ダメな大人の見本的な人生
85:自業自得
同じことをハルも思っているはずだと思った。
やはりハルは同じタイミングでふきだして、二人で声をそろえて笑った。
あの二人が付き合ってる。まさか、そんな訳がない。
「ないない。あの二人はないよ!」
美来はそういって首を振った。
あの犬猿の仲ともいえる二人が付き合うなんてあるはずがない。
どう考えても性格が合わない。
美来はきっとハルと自分が付き合った事に対する当てつけ、とまでは言わないが、二人が本気で付き合っているわけではないと断言できた。
やはり二人とも、子どもだ。
「なんでそう言い切れるの?」
絶対ないという美来とハルを見て、斉藤は不思議そうに問いかける。
「いっつも喧嘩してばっかで、意見が全く合わない実柚里と衣織が付き合うなんて、天変地異が起こってもない」
そういって笑いを噛み殺すハルに、斉藤は口をへの字に曲げた。
「いつもいい合いばっかりしてるのは、本当に実柚里ちゃんと衣織くんだけかなー」
斉藤にそう言われて、美来とハルは思わず押し黙った。
美来もハルもいつも喧嘩ばかりしている。スナックだろうが家だろうが。美来は、確かに、という言葉しか出てこなかった。
「いいじゃないの。誰が誰と付き合ったって。楽しいなら」
美妙子はそういって、美来とハルの二人をカウンターに誘導した。二人にビールを出してから、美妙子は斉藤と藤ヶ谷の座る席に移動する。
「……嫌がらせ、みたいなものかな?」
「じゃねーの。しらね」
美来はハルを見ながら問いかけるが、当のハルは大して興味もない様子でカウンターの後ろに並んだ酒の棚を眺めながら返事をする。
もう少し話を広げてくれてもいいのではと思ったが、ハルは自分で考えて答えの出ない事は、つまり考えても仕方のない事は考えない。
それでも頭の中には衣織が過る。そして裏切ってしまった実柚里に対する罪悪感も湧き上がってくる。
自分で〝こうだ〟と決めた事以外感情が一切ブレなければ、これほど楽なことはないのに。
美来も〝考えても仕方がない事〟と割り切って、ゆっくりと息を吐き切った。
「スナック収めか~」
そう言いながらビールを飲む。
考えても仕方のない事を考えるべきじゃない。当てつけでも、意地悪でも何でもいい。可愛いくらいだ。それだけ好きでいてくれたという事だ。ありがたくその気持ちを受け取ろう。ハルも自分もそれ以上に痛みを与える事を、衣織と実柚里にしてしまっているのだから。
11時を回ればもう、美来とハルはすっかり出来上がっていた。ほんの少し飲み過ぎた理由は、二人の話題が出たからだということは、スナック収めの陰に隠す。
「また5日から開けるからね」
美妙子はそう言われて見送られながら、二人は家までの道を歩いた。
「なんかさあー変な感じだね」
「何が?」
「今まではスナックの中であっさりばいばい~って感じだったのがさ、一緒の家に帰るって」
「人生何があるかわかんねーな」
「……あ、そうだ。忘れてた」
美来はそういってハルに手を差し出す。ハルはその手を握った。いつもよりずっと力が強い。きっとハルも寂しいのだろうと思った。大人というのは本当に嫌だ。寂しいという言葉さえ、強がって素直に出せなくなる。
「お酒って飲むと楽しいけどさ、醒めた後って後悔するよね」
「前のホテルの事言ってんの?」
「ううん、全部。なんか虚しくなるの」
「アル中に片足ツッコんでんじゃねーか。気をつけろよ」
ハルからの〝気をつけろよ〟にさえなんだか心を持って行かれそうだから、おそらく今は相当メンタルがグラついているのだろうと、失礼ながら勝手に指針にさせてもらってもらう。
美来がつぎはぎの幸せに浸っていると、ハルのスマホが短く鳴った。メッセージが届いた様で、ハルは美来と繋いでいない方の手でスマホを開いて、それから動かなくなった。
「どうしたの?」
「実柚里と衣織の写真。見る?」
「……うん、見る」
返事を聞くと、ハルは美来の方へとスマホを傾ける。
そこには斉藤から送られてきた写真があった。衣織と実柚里がスナックで楽しそうに話をしながら笑っている所だった。
「こんなの、普通に笑ってるだけ、」
美来が笑いながらそういっている途中でまた送られてきたのは動画だった。
嫌な予感がしたのはおそらく、ハルも一緒。ハルは今度は、何も言わずに動画を再生した。
〈やめてよ〉
そういって衣織は少しうっとおしそうにカメラに向かって手をかざすが、カメラはそれを避けて衣織を 映し続けている。
〈美来ちゃんとハルくんが信じてくれないんだよ〉
〈別に信じてもらわなくていいよ〉
いつも通り、なのだと思った。他人にはいつもこれくらいのトーンで話しているのだと思う。しかし、衣織の優しい声を聴きなれている美来にはその衣織の声が冷たく聞こえて。いつも自分にかけてくれる口調とはだいぶ違っていたからだ。
カメラのアングルは衣織から実柚里に移動する。
〈実柚里ちゃん、何か一言ないの?〉
〈幸せになります。意地でもね!!〉
実柚里はすこしおどけた感じで、しかしキリっとした顔でそういう。そして斉藤が二人を写した。
〈付き合ってるって証明してほしいんだけど〉
なんて無茶ぶりをするんだ。そんな事出来るはずが
〈すぐ消してね〉
そう思っていたのに、衣織は一言言い添えて、実柚里に軽くキスをした。
スナック全体が絶好調で盛り上がっている所で動画は切れる。一分とない動画に、大人二人が真剣にかじりついていた。
二人が、キスをしている。
衣織と実柚里が。本当に付き合っている。
そう認識した頭は、酔いを押しのけて悲しさを叩きつけてくる。
「……本当なのかな……? 付き合ってるって」
ハルに問いかけてみる。しかし、美来のほしい答えはもう既に決まっていた。
「実柚里が衣織とキスすると思うか?」
ハルはいつも通りに聞こえる口調でそういう。
「……思わない」
「じゃ、そういうことなんじゃねーの」
ハルはそういって歩き出した。ハルの中ではこれも〝考えても仕方のない事〟になるのだろうか。美来は歩きだしたハルの後ろにとぼとぼと続いた。
無言。しかし、痛くもかゆくもない。必要な無言だ。それぞれ考えなければいけない事が山ほどある。
付き合うという報告を聞くのは、こんなに痛かっただろうか。胸を抉られる痛みは、もうどうしようもなくなってしまったんだと思う痛みは、いつぶりだろう。学生時代以来ではないか。胸が痛くなって、堪らなくなって、耐え忍ぶしかない、この痛みは。
好きな人に別の恋人ができた。その苦しみを、どうやって乗り越えていたのか、今はもう、思い出せない。
いつの間にか帰り着いた家のドアのカギを、ハルが慣れた様子で開ける。
こんなはずじゃなかった。自分がこれ以上傷つくなんて思っていなかった。
傷付けてごめんね、可哀想なことをしたな、なんて、上から目線で思っていたのに。
玄関でハルが靴を脱ごうとしている後ろで美来がぼんやりと考えていた。ハルは振り返ると、美来の横から手を伸ばして鍵をかけた。
「ぼーっとしすぎ」
ハルはそういうが、いつもに比べるとハルもぼーっとしていると思う。
「……ハル」
「うん」
今にも額同士が当たりそうになるくらいの距離で、二人は動きを止めた。
「キスしていい?」
美来は一応そう問いかける。ハルは少ししてから、身を屈めて美来にキスをした。美来が頭を後ろに下げて唇を放すと、ハルが押し付ける様な口付けをする。美来の後頭部が後ろのドアに当たって、髪が擦れる音が聞こえるくらい、激しく。
「時間が経てば、どうせ忘れられる」
言い聞かせるみたいにハルは言う。一体、誰に言い聞かせているのだろう。
ハルはキスをすることをやめなくて、美来は応える事をやめなかった。
学生の檻の中に閉じ込められていた頃。つまりまだ、純粋だった頃。どうやって失恋の傷を癒していたのか、なにも思い出せない。
なにも思い出せないけど、寂しいという事も、心に空いた穴を埋めてほしいという事も、互いに手に取るようにわかっていて、相手がわかっている事を、わかっている。
不文律。
暗黙の了解。
行き場のない気持ちを自分すら気付かないくらい深い腹の奥に沈みこませる。そして長い時間をかけて腐敗させる。
大人というのは本当に、どうしようもない。
やはりハルは同じタイミングでふきだして、二人で声をそろえて笑った。
あの二人が付き合ってる。まさか、そんな訳がない。
「ないない。あの二人はないよ!」
美来はそういって首を振った。
あの犬猿の仲ともいえる二人が付き合うなんてあるはずがない。
どう考えても性格が合わない。
美来はきっとハルと自分が付き合った事に対する当てつけ、とまでは言わないが、二人が本気で付き合っているわけではないと断言できた。
やはり二人とも、子どもだ。
「なんでそう言い切れるの?」
絶対ないという美来とハルを見て、斉藤は不思議そうに問いかける。
「いっつも喧嘩してばっかで、意見が全く合わない実柚里と衣織が付き合うなんて、天変地異が起こってもない」
そういって笑いを噛み殺すハルに、斉藤は口をへの字に曲げた。
「いつもいい合いばっかりしてるのは、本当に実柚里ちゃんと衣織くんだけかなー」
斉藤にそう言われて、美来とハルは思わず押し黙った。
美来もハルもいつも喧嘩ばかりしている。スナックだろうが家だろうが。美来は、確かに、という言葉しか出てこなかった。
「いいじゃないの。誰が誰と付き合ったって。楽しいなら」
美妙子はそういって、美来とハルの二人をカウンターに誘導した。二人にビールを出してから、美妙子は斉藤と藤ヶ谷の座る席に移動する。
「……嫌がらせ、みたいなものかな?」
「じゃねーの。しらね」
美来はハルを見ながら問いかけるが、当のハルは大して興味もない様子でカウンターの後ろに並んだ酒の棚を眺めながら返事をする。
もう少し話を広げてくれてもいいのではと思ったが、ハルは自分で考えて答えの出ない事は、つまり考えても仕方のない事は考えない。
それでも頭の中には衣織が過る。そして裏切ってしまった実柚里に対する罪悪感も湧き上がってくる。
自分で〝こうだ〟と決めた事以外感情が一切ブレなければ、これほど楽なことはないのに。
美来も〝考えても仕方がない事〟と割り切って、ゆっくりと息を吐き切った。
「スナック収めか~」
そう言いながらビールを飲む。
考えても仕方のない事を考えるべきじゃない。当てつけでも、意地悪でも何でもいい。可愛いくらいだ。それだけ好きでいてくれたという事だ。ありがたくその気持ちを受け取ろう。ハルも自分もそれ以上に痛みを与える事を、衣織と実柚里にしてしまっているのだから。
11時を回ればもう、美来とハルはすっかり出来上がっていた。ほんの少し飲み過ぎた理由は、二人の話題が出たからだということは、スナック収めの陰に隠す。
「また5日から開けるからね」
美妙子はそう言われて見送られながら、二人は家までの道を歩いた。
「なんかさあー変な感じだね」
「何が?」
「今まではスナックの中であっさりばいばい~って感じだったのがさ、一緒の家に帰るって」
「人生何があるかわかんねーな」
「……あ、そうだ。忘れてた」
美来はそういってハルに手を差し出す。ハルはその手を握った。いつもよりずっと力が強い。きっとハルも寂しいのだろうと思った。大人というのは本当に嫌だ。寂しいという言葉さえ、強がって素直に出せなくなる。
「お酒って飲むと楽しいけどさ、醒めた後って後悔するよね」
「前のホテルの事言ってんの?」
「ううん、全部。なんか虚しくなるの」
「アル中に片足ツッコんでんじゃねーか。気をつけろよ」
ハルからの〝気をつけろよ〟にさえなんだか心を持って行かれそうだから、おそらく今は相当メンタルがグラついているのだろうと、失礼ながら勝手に指針にさせてもらってもらう。
美来がつぎはぎの幸せに浸っていると、ハルのスマホが短く鳴った。メッセージが届いた様で、ハルは美来と繋いでいない方の手でスマホを開いて、それから動かなくなった。
「どうしたの?」
「実柚里と衣織の写真。見る?」
「……うん、見る」
返事を聞くと、ハルは美来の方へとスマホを傾ける。
そこには斉藤から送られてきた写真があった。衣織と実柚里がスナックで楽しそうに話をしながら笑っている所だった。
「こんなの、普通に笑ってるだけ、」
美来が笑いながらそういっている途中でまた送られてきたのは動画だった。
嫌な予感がしたのはおそらく、ハルも一緒。ハルは今度は、何も言わずに動画を再生した。
〈やめてよ〉
そういって衣織は少しうっとおしそうにカメラに向かって手をかざすが、カメラはそれを避けて衣織を 映し続けている。
〈美来ちゃんとハルくんが信じてくれないんだよ〉
〈別に信じてもらわなくていいよ〉
いつも通り、なのだと思った。他人にはいつもこれくらいのトーンで話しているのだと思う。しかし、衣織の優しい声を聴きなれている美来にはその衣織の声が冷たく聞こえて。いつも自分にかけてくれる口調とはだいぶ違っていたからだ。
カメラのアングルは衣織から実柚里に移動する。
〈実柚里ちゃん、何か一言ないの?〉
〈幸せになります。意地でもね!!〉
実柚里はすこしおどけた感じで、しかしキリっとした顔でそういう。そして斉藤が二人を写した。
〈付き合ってるって証明してほしいんだけど〉
なんて無茶ぶりをするんだ。そんな事出来るはずが
〈すぐ消してね〉
そう思っていたのに、衣織は一言言い添えて、実柚里に軽くキスをした。
スナック全体が絶好調で盛り上がっている所で動画は切れる。一分とない動画に、大人二人が真剣にかじりついていた。
二人が、キスをしている。
衣織と実柚里が。本当に付き合っている。
そう認識した頭は、酔いを押しのけて悲しさを叩きつけてくる。
「……本当なのかな……? 付き合ってるって」
ハルに問いかけてみる。しかし、美来のほしい答えはもう既に決まっていた。
「実柚里が衣織とキスすると思うか?」
ハルはいつも通りに聞こえる口調でそういう。
「……思わない」
「じゃ、そういうことなんじゃねーの」
ハルはそういって歩き出した。ハルの中ではこれも〝考えても仕方のない事〟になるのだろうか。美来は歩きだしたハルの後ろにとぼとぼと続いた。
無言。しかし、痛くもかゆくもない。必要な無言だ。それぞれ考えなければいけない事が山ほどある。
付き合うという報告を聞くのは、こんなに痛かっただろうか。胸を抉られる痛みは、もうどうしようもなくなってしまったんだと思う痛みは、いつぶりだろう。学生時代以来ではないか。胸が痛くなって、堪らなくなって、耐え忍ぶしかない、この痛みは。
好きな人に別の恋人ができた。その苦しみを、どうやって乗り越えていたのか、今はもう、思い出せない。
いつの間にか帰り着いた家のドアのカギを、ハルが慣れた様子で開ける。
こんなはずじゃなかった。自分がこれ以上傷つくなんて思っていなかった。
傷付けてごめんね、可哀想なことをしたな、なんて、上から目線で思っていたのに。
玄関でハルが靴を脱ごうとしている後ろで美来がぼんやりと考えていた。ハルは振り返ると、美来の横から手を伸ばして鍵をかけた。
「ぼーっとしすぎ」
ハルはそういうが、いつもに比べるとハルもぼーっとしていると思う。
「……ハル」
「うん」
今にも額同士が当たりそうになるくらいの距離で、二人は動きを止めた。
「キスしていい?」
美来は一応そう問いかける。ハルは少ししてから、身を屈めて美来にキスをした。美来が頭を後ろに下げて唇を放すと、ハルが押し付ける様な口付けをする。美来の後頭部が後ろのドアに当たって、髪が擦れる音が聞こえるくらい、激しく。
「時間が経てば、どうせ忘れられる」
言い聞かせるみたいにハルは言う。一体、誰に言い聞かせているのだろう。
ハルはキスをすることをやめなくて、美来は応える事をやめなかった。
学生の檻の中に閉じ込められていた頃。つまりまだ、純粋だった頃。どうやって失恋の傷を癒していたのか、なにも思い出せない。
なにも思い出せないけど、寂しいという事も、心に空いた穴を埋めてほしいという事も、互いに手に取るようにわかっていて、相手がわかっている事を、わかっている。
不文律。
暗黙の了解。
行き場のない気持ちを自分すら気付かないくらい深い腹の奥に沈みこませる。そして長い時間をかけて腐敗させる。
大人というのは本当に、どうしようもない。