ダメな大人の見本的な人生
87:別部類
「三澄さんのファンの子ですか?」
田上は実柚里を見て不思議そうにハルに問いかける。
〝三澄さん〟という単語も聞きなれなければ〝ファン〟だなんてもってのほかだ。
ハルのファン……。しかし、実柚里のいう事が本当ならそういう事になるのだろう。
田上が会社の社長。そして実柚里の好きなクリエイター、覆面アルファの正体。そして田上が社長なら、同じ会社経営者の葵と知り合いだったことも頷ける。
しかしハルが元社長という事実を、美来はまだ飲み込み切れていなかった。今見る限りでは、というより美来が知っている限りでは、ハルという男のどこにも社長感もなければ覆面をかぶって喋っている所も思い浮かばない。
状況から察するに事実なのだろうが、全くと言っていいほどイメージが湧かない。
このハルが〝どうも!〟と元気にテンションを上げているところなんて脳内で再生しようとしてもぼやけてもはや全身モザイクがかかっていると言ってもいいほど過言ではなく、それくらい脳内再生ができなかった。
周りの騒がしさに慣れた様子のハルは、やはり振り回される事なくいつも通りに酒を飲んでいる。
田上は混乱しながらも現状を把握しようと諦めている様子はなくて、美来は唖然としていて、それ以上に唖然として状況を飲み込もうとしているのは実柚里だった。
美妙子はのれんの向こうからやってきて「どうしたの?」と不思議そうにハルに問いかけている。
実柚里は何か言いたげに口をひらいてはつぐんでを数回繰り返した後、座ることも何かをいう事もなく踵を返して帰って行った。
いつも通りのハル、その隣に立ち尽くしている美来と、少し離れた所に立ったままの田上。それから三人を視線でなぞる美妙子。
「……二人ともとりあえず座ったら?」
美妙子は状況をわかっているのか、それともわからないままなのか。いつも通りの穏やかな口調でそう言って、田上と美来の座る様に促した。
田上は場の様子に視線を巡らせた後、まるで面接官が〝どうぞおかけください〟とでも言うように、ハルの隣を手で案内しながら口を開いた。
「よかったら、美来さんも一緒にどうですか?」
「……はい、ありがとうございます」
田上に促されるまま、美来はハルの隣に一つあけて座った。
美来は席に座ってから横目でハルを見る。
ちゃらんぽらんしているだけだと思っていたハルが元社長。しかもチャンネルの規模も大きかったし。100万人を超えていた。とんでもない影響力だ。
「なんだよ」
ハルはやる気がなさそうないつもの声で、しかし言いたいことがあるならどうぞ、とでも言いたげな少し優しさの混じった口調で言う。
「……いや……別に……」
しかしなんだか〝ハルは実は凄い人〟というイメージが何となく浮かんで、変に口を開く気に慣れなかった。
「それにしても、こんなところで偶然会うなんて思いませんでしたよ。……しかも知り合いが知り合いって、世間は狭いですね」
どちらともが反応をしやすいように、田上は相変わらず完璧に会話の流れを作ってくれる。
「本当ですね」
しかしまだ混乱している美来は気の利いた事一つ言えなかった。ちゃらんぽらんしていると思っていたハルが元社長だった衝撃がまだあって。
「今日は僕が三澄さんを誘ったんですよ。久しぶりに話がしたくなって」
田上は当事者だというのに我関せずのハルも、気の利かない美来の事も、なにも気にもしていないという様子で話を続けてくれる。
一方美来はまた〝三澄さん〟という慣れない単語を聞いてパニックになりつつあった。美来の中ではもう〝三澄春登〟という言葉でひと単語だ。もしくは〝ハル〟。
ハルがこれまでフルネームを他人に知られる事を避けていた理由を理解した。きっとネットで調べれば一発で出てくるのだろう。経歴や顔や、覆面アルファとして活動していた時の動画まで。葵の時の様に。
「社長時代は凄く優秀だったんですよ、三澄さん。社員からの評価はまあ……良いと悪いが両極端でしたが……」
田上は少し困った様子で眉をひそめた困り笑いを作った。
ハルという男は断じて万人に好かれる人間ではない。テキトーだし、口は悪いし、無責任だし。ただ、わかる人にはよくわかる魅力を持っている事も確かだった。
「本当に戻ってきませんか?」
「絶対にない」
田上はお伺いを立てる様子で言うが、ハルはそれを一刀両断する。ハルがこう言うのだからきっと社長に戻ることはありえないのだろうなと美来は思った。
どうしてハルは社長を辞めたのだろう。会社を経営するというのは忙しいかもしれないが、お金は入ってくるし女の子にはモテるだろうし。いいとこ尽くめなのではと思ったが、〝ハルが忙しい〟というのがそもそも似合わない気がした。
