ダメな大人の見本的な人生

84:これが青天の霹靂

 ハルと同棲を始めて一か月がたった。

 同棲生活にも慣れてきたところだ。今のところ大きな問題はない。
 朝一緒にコーヒーを飲んで出勤したいという案外乙女な考えを持っているのだがハルが起きてこないとか。あと洗濯物や料理を一緒にするという同棲独特の楽しみを味わいたいと案外乙女なことを考えているのに、ハルが一人でさっさと終わらせる、とか。

 朝コーヒーや共同作業はさすがに本当のカップルみたい過ぎてキモイかな、とかいろいろなことを考えた結果「家事を一緒にやりたいんだけど」と言ってみたことはあったが、ハルは少し考えてから「いや、効率悪くね?」と言った。冷静に考えて、確かに、となった美来が身を引いて、それから美来が料理をしていればハルは風呂掃除をする。と言って具合で完全に分担されている。

 なんだか、そうだけどそうじゃない感が強い同棲だが、まあ同棲と言っても(仮)だしと思えば特に大きな不満はない。

 理解してはいるが、ハルが寝ている寝室の隣のリビングで一人で準備をしていると、衣織との朝を思い出してしまう。ハロウィンのイベントが終わった、そのまま泊まっていった日の平日の朝。あの最高の朝を思い出してしまう。そして嫌でも、衣織が好きだと認識する。

 しかし、別に楽しむ為に同棲を始めた訳ではないと、センチメンタルになるギリギリのところで持ち直す。

 あの二人も本当にダメな大人だと幻滅してくれた頃なのではないか。それが目的での同棲なのだ。どうしてあんな人たちの事が好きだったのだろうといつか思ってくれるなら、それでいい。
 どうして自分たちが好きだと知っていて顔見知りと平気な顔でホテルに行けるのか、そして付き合う事ができるのか。救いようがないほどダメな大人だと思ってくれれば、別にそれでいい。

 美来は自分が仕事に行っている間にハルが何をしているのかは知らないが、家の事はきちんとやってくれている。一人暮らしの男性というのは心強い。
 そしてハルは自分の分のお金は自分で出しているので、美来はハルの生活にまで干渉するつもりはなかった。

 それに何よりも、帰ってきたときの安心感がある。誰であろうと「おかえり」と言ってもらえると嬉しいものだ。

 付き合っている事は偽装。だけど、しばらくは一緒にいようと思う相手だ。彼氏でもなく、配偶者でもない。かといって友達でもなければ、セフレでもない。
 これは一体どういう関係なのだと思いながらも、特に深く気にしてもしょうがない事だと思う。

 あの二人が幻滅してくれるまでこうやって待つだけだ。その代償にハルは衣織を、美来は実柚里という存在を失ってしまうわけだが。世の中では何もかも手に入れようとする人間は傲慢と言われる。
 だから、これでよかったのだ。

 気が付けば年末。つい最近まで秋だか冬だかわからない季節だと思っていたのに、もうすっかり冬だ。
 今日は仕事納めをしてから、ハルと二人でスナック収めに行こうという話をしていた。その楽しみがあるだけでワクワクする。だからこんな関係も悪くないなと思うのだ。

 なんだかんだ、ハルと一緒にいると楽しい。しかしこれはきっとある程度の期限で切れると分かっているから楽しいのであって、これから先もずっと一緒にいなければいけないと思うと、おそらく話が変わってくるのだと思う。

「ただいま~」

 美来は上機嫌でそういう。ハルからの返事はない。しかし別に、付き合ってもいない関係のハルに嬉しそうに玄関まで駆けてくるという、まるで衣織のような反応を期待してはいない。

「おかえり」

 リビングのドアを開けると、ハルは気だるそうに言ってくれる。そして単純な美来は、帰ってきて誰かが家にいるのっていいな、と思うのだ。大人というのは複雑そうに見えて、案外単純だ。

 もしおかえりと言ってくれるのが衣織だったらどれくらい嬉しいのだろう。いつもいつも無意識に頭に浮かぶ。
 そして自分がそんな事を考える時、きっとハルも同じことを考えているのだろうと思った。実柚里がただいまと笑ってくれたら、どれくらい嬉しいのだろうときっと思っているはずだ。

 一か月生活をしていてお互いの気持ちが手に取るようにわかっているのに、絶対に触れない。それは時々、今ハルという存在が間違いなく一番近くにいるのに、一番遠い人間に感じる。

「美来、コレ」

 そういってハルはソファーに座ったまま封筒を手渡してきた。

「なに? コレ」

 何かの書類かと思い、美来はバッグを床に置いて受け取った封筒を開けた。

「生活費」

 そこには一万円札が数枚入っていた。
 万年金欠のハルが、生活費を渡している?
 現状を理解できなくなった美来は、信じられない気持ちでハルを見る。しかしハルは、何の気もない様子でテレビを見ていた。

「……一応聞くけど」
「なんだよ」
「このお金、どうしたの……?」
「どうしたって、稼いだんだけど」
「稼いだのね、借りたんじゃなくて。で、どんな方法で稼いだの……?」

 不審そうに自分を見る視線に気付いたハルは、テレビから美来に視線を移した。

「いや、変な所で借りたりヤバい仕事した訳じゃねーよ」

 本当かよ? という疑いの視線を緩めない美来に、ハルは説明が面倒になったようで、テレビに視線を移した。

「普通に俺が稼いだ金。だから、パソコン借りるって言ったろ」

 そこで一か月前の出来事とリンクする。てっきりネットにでも浸る為にパソコンをと思ったが、仕事をするために必要だったのか。

「ハル……そんな能力あったの?」
「能ある鷹は爪を隠すんだよ」

 ハルはドヤ顔でそう言うが、今度は美来の方が興味が失せてさっさとバッグを拾ってダイニングテーブルに放ってからキッチンに移動する。

「じゃあありがたくいただいとくね、生活費」
「おー。貰っとけ貰っとけ」

 しかし、自分の分の生活費なのだからハルの言う貰っとけは何だか違う気がするが、美来は気にすることをやめてキッチンに立ってコーヒーを入れた。
 ここ一か月でハルは夜にコーヒーを飲まない事が分かったので、わざわざ声をかけたりはしない。

 美来はコーヒーを飲んで準備をしてから二人でスナックに向かった。
 もうすっかり冬だ。マフラーも手袋も手放せない。

「お邪魔します」
「どうぞ」

 ハルの返事を聞いてから、美来はハルと腕を組んだ。
 どんな時でも抜かりなく。もし二人に見られていた時の事を考えて、距離を縮めて外を歩く。本当にダメな大人だと思う。

「いらっしゃい」

 いつも通りの美妙子の声に、やはり温かい気持ちになる。
 二人でカウンター席に座ると、美妙子が酒を出してくれる。そして、常連のテーブルに向かった美妙子を視線で追った後、美来はハルを見た。

「私さ、美妙子さんの『いらっしゃい』って言う声、大好きなんだよね。わかる?」
「わかる。俺も思ってた」

 お互いに、お互いと関わる雰囲気がなんだか優しくなっていることに気付いていた。
 こういうのも、悪くないかもしれないとすら思う。

 美来はタバコに火をつけた後、箱の上にライターを乗せてハルに差し出す。ハルとタバコを吸うのは嫌いじゃない。
 ハルは何を言う事もなく、タバコを取り出して火をつけた。

「そういえば聞いた~? ハルくんに美来ちゃん!」

 いつものテーブル席から斉藤が声を張る。
 美来とハルはタバコを吸いながら斉藤の方を振り返った。

「衣織くんと実柚里ちゃん、付き合ったんだって」

 予想外の単語の羅列。
 不意を突いて胸を刺されたような気になったのはおそらく、ハルも一緒。
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