと思う。
「お前は?」
そう言われて美来は正気に戻った。
「衣織とは切れた?」
「私は、ハルと関係があってもいいって言われた」
美来はハルはもう少し〝あの衣織が?〟という反応を示すのではと思っていたが、「そっか」というだけにとどまっている。
男性には男性の考え方のようなものがあるのだろうか。美来には全くわからなかった。
「どうすんの?」
「もう会わない。ちゃんと後悔して、反省したから」
きっとハルはこの言葉を待っていて、美来もこの言葉を言いたかった。
どれだけダメな大人でも、関わった子どもに未来くらいは与えてやろうという気に。その気にさせてしまった分、諦め所を作ってやろうという気になっているから。
「じゃあ――」
ハルは言葉を続けようとする。
その先の言葉はわかっていた。
だってハルは、不必要に矢継ぎ早に誰かに質問をしたり、自分の身の回りの話を進んでするような男じゃない。
「――俺と付き合って」
これがもし、本当に気のある女に対する態度なら落第点。ハルは大した感情も乗らない声でまるで、ちょっとコンビニ行こうぜ、くらい軽く言うから。
「いいよ。付き合おう」
しかし美来からすれば、その言葉だけでよかった。
付き合というという口約束さえしてしまえば、他人がどう言おうが関係は彼氏と彼女。互いに〝誰かを思えば人を傷つける〟という大義名分ができあがる。
ハルは実柚里に〝これからも幸せだ〟という意味で突き付けたくて。美来は衣織に〝もう二度と会わない〟という意味で突き付けたい。
そして嫌いになればいいと思っている。幻滅すればいいとさえ思っている。
そうして諦めきった先はきっと、甘い期待を持って迎えた未来より、希望があるに決まっている。
利害関係の一致。目的の為なら感情さえ叩き売ることができる。これももしかすると、大人というのかもしれない。
「それからさー」
ハルは少し気を抜いた様子で、今度は少し明るめの声で言う。
「誕生日、おめでとう」
意地悪く笑って言うハルに、美来は顔をしかめた。
「……いいからわざわざ言わなくて」
つい先日、ついに30の誕生日を迎えてしまった。とうとう30までに結婚するという夢はものの見事に打ち砕かれた訳だ。
誕生日がこれほど嬉しくない日はないかもしれない。しかし、キリのいい数字でもある。新しい事を始めるにはうってつけの時なのかもしれない。
美来はタバコをくわえて、安物のライターを何度か指先で滑らせる。ハルはいつも通り灰皿を差し出してくれる。火が付いた後、美来はカウンターの上に置いたタバコの箱の上にライターを乗せて、ハルの方へと滑らせた。
ハルは何を言う事もなくタバコをくわえてライターを滑らせた。ハルは小さく舌打ちをする。
「火」
オイルがなくなったライターにしびれを切らしたハルは美来の方へと顔を向けた。
美来はタバコを口に咥えたままハルの方を振り向いた。ハルの顔がゆっくりと近付いてくる。それはキスをする前の、大人相応の落ち着きを含んで目を伏せた表情に似ている。
二人はタバコの先端をつけ合った。火が美来のタバコから、ハルのタバコに移る。
顔を放してから、美来とハルは同時に煙を吐き出した。
「……彼氏か」
「……彼女か」
燻る煙を見ながら美来とハルは二人して順番に呟いてもう一度タバコを口をつけると、溜息と一緒に煙を吐き出した。
「めんどくさー」
そして同時に、その言葉を吐く。本当にダメな大人だと思いながら。
美来に至っては結婚に必要な条件はまず彼氏だ。お見合いでもするのであれば話は別だが、そんな気はない美来は必然的に彼氏を作ることが絶対条件になってくる。
一体自分はニート時々フリーターと何をしているのだろうと自分の人生を本気で考えていた。
カウンターに戻ってきた美妙子が薄く笑っている。
「あら。ハルくん、タバコ吸ってるの?」
「そう」
ハルは短く返事をして、またタバコをふかす。
「美妙子さん、私達付き合ってみることにしたから」
「なにそれ。面白そう」
美妙子は美来の言葉を聞いて、気持ちを隠さずに笑った。
「じゃあ一杯ずつご馳走しちゃおうかな」
美妙子はそう言うと、日本酒を取り出して二人分のグラスに注いだ。二人の前に差し出すと、自分は飲みかけの氷入りのビールを差し出した。
「乾杯。あなた達とそれから……」
美妙子の乾杯の音頭を聞きながら、美来とハルは酒を手に取った。
「あの子たちの未来に」
そう言われて、美来とハルは目を見開く。
どうやら美妙子にはすべてお見通しらしい。
美来とハルは息をもらして笑うと、「乾杯」とだけ言って三人でグラスを重ねた。
美来はスナックみさのカウンターでいつも通り酒を飲んでいた。テーブル席でいつも通りの様子の常連客達が、楽しそうに話をしている様子を聞き流しながら。
ドアのベルが鳴る。振り返って確認する事すらも億劫で、美来はビールを口に含んだ。
隣に座った誰かをちらりと確認すると、やっぱりハルだった。美来は何事もなかったように視線を正面の酒が飾ってある棚に戻して、またビールを飲む。何も喋らない二人の間にある沈黙は、さして痛くもない。この前のホテルに比べたら可愛いくらいだと思った。
そして衣織も実柚里も来なくなったスナックはまた、大人だけの休息場と化していた。
「あの後、衣織と話した?」
ハルはカウンターに肘をつくと、気だるげな様子で問いかける。
「話したよ。私たちがホテルに入っていくところ見てたんだって。あの後教えてもらったの」
美来がそう言うと、ハルは鼻で笑った。
「衣織らしさ全開だな。じゃあなに。俺、殺されるって事?」
「確かに。そういうことになるんじゃない?」
「助けてくれよ」
「ごめんなさい、さようなら。あの夜の事は忘れないから」
あの夜をネタとして昇華することができるのだから、二人の関係はこれから先もおそらくなんの問題もない。
美来の言葉を聞くとハルは「色気がねーんだよな」と言って笑った。
「で? 私はもう喋ったけど」
美来はハルも何かあった事を確信していた。そうでなければわざわざ衣織との事なんて興味のない話題を引っ張っては来ないだろうから。
「実柚里に泣かれた」
想定内と言えば想定内。しかし、実柚里が泣いているところはどうやっても想像ができなかった。
「実柚里が衣織を問い詰めて、で、衣織が自分が見たことを話したらしい」
ハルは「衣織の事責めんなよ」と添える程度、でも優しさを滲ませて言う。
わかっている。責めるなんてお門違いだ。これは自分たちのまいた種なんだから。誰を責める権利もない。
「最後に会いたいって言うから行ったんだよ」
「……なんて言われたの?」
「『それでハルさんは幸せになれるの?』って」
〝幸せになれるの〟か。
随分と漠然としている。
幸せなんて、漠然としたものなのだ。幸せに形なんてない。
たった一つ何かあったくらいで、幸せと実感できるものではないんだから。
子どもだ。問い詰められて言ってしまう衣織も。本人にわざわざ問い詰めようとする実柚里も。大人はまず、そんなことはしない。
だけど、その子どもらしさに何度も救われてきた。
何度も心を穏やかにしてもらって、大人になって忘れていた感覚を取り戻させてもらった。
思えばあれは紛れもなく、幸せだった。
この瞬間だけを楽しんでいた。本当に、幸せだったのだと思う。
「お前は?」
そう言われて美来は正気に戻った。
「衣織とは切れた?」
「私は、ハルと関係があってもいいって言われた」
美来はハルはもう少し〝あの衣織が?〟という反応を示すのではと思っていたが、「そっか」というだけにとどまっている。
男性には男性の考え方のようなものがあるのだろうか。美来には全くわからなかった。
「どうすんの?」
「もう会わない。ちゃんと後悔して、反省したから」
きっとハルはこの言葉を待っていて、美来もこの言葉を言いたかった。
どれだけダメな大人でも、関わった子どもに未来くらいは与えてやろうという気に。その気にさせてしまった分、諦め所を作ってやろうという気になっているから。
「じゃあ――」
ハルは言葉を続けようとする。
その先の言葉はわかっていた。
だってハルは、不必要に矢継ぎ早に誰かに質問をしたり、自分の身の回りの話を進んでするような男じゃない。
「――俺と付き合って」
これがもし、本当に気のある女に対する態度なら落第点。ハルは大した感情も乗らない声でまるで、ちょっとコンビニ行こうぜ、くらい軽く言うから。
「いいよ。付き合おう」
しかし美来からすれば、その言葉だけでよかった。
付き合というという口約束さえしてしまえば、他人がどう言おうが関係は彼氏と彼女。互いに〝誰かを思えば人を傷つける〟という大義名分ができあがる。
ハルは実柚里に〝これからも幸せだ〟という意味で突き付けたくて。美来は衣織に〝もう二度と会わない〟という意味で突き付けたい。
そして嫌いになればいいと思っている。幻滅すればいいとさえ思っている。
そうして諦めきった先はきっと、甘い期待を持って迎えた未来より、希望があるに決まっている。
利害関係の一致。目的の為なら感情さえ叩き売ることができる。これももしかすると、大人というのかもしれない。
「それからさー」
ハルは少し気を抜いた様子で、今度は少し明るめの声で言う。
「誕生日、おめでとう」
意地悪く笑って言うハルに、美来は顔をしかめた。
「……いいからわざわざ言わなくて」
つい先日、ついに30の誕生日を迎えてしまった。とうとう30までに結婚するという夢はものの見事に打ち砕かれた訳だ。
誕生日がこれほど嬉しくない日はないかもしれない。しかし、キリのいい数字でもある。新しい事を始めるにはうってつけの時なのかもしれない。
美来はタバコをくわえて、安物のライターを何度か指先で滑らせる。ハルはいつも通り灰皿を差し出してくれる。火が付いた後、美来はカウンターの上に置いたタバコの箱の上にライターを乗せて、ハルの方へと滑らせた。
ハルは何を言う事もなくタバコをくわえてライターを滑らせた。ハルは小さく舌打ちをする。
「火」
オイルがなくなったライターにしびれを切らしたハルは美来の方へと顔を向けた。
美来はタバコを口に咥えたままハルの方を振り向いた。ハルの顔がゆっくりと近付いてくる。それはキスをする前の、大人相応の落ち着きを含んで目を伏せた表情に似ている。
二人はタバコの先端をつけ合った。火が美来のタバコから、ハルのタバコに移る。
顔を放してから、美来とハルは同時に煙を吐き出した。
「……彼氏か」
「……彼女か」
燻る煙を見ながら美来とハルは二人して順番に呟いてもう一度タバコを口をつけると、溜息と一緒に煙を吐き出した。
「めんどくさー」
そして同時に、その言葉を吐く。本当にダメな大人だと思いながら。
美来に至っては結婚に必要な条件はまず彼氏だ。お見合いでもするのであれば話は別だが、そんな気はない美来は必然的に彼氏を作ることが絶対条件になってくる。
一体自分はニート時々フリーターと何をしているのだろうと自分の人生を本気で考えていた。
カウンターに戻ってきた美妙子が薄く笑っている。
「あら。ハルくん、タバコ吸ってるの?」
「そう」
ハルは短く返事をして、またタバコをふかす。
「美妙子さん、私達付き合ってみることにしたから」
「なにそれ。面白そう」
美妙子は美来の言葉を聞いて、気持ちを隠さずに笑った。
「じゃあ一杯ずつご馳走しちゃおうかな」
美妙子はそう言うと、日本酒を取り出して二人分のグラスに注いだ。二人の前に差し出すと、自分は飲みかけの氷入りのビールを差し出した。
「乾杯。あなた達とそれから……」
美妙子の乾杯の音頭を聞きながら、美来とハルは酒を手に取った。
「あの子たちの未来に」
そう言われて、美来とハルは目を見開く。
どうやら美妙子にはすべてお見通しらしい。
美来とハルは息をもらして笑うと、「乾杯」とだけ言って三人でグラスを重ねた。