今のハルはおそらく、本当に自然体なのだろう。
田上は会社の現状なんかをハルに話して聞かせている。ハルはそれを大して興味もなさげに聞いていて、田上もそれを気にしていない様子だった。
会話の節々から田上がハルを尊敬していて一目置いている様子が伺える。
きっと二人の関係性は出来上がっているのだろうと感じた。
そのころにはもう、冷静さを取り戻しつつあった。
そうか。ハルは根っから自分と同類だと思っていたが、まともな部類の人間だったのか。そう思うとなんだか寂しい気持ちになるから、意味がわからない。
ハルをみて人間はこんな風でも案外生きていけるのだと思っていたが、実はハルは自分の能力の限界を、高い所を見たことがあって自分の意志で意図的に手放して下がってきた。
明らかに自分とは違う人間だった。それなら、生きていけて当然だ。
美来は帰ってしまった実柚里を思った。
以前実柚里は動画で覆面アルファを見せてくれた時に〝初代が最高〟と言っていた。それはつまり、その場にいたハルは褒めた形になる。実柚里は熱を上げて喋っていたし、おそらく二代目よりも初代のファンなのだろう。褒める方も褒められる方もどんな気持ちでいたのか。そして今は、どんな気持ちでいるのか。
「三澄さんと美来さんはいつからお知り合いなんですか?」
急に話を振られて、美来は背筋を伸ばした。
「……二年くらい前ですね」
「そんなに前から! ここのスナックですか?」
田上はこちらにも気をやって話をしてくれる。自分が阻害されているという感覚がないのは、本当にありがたい事だと思った。
この人は本当に優秀で人の事をよく見ている人なのだろう。しかし、そんな田上が優秀というハルは一体社長としてどれくらい凄い人だったのだろうというのは少し気になるところだ。
「そうです。私から見たハルはいつもこんな感じですよ」
「僕から見た三澄さんもですよー」
田上が茶化すように言うとハルが「おいどういう意味だよ」と田上に言う。田上は笑って「だって」と言い訳を並べている。
美来はビールを口に含んで飲み込んでから、すぐにもう一度グラスに口をつけた。
早いところ二人きりにさせてあげよう。
ハルは別に毎日会う自分はどうでもいだろうし、田上も正直こちらに気を遣わずに二人で気兼ねなく話がしたいだろうと思うから。
それに、今この場所はすごく、息がしにくい。
田上は実柚里を見て不思議そうにハルに問いかける。
〝三澄さん〟という単語も聞きなれなければ〝ファン〟だなんてもってのほかだ。
ハルのファン……。しかし、実柚里のいう事が本当ならそういう事になるのだろう。
田上が会社の社長。そして実柚里の好きなクリエイター、覆面アルファの正体。そして田上が社長なら、同じ会社経営者の葵と知り合いだったことも頷ける。
しかしハルが元社長という事実を、美来はまだ飲み込み切れていなかった。今見る限りでは、というより美来が知っている限りでは、ハルという男のどこにも社長感もなければ覆面をかぶって喋っている所も思い浮かばない。
状況から察するに事実なのだろうが、全くと言っていいほどイメージが湧かない。
このハルが〝どうも!〟と元気にテンションを上げているところなんて脳内で再生しようとしてもぼやけてもはや全身モザイクがかかっていると言ってもいいほど過言ではなく、それくらい脳内再生ができなかった。
周りの騒がしさに慣れた様子のハルは、やはり振り回される事なくいつも通りに酒を飲んでいる。
田上は混乱しながらも現状を把握しようと諦めている様子はなくて、美来は唖然としていて、それ以上に唖然として状況を飲み込もうとしているのは実柚里だった。
美妙子はのれんの向こうからやってきて「どうしたの?」と不思議そうにハルに問いかけている。
実柚里は何か言いたげに口をひらいてはつぐんでを数回繰り返した後、座ることも何かをいう事もなく踵を返して帰って行った。
いつも通りのハル、その隣に立ち尽くしている美来と、少し離れた所に立ったままの田上。それから三人を視線でなぞる美妙子。
「……二人ともとりあえず座ったら?」
美妙子は状況をわかっているのか、それともわからないままなのか。いつも通りの穏やかな口調でそう言って、田上と美来の座る様に促した。
田上は場の様子に視線を巡らせた後、まるで面接官が〝どうぞおかけください〟とでも言うように、ハルの隣を手で案内しながら口を開いた。
「よかったら、美来さんも一緒にどうですか?」
「……はい、ありがとうございます」
田上に促されるまま、美来はハルの隣に一つあけて座った。
美来は席に座ってから横目でハルを見る。
ちゃらんぽらんしているだけだと思っていたハルが元社長。しかもチャンネルの規模も大きかったし。100万人を超えていた。とんでもない影響力だ。
「なんだよ」
ハルはやる気がなさそうないつもの声で、しかし言いたいことがあるならどうぞ、とでも言いたげな少し優しさの混じった口調で言う。
「……いや……別に……」
しかしなんだか〝ハルは実は凄い人〟というイメージが何となく浮かんで、変に口を開く気に慣れなかった。
「それにしても、こんなところで偶然会うなんて思いませんでしたよ。……しかも知り合いが知り合いって、世間は狭いですね」
どちらともが反応をしやすいように、田上は相変わらず完璧に会話の流れを作ってくれる。
「本当ですね」
しかしまだ混乱している美来は気の利いた事一つ言えなかった。ちゃらんぽらんしていると思っていたハルが元社長だった衝撃がまだあって。
「今日は僕が三澄さんを誘ったんですよ。久しぶりに話がしたくなって」
田上は当事者だというのに我関せずのハルも、気の利かない美来の事も、なにも気にもしていないという様子で話を続けてくれる。
一方美来はまた〝三澄さん〟という慣れない単語を聞いてパニックになりつつあった。美来の中ではもう〝三澄春登〟という言葉でひと単語だ。もしくは〝ハル〟。
ハルがこれまでフルネームを他人に知られる事を避けていた理由を理解した。きっとネットで調べれば一発で出てくるのだろう。経歴や顔や、覆面アルファとして活動していた時の動画まで。葵の時の様に。
「社長時代は凄く優秀だったんですよ、三澄さん。社員からの評価はまあ……良いと悪いが両極端でしたが……」
田上は少し困った様子で眉をひそめた困り笑いを作った。
ハルという男は断じて万人に好かれる人間ではない。テキトーだし、口は悪いし、無責任だし。ただ、わかる人にはよくわかる魅力を持っている事も確かだった。
「本当に戻ってきませんか?」
「絶対にない」
田上はお伺いを立てる様子で言うが、ハルはそれを一刀両断する。ハルがこう言うのだからきっと社長に戻ることはありえないのだろうなと美来は思った。
どうしてハルは社長を辞めたのだろう。会社を経営するというのは忙しいかもしれないが、お金は入ってくるし女の子にはモテるだろうし。いいとこ尽くめなのではと思ったが、〝ハルが忙しい〟というのがそもそも似合わない気がした。
今のハルはおそらく、本当に自然体なのだろう。
田上は会社の現状なんかをハルに話して聞かせている。ハルはそれを大して興味もなさげに聞いていて、田上もそれを気にしていない様子だった。
会話の節々から田上がハルを尊敬していて一目置いている様子が伺える。
きっと二人の関係性は出来上がっているのだろうと感じた。
そのころにはもう、冷静さを取り戻しつつあった。
そうか。ハルは根っから自分と同類だと思っていたが、まともな部類の人間だったのか。そう思うとなんだか寂しい気持ちになるから、意味がわからない。
ハルをみて人間はこんな風でも案外生きていけるのだと思っていたが、実はハルは自分の能力の限界を、高い所を見たことがあって自分の意志で意図的に手放して下がってきた。
明らかに自分とは違う人間だった。それなら、生きていけて当然だ。
美来は帰ってしまった実柚里を思った。
以前実柚里は動画で覆面アルファを見せてくれた時に〝初代が最高〟と言っていた。それはつまり、その場にいたハルは褒めた形になる。実柚里は熱を上げて喋っていたし、おそらく二代目よりも初代のファンなのだろう。褒める方も褒められる方もどんな気持ちでいたのか。そして今は、どんな気持ちでいるのか。
「三澄さんと美来さんはいつからお知り合いなんですか?」
急に話を振られて、美来は背筋を伸ばした。
「……二年くらい前ですね」
「そんなに前から! ここのスナックですか?」
田上はこちらにも気をやって話をしてくれる。自分が阻害されているという感覚がないのは、本当にありがたい事だと思った。
この人は本当に優秀で人の事をよく見ている人なのだろう。しかし、そんな田上が優秀というハルは一体社長としてどれくらい凄い人だったのだろうというのは少し気になるところだ。
「そうです。私から見たハルはいつもこんな感じですよ」
「僕から見た三澄さんもですよー」
田上が茶化すように言うとハルが「おいどういう意味だよ」と田上に言う。田上は笑って「だって」と言い訳を並べている。
美来はビールを口に含んで飲み込んでから、すぐにもう一度グラスに口をつけた。
早いところ二人きりにさせてあげよう。
ハルは別に毎日会う自分はどうでもいだろうし、田上も正直こちらに気を遣わずに二人で気兼ねなく話がしたいだろうと思うから。
それに、今この場所はすごく、息がしにくい